地方にはほとんどいないのに、東京都心部の特定のゲーセンにだけいる特別なシューター。
ただ見ているだけの人たちだ。
仮にここでは観客シューターとでも呼ぼうか。
たとえば秋葉原のHEYの2階とかに観客シューターいる。
彼らは何をしているのか。
本当にただ人のシューティングのプレイを見ているだけだ。
彼らは何をしようとしているのか。
まず考えられるのが、お小遣い制でやっている高校生とか、サイフに余裕のない人たち。
なまじプレイしたくてもそうそうプレイできないということは十分考えられる。
しかし、年齢層からいってそれはなさそうな気がする。
もうちょい年上な人たちがそこにいるからだ。
次に考えられるのが、スコアラーの人たち。
うまい人のプレイを見て、その人の編み出したパターンを盗もうとしているということは十分考えられる。
しかし、見られている人の腕前からいってそれはなさそうな気がする。
スコアラーともなるとシューティングやっているわたしが見てもニュータイプに見えるほどの腕前でなければ成り立たないのだが、そこまでのニュータイプがそうそうゴロゴロしているわけでもないからだ。
では、いったい何なんだろうか。
1つ仮説をたててみた。
ゲーセンでシューティングをプレイするということは、自分の財を投じ、そして命がけで戦うことである。
自分の命を守れる者は自分だけだ。
だから熱い。
だからシューティングには熱狂がある。
しかし!
シューティングの熱狂を味わうためには、それなりの腕前が要求される。
とはいえ。
その熱狂は傍から見ているだけでも少しばかりは伝わってくるものだ。
そこで人類は悲しくも2種類の人種に分けられてしまう。
1つは、その熱狂とそのスーパープレイに感動し、いつかは自分もそこへ到達したいと心動かされる者。
もう1つは、その熱狂は伝わりこそすれどスーパープレイを見てヘコまされ、とても自分はそこへは到達できそうにもないと心動く機会を失くしてしまう者。
前者の人々。
彼らは私財を投じてゲーセンでシューティングをプレイし続け、ときには自分の腕前のなさに涙しつつ、ときには自分の腕前以上のところへと到達して狂喜乱舞し、そしていつの間にやら巧くなってゆく。
これは大変望ましい好循環である。
そして後者の人々。
彼らの一方は絶望してシューティングからは距離を置き、また一方は人のプレイを傍から見るだけに徹して人の熱狂のおすそ分けをもらい満足する。
これはもったいない。
わたしはそう思えてしかたがない。
彼らはそこに熱狂があることを知っているにもかかわらず、そこへ踏み込もうともしない。
これをもったいないと言わず何と言おう!
観客シューターよ、戦うべきだ。
我々シューターは君たちが参戦してくるのを待っている。
そして風前の灯火ともいえるシューティング界を共に盛り上げていこうではないか。
ただ見ているだけの人たちだ。
仮にここでは観客シューターとでも呼ぼうか。
たとえば秋葉原のHEYの2階とかに観客シューターいる。
彼らは何をしているのか。
本当にただ人のシューティングのプレイを見ているだけだ。
彼らは何をしようとしているのか。
まず考えられるのが、お小遣い制でやっている高校生とか、サイフに余裕のない人たち。
なまじプレイしたくてもそうそうプレイできないということは十分考えられる。
しかし、年齢層からいってそれはなさそうな気がする。
もうちょい年上な人たちがそこにいるからだ。
次に考えられるのが、スコアラーの人たち。
うまい人のプレイを見て、その人の編み出したパターンを盗もうとしているということは十分考えられる。
しかし、見られている人の腕前からいってそれはなさそうな気がする。
スコアラーともなるとシューティングやっているわたしが見てもニュータイプに見えるほどの腕前でなければ成り立たないのだが、そこまでのニュータイプがそうそうゴロゴロしているわけでもないからだ。
では、いったい何なんだろうか。
1つ仮説をたててみた。
ゲーセンでシューティングをプレイするということは、自分の財を投じ、そして命がけで戦うことである。
自分の命を守れる者は自分だけだ。
だから熱い。
だからシューティングには熱狂がある。
しかし!
シューティングの熱狂を味わうためには、それなりの腕前が要求される。
とはいえ。
その熱狂は傍から見ているだけでも少しばかりは伝わってくるものだ。
そこで人類は悲しくも2種類の人種に分けられてしまう。
1つは、その熱狂とそのスーパープレイに感動し、いつかは自分もそこへ到達したいと心動かされる者。
もう1つは、その熱狂は伝わりこそすれどスーパープレイを見てヘコまされ、とても自分はそこへは到達できそうにもないと心動く機会を失くしてしまう者。
前者の人々。
彼らは私財を投じてゲーセンでシューティングをプレイし続け、ときには自分の腕前のなさに涙しつつ、ときには自分の腕前以上のところへと到達して狂喜乱舞し、そしていつの間にやら巧くなってゆく。
これは大変望ましい好循環である。
そして後者の人々。
彼らの一方は絶望してシューティングからは距離を置き、また一方は人のプレイを傍から見るだけに徹して人の熱狂のおすそ分けをもらい満足する。
これはもったいない。
わたしはそう思えてしかたがない。
彼らはそこに熱狂があることを知っているにもかかわらず、そこへ踏み込もうともしない。
これをもったいないと言わず何と言おう!
観客シューターよ、戦うべきだ。
我々シューターは君たちが参戦してくるのを待っている。
そして風前の灯火ともいえるシューティング界を共に盛り上げていこうではないか。