たぶん「リカちゃん世代」をわずかに一歩リードした時代に、お人形遊びに没頭した。いや、田舎と都会でのタイムラグのせいで、リカちゃん世代になりそびれただけかもしれない。ま、どっちにしても、リカちゃんには縁がなかったな。大阪から転校して来たクラスメイトは「リカちゃんハウス」まで持っていたんだけど。
それどころか私にとっての着せ替え人形は、小学館の『小学◯年生』の付録に付いていた、厚紙にカラー印刷された下着姿の人形(ひとがた)を切り取り、ドレスその他の各種衣服(肩の部分に人形に着せるための折り込み付き)を切り取った紙人形だった。それで、せっせと服を着替えさせては、ひとりで飽きる事無く遊び続けた。
私の一途でしつこい性格は、この頃よりすでに萌芽をみせていた。厚紙人形の首が折れ折れになり、ぽろりともげてしまうまで遊んだからだ。まことに「栴檀は双葉より芳し」である。ちょっと違う?
お人形遊びは、疑似お母さん役割をするのでなく、演出家として空想の(というより既製のパクリの)ストーリーを展開していた。紙とはいえ着替えのドレスには、たいてい普通の家庭では絶対保管していないような、舞踏会にいくとしか考えられないお姫様のようなドレスがちゃんと用意されている。
舞踏会といえば、シンデレラのお話は暗記しているから「ぶとうかい」は「(王子さまと)おどる」ことであると、子どもながらに知っていた。「ぶとうかい」には踊りは付き物だが、どうも「葡萄会」という言葉の音からのイメージがあったようで、「ぶどうかい=葡萄酒を飲んでは踊るパーティ」と信じていたフシがある。しかしもしかすると案外マトを得ている真実かもしれない。
舞踏会に行くということは、踊る相手も必要だし、意地悪なライバルも必要だし、親友となる女の子も必要となる。演出家はあちこちからキャストをかき集め、紙の人形は三角の積み木さんとダンスをし、リスの貯金箱と友情をあたためたりするのだった。
メインが着せ替え人形なら、あとはもうなんでもありなのである。幼少時から見立ての技を駆使できるというのも、渋すぎる話でもある。もっともストーリーにオリジナリティのかけらもないのが、最大の難ではあった。
そんなペーパーな日々を過ごした幼年期にも終わりが訪れ、「プレ・リカちゃんなファッションドールの時代」へと変化して行った。
それどころか私にとっての着せ替え人形は、小学館の『小学◯年生』の付録に付いていた、厚紙にカラー印刷された下着姿の人形(ひとがた)を切り取り、ドレスその他の各種衣服(肩の部分に人形に着せるための折り込み付き)を切り取った紙人形だった。それで、せっせと服を着替えさせては、ひとりで飽きる事無く遊び続けた。
私の一途でしつこい性格は、この頃よりすでに萌芽をみせていた。厚紙人形の首が折れ折れになり、ぽろりともげてしまうまで遊んだからだ。まことに「栴檀は双葉より芳し」である。ちょっと違う?
お人形遊びは、疑似お母さん役割をするのでなく、演出家として空想の(というより既製のパクリの)ストーリーを展開していた。紙とはいえ着替えのドレスには、たいてい普通の家庭では絶対保管していないような、舞踏会にいくとしか考えられないお姫様のようなドレスがちゃんと用意されている。
舞踏会といえば、シンデレラのお話は暗記しているから「ぶとうかい」は「(王子さまと)おどる」ことであると、子どもながらに知っていた。「ぶとうかい」には踊りは付き物だが、どうも「葡萄会」という言葉の音からのイメージがあったようで、「ぶどうかい=葡萄酒を飲んでは踊るパーティ」と信じていたフシがある。しかしもしかすると案外マトを得ている真実かもしれない。
舞踏会に行くということは、踊る相手も必要だし、意地悪なライバルも必要だし、親友となる女の子も必要となる。演出家はあちこちからキャストをかき集め、紙の人形は三角の積み木さんとダンスをし、リスの貯金箱と友情をあたためたりするのだった。
メインが着せ替え人形なら、あとはもうなんでもありなのである。幼少時から見立ての技を駆使できるというのも、渋すぎる話でもある。もっともストーリーにオリジナリティのかけらもないのが、最大の難ではあった。
そんなペーパーな日々を過ごした幼年期にも終わりが訪れ、「プレ・リカちゃんなファッションドールの時代」へと変化して行った。
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