「それでも世界は美しい」
今期のアニメである。
これ、とくにイケメンがうじゃうじゃ出てくるわけでもないし、あからさまな腐臭がするわけでもない。
だが1話だけでも見れば明らかに少女マンガ原作だと見ればわかる。
なぜか?
直感は明らかに少女マンガ原作だと告げるが、それをうまく説明できない。
それを説明してみようというのが本記事の趣旨である。
少女マンガとは?
少女むけのマンガである。
その対極に少年マンガがある。
少年マンガは少年むけのマンガである。
・・・というのがかつては大前提だったのだが、今はそうではない。
たとえば少年マンガの代表誌である少年ジャンプの看板マンガだった”るろうに剣心”の熱心な読者はほとんどが女。
それ以来、あきらかにメインターゲットを腐った人にしたと思われる”黒子のバスケ”のような作品が定期掲載される時代になった。
そしてだいたい同時期にあった少女マンガ”マリア様がみてる”のオンリーに行けば野郎しかいない時代へと突入。
それ以来、なぜか少女マンガから持ってきた野郎向けアニメが一定の物量をしめるようになる。
だから
「少女マンガとは少女むけのマンガである」
という説明はすでに意味をなさない。
あえていえば、
「少女マンガとは少女むけのレーベルから発売されるマンガである」
と言うべきだ。
もしヤングアニマルが廃刊になりベルセルクが同じ白泉社の花とゆめコミックスから発売されるようになれば、そのときはベルセルクは少女マンガと定義されよう。
しかし。
それはそれで何かおかしい気がしなくもない。
ではどうすればいいか?
今回は”それでも世界は美しい”で少女マンガ原作アニメの典型パターンを分析してみよう。
(1)
野郎むけ、いやもっとしぼって我々のようないわゆるキモオタ向けのアニメには、典型パターンがいくつもある。
たとえば主人公は想定読者とおなじく野郎。
性格はこれといった特徴がない。
人生を受け身でやりすごすことが多く、だいたいすぐに事件に振り回され何かに巻き込まれるか、すでに巻き込まれている。
いっぽう腐むけアニメはどうか?
主人公は想定読者とおなじく女。
ところがどっこい、性格はこれといった特徴がないわけではない。
とても活発で我が強く、だいたいまわりを振り回して独り爆走する。
”それでも世界は美しい”でいえば、OPでメインヒロインが仁王立ちになるシーンと階段のてすりをすべり降りるシーンがあったが、それを見て我輩は「あっ、このパターンのアニメだ」と気がついたものだ。
少年マンガ系アニメにもとても活発で我が強く爆走する熱血主人公もたくさんいるが、キモオタむけアニメはその傾向にはなく、エロゲになるとその排除傾向はさらに強くなる。
(2)
キモオタむけアニメの主人公は(ブサメンではないにせよ)これといって美形だという設定はない。
にもかかわらず複数のヒロインからモテモテになる。
逆に腐むけアニメは女(主人公視点)が美形のパターンが多い。
複数の野郎からモテモテになるのはありがちパターンだが、おもしろいことに使い捨てのモブ役からモテモテになるパターンほうが目につく。
”それでも世界は美しい”でも披露パーティーでモブから手にチューさせろって迫られたシーンがあったが、そういうヤツだ。
これはキモオタむけアニメではあまり多くはない。
突然転校してきたナゾの美少女に抱き付かれることはよくあっても、モブのクラスメイトの女から求愛されるケースは少ない。
逆に、主人公と相思相愛のメインヒロインが絶世の美女で
「なんであの娘があの男とくっつくんだ」
とか
「なんであいつばっかり女にモテるんだ」
とか脇役にねたまれるのが典型パターンだ。
(3)
出会いかたにも違いはある。
キモオタむけアニメの場合、ヒロインの初登場シーンは、たとえ憎まれ口をたたいたとしてもだいたいかわいい。
腐むけアニメの場合、野郎の初登場シーンは、だいたいイラッとくるようなネガティブな印象がとても強くなる登場のしかたになる。
(4)
ためしにこの(1)(2)(3)がすべてふくまれる登場シーンのテンプレを作ってみる。
キモオタむけアニメは、とつぜん自分に彼女ができることになったかと思いきや、相手は絶世の美女でしかもとつぜん抱き付かれたあげくクラスのみんなにはうらやましがられ、こっちは初対面だと思っていたのに実は幼なじみのいいなずけで、その日の夜からいきなりすったもんだの波乱万丈の同棲生活がはじまるやつ。
腐むけアニメは、とつぜん自分がお嫁に行くことになったかと思いきや、相手には悪態をつかれケンカごしになるものの、ドレスを着て歌を歌えば絶世の美女と早変わり、そして自分が主導してその国を良い方向に導いてやるのさ、めでたしめでたしなやつ。
あれ、どっかで見たことあるような。
これらをまとめると共通点と相反する点が浮かび上がる。
共通点は、
女はモブからモテモテの美人であってほしいと双方が思っていること。
相反する点は、
女はイベントを自ら起こして自由奔放に生きたいと願っているのに対し、
男は楽しかったり死にもの狂いになったりするような熱中できるイベントが起きるのを待っているということ。
これをもっと一般化してきる。
女はいろんな社会的なしがらみから解放されて生きたいと願っているのに対し、
男は自ら望んでそのしがらみを受けたいと願えるような社会で生きたいと願っている、
と言ってもいい気がしてきた。
だいたい結婚というものもそういう側面があるんじゃないかという気がする。
近ごろは装飾系だか草食系だか知らんが受け身の野郎がどうのという話をよく聞く。
だがこれを見ると野郎の理想とはだいたいそういうもんなんじゃないかという気もしてくる。
1世代以上前からな。
今期のアニメである。
これ、とくにイケメンがうじゃうじゃ出てくるわけでもないし、あからさまな腐臭がするわけでもない。
だが1話だけでも見れば明らかに少女マンガ原作だと見ればわかる。
なぜか?
直感は明らかに少女マンガ原作だと告げるが、それをうまく説明できない。
それを説明してみようというのが本記事の趣旨である。
少女マンガとは?
少女むけのマンガである。
その対極に少年マンガがある。
少年マンガは少年むけのマンガである。
・・・というのがかつては大前提だったのだが、今はそうではない。
たとえば少年マンガの代表誌である少年ジャンプの看板マンガだった”るろうに剣心”の熱心な読者はほとんどが女。
それ以来、あきらかにメインターゲットを腐った人にしたと思われる”黒子のバスケ”のような作品が定期掲載される時代になった。
そしてだいたい同時期にあった少女マンガ”マリア様がみてる”のオンリーに行けば野郎しかいない時代へと突入。
それ以来、なぜか少女マンガから持ってきた野郎向けアニメが一定の物量をしめるようになる。
だから
「少女マンガとは少女むけのマンガである」
という説明はすでに意味をなさない。
あえていえば、
「少女マンガとは少女むけのレーベルから発売されるマンガである」
と言うべきだ。
もしヤングアニマルが廃刊になりベルセルクが同じ白泉社の花とゆめコミックスから発売されるようになれば、そのときはベルセルクは少女マンガと定義されよう。
しかし。
それはそれで何かおかしい気がしなくもない。
ではどうすればいいか?
今回は”それでも世界は美しい”で少女マンガ原作アニメの典型パターンを分析してみよう。
(1)
野郎むけ、いやもっとしぼって我々のようないわゆるキモオタ向けのアニメには、典型パターンがいくつもある。
たとえば主人公は想定読者とおなじく野郎。
性格はこれといった特徴がない。
人生を受け身でやりすごすことが多く、だいたいすぐに事件に振り回され何かに巻き込まれるか、すでに巻き込まれている。
いっぽう腐むけアニメはどうか?
主人公は想定読者とおなじく女。
ところがどっこい、性格はこれといった特徴がないわけではない。
とても活発で我が強く、だいたいまわりを振り回して独り爆走する。
”それでも世界は美しい”でいえば、OPでメインヒロインが仁王立ちになるシーンと階段のてすりをすべり降りるシーンがあったが、それを見て我輩は「あっ、このパターンのアニメだ」と気がついたものだ。
少年マンガ系アニメにもとても活発で我が強く爆走する熱血主人公もたくさんいるが、キモオタむけアニメはその傾向にはなく、エロゲになるとその排除傾向はさらに強くなる。
(2)
キモオタむけアニメの主人公は(ブサメンではないにせよ)これといって美形だという設定はない。
にもかかわらず複数のヒロインからモテモテになる。
逆に腐むけアニメは女(主人公視点)が美形のパターンが多い。
複数の野郎からモテモテになるのはありがちパターンだが、おもしろいことに使い捨てのモブ役からモテモテになるパターンほうが目につく。
”それでも世界は美しい”でも披露パーティーでモブから手にチューさせろって迫られたシーンがあったが、そういうヤツだ。
これはキモオタむけアニメではあまり多くはない。
突然転校してきたナゾの美少女に抱き付かれることはよくあっても、モブのクラスメイトの女から求愛されるケースは少ない。
逆に、主人公と相思相愛のメインヒロインが絶世の美女で
「なんであの娘があの男とくっつくんだ」
とか
「なんであいつばっかり女にモテるんだ」
とか脇役にねたまれるのが典型パターンだ。
(3)
出会いかたにも違いはある。
キモオタむけアニメの場合、ヒロインの初登場シーンは、たとえ憎まれ口をたたいたとしてもだいたいかわいい。
腐むけアニメの場合、野郎の初登場シーンは、だいたいイラッとくるようなネガティブな印象がとても強くなる登場のしかたになる。
(4)
ためしにこの(1)(2)(3)がすべてふくまれる登場シーンのテンプレを作ってみる。
キモオタむけアニメは、とつぜん自分に彼女ができることになったかと思いきや、相手は絶世の美女でしかもとつぜん抱き付かれたあげくクラスのみんなにはうらやましがられ、こっちは初対面だと思っていたのに実は幼なじみのいいなずけで、その日の夜からいきなりすったもんだの波乱万丈の同棲生活がはじまるやつ。
腐むけアニメは、とつぜん自分がお嫁に行くことになったかと思いきや、相手には悪態をつかれケンカごしになるものの、ドレスを着て歌を歌えば絶世の美女と早変わり、そして自分が主導してその国を良い方向に導いてやるのさ、めでたしめでたしなやつ。
あれ、どっかで見たことあるような。
これらをまとめると共通点と相反する点が浮かび上がる。
共通点は、
女はモブからモテモテの美人であってほしいと双方が思っていること。
相反する点は、
女はイベントを自ら起こして自由奔放に生きたいと願っているのに対し、
男は楽しかったり死にもの狂いになったりするような熱中できるイベントが起きるのを待っているということ。
これをもっと一般化してきる。
女はいろんな社会的なしがらみから解放されて生きたいと願っているのに対し、
男は自ら望んでそのしがらみを受けたいと願えるような社会で生きたいと願っている、
と言ってもいい気がしてきた。
だいたい結婚というものもそういう側面があるんじゃないかという気がする。
近ごろは装飾系だか草食系だか知らんが受け身の野郎がどうのという話をよく聞く。
だがこれを見ると野郎の理想とはだいたいそういうもんなんじゃないかという気もしてくる。
1世代以上前からな。