「努力すれば必ず願いはかなう!」
これは本当だろうか?
わたしはこれは日本人特有の宗教観だと思っている。
ようするにまあ、
「善行をつめば死んだら極楽浄土に行けます」
というのに近い。
これを「本当だよ!」と言いたい人だって、実のところこれは願望であって事実でないことくらい知っているはずだ。
では、なぜ努力はかなわないのか?
…という前に、実は努力がかないやすいパターンがあることを予め記しておきたい。
では、努力がかないやすいパターンとは何か?
それはだな。
・第1に、人間と競争しないパターン
・第2に、努力そのものが楽しいパターン
がそれなのだ。
[第1]
人間と競争しないパターンとは?
代表的にはTVゲームである。
TVゲームは、相手は人間ではなく、コンピュータ上に存在する仮想の人物(または仮想の機械、化物、etc...)である。
(シューティングや音ゲーというそのスジのエンスーしかやらないものを除くと)大半のゲームは誰でもクリアできるようになっている。とくにRPG。
このことは何を示すか?
ほぼ全員が勝者になりえるということだ。
ではその逆は何か?
人間と競争するパターン。
これは勝つヤツと負けるヤツにきっぱりと別れる。
相手が人間であるために相手より自分のほうが潜在能力的に優れているなんてこともその逆もあまりないし、確率論的には相手も自分と同じだけ努力しているという前提で相手を見たほうが妥当である。
おまけに勝ち進めば進むほど本来自分だけ持っていた天性のアドバンテージと同じだけ優れた人間と競争しなければならなくなってくる。
ようするに東大に入れば周りは全員東大生だということだ。
だから努力はかなわない。
いや、努力をかなえるための要求努力が対人戦だと極端に上がる…と言ったほうが近いかもしれない。
[第2]
努力そのものが楽しいパターンとは?
実はこれも代表的にはTVゲームである。
レベルを上げたり腕前が上達したりすればもっと奥へまで進むことができる。
これは人間の探求心をあおり達成感を満足させる。
それだけでなく、部分ごとに努力がかなった実感を得られるようにステージ構成がなされており、なおかつ第1で述べたように人間と競争しないために努力がかないやすい。
だが現実は非情である。
努力をしても必ずしも実らない…というか、多くの場合、努力の成果がわかりにくい。
だから達成感を得られない。
だからTVゲームのように楽しくない。
だからRPGのレベル上げのように日々の努力なんてことをしたがらない。
だから成功しない。
これはTVゲームの例であれなんだが…
わたしはシューティングがけっこう好きだ。
ある日、仲間とゲーセンにいったとき、わたしはケイブの弾幕シューティングをプレイした。
仲間は後半ステージの狂気的に高密度な弾幕に驚愕し、その弾幕を避ける我輩にさらに驚愕した。
わたしは
「シューティングは最高におもしろいぜ。おまえらもやってみたらどうだ?」
と言ったのだが、
「おまえくらい巧ければそりゃーおもしろいだろうよ…」
とだけ言っただけだった。
わたしは
「俺が巧いからおもしろいんじゃなくて、好きだからいつの間にか巧くなったんだよ」
と力説しても誰もわかってくれなかった。
努力とは、巨人の星のようにド根性でやるものではない。
楽しくやっていればいつの間にか努力の成果が追いついたというのが本来あるべき姿である。
わたしが義務教育課程で受けた日教組の教育システムは
「歯をくいしばって何くそと思ってド根性でやれ!」
というものだったが、こういうのはほとんどの人間にはなじまない。
日教組の教育システムの失敗談でいうと、わたしの場合はたとえば国語になる。
教員は
「日本語の美しさがどうの…」
という感じだったが、当のわたしは子供心に
「うわ…超くだらん…」
としか思えなかったし、今だって多少そう思っている。
だから国語はもっとも苦手な科目だった。
それでも少しはできるようになったのは富士見ファンタジア文庫と角川スニーカー文庫との出会いまで待つ必要があった(当時まだ電撃文庫はなかった)。
ちなみに当blogでは小中学校時代に出会った教員に対しては先生とは呼称していない。
先生や恩師という言葉は高校時代か大学時代の先生にしか使わない。
まあそれはいいとして。
だから努力はかなわない。
いや、努力をかなえたいと思っている人の多くは、その成果や成功体験だけが欲しいのであって、そこにたどりつくために必要な腕前をみがく過程に楽しさを見いだせない…と言ったほうが近いかもしれない。
努力がかなわない原因。
それは、自分と同じだけ努力している人間と戦うからであって、また自分が嫌なのに根性で解決しようとしているからである。
たとえば受験なんかがその代表例で、戦う相手は自分と同じだけ頭がキレて自分と同じだけ勉強している全国の受験生、しかもその勉強は楽しくないときた、そんなんでカンタンに努力がかなうとでもお思いですか?…ってぇところだ。
じゃあどうしろというかというと…
対人戦にならない分野に目標をさだめるという手もある。
たとえば、ある程度は自分で車の整備ができるようになりたい、今日はクーラントを自分で交換できるようになった、そういうヤツだ。
腕前を磨くのが苦にならない分野により特化するという手もある。
たとえばわたしでいうと、一般論でいえば電験二種は宅建より難しいが、電験二種(ただし法規を除く)は法律の暗記が主体の宅建ほどには苦痛ではなかった。
これは本当だろうか?
わたしはこれは日本人特有の宗教観だと思っている。
ようするにまあ、
「善行をつめば死んだら極楽浄土に行けます」
というのに近い。
これを「本当だよ!」と言いたい人だって、実のところこれは願望であって事実でないことくらい知っているはずだ。
では、なぜ努力はかなわないのか?
…という前に、実は努力がかないやすいパターンがあることを予め記しておきたい。
では、努力がかないやすいパターンとは何か?
それはだな。
・第1に、人間と競争しないパターン
・第2に、努力そのものが楽しいパターン
がそれなのだ。
[第1]
人間と競争しないパターンとは?
代表的にはTVゲームである。
TVゲームは、相手は人間ではなく、コンピュータ上に存在する仮想の人物(または仮想の機械、化物、etc...)である。
(シューティングや音ゲーというそのスジのエンスーしかやらないものを除くと)大半のゲームは誰でもクリアできるようになっている。とくにRPG。
このことは何を示すか?
ほぼ全員が勝者になりえるということだ。
ではその逆は何か?
人間と競争するパターン。
これは勝つヤツと負けるヤツにきっぱりと別れる。
相手が人間であるために相手より自分のほうが潜在能力的に優れているなんてこともその逆もあまりないし、確率論的には相手も自分と同じだけ努力しているという前提で相手を見たほうが妥当である。
おまけに勝ち進めば進むほど本来自分だけ持っていた天性のアドバンテージと同じだけ優れた人間と競争しなければならなくなってくる。
ようするに東大に入れば周りは全員東大生だということだ。
だから努力はかなわない。
いや、努力をかなえるための要求努力が対人戦だと極端に上がる…と言ったほうが近いかもしれない。
[第2]
努力そのものが楽しいパターンとは?
実はこれも代表的にはTVゲームである。
レベルを上げたり腕前が上達したりすればもっと奥へまで進むことができる。
これは人間の探求心をあおり達成感を満足させる。
それだけでなく、部分ごとに努力がかなった実感を得られるようにステージ構成がなされており、なおかつ第1で述べたように人間と競争しないために努力がかないやすい。
だが現実は非情である。
努力をしても必ずしも実らない…というか、多くの場合、努力の成果がわかりにくい。
だから達成感を得られない。
だからTVゲームのように楽しくない。
だからRPGのレベル上げのように日々の努力なんてことをしたがらない。
だから成功しない。
これはTVゲームの例であれなんだが…
わたしはシューティングがけっこう好きだ。
ある日、仲間とゲーセンにいったとき、わたしはケイブの弾幕シューティングをプレイした。
仲間は後半ステージの狂気的に高密度な弾幕に驚愕し、その弾幕を避ける我輩にさらに驚愕した。
わたしは
「シューティングは最高におもしろいぜ。おまえらもやってみたらどうだ?」
と言ったのだが、
「おまえくらい巧ければそりゃーおもしろいだろうよ…」
とだけ言っただけだった。
わたしは
「俺が巧いからおもしろいんじゃなくて、好きだからいつの間にか巧くなったんだよ」
と力説しても誰もわかってくれなかった。
努力とは、巨人の星のようにド根性でやるものではない。
楽しくやっていればいつの間にか努力の成果が追いついたというのが本来あるべき姿である。
わたしが義務教育課程で受けた日教組の教育システムは
「歯をくいしばって何くそと思ってド根性でやれ!」
というものだったが、こういうのはほとんどの人間にはなじまない。
日教組の教育システムの失敗談でいうと、わたしの場合はたとえば国語になる。
教員は
「日本語の美しさがどうの…」
という感じだったが、当のわたしは子供心に
「うわ…超くだらん…」
としか思えなかったし、今だって多少そう思っている。
だから国語はもっとも苦手な科目だった。
それでも少しはできるようになったのは富士見ファンタジア文庫と角川スニーカー文庫との出会いまで待つ必要があった(当時まだ電撃文庫はなかった)。
ちなみに当blogでは小中学校時代に出会った教員に対しては先生とは呼称していない。
先生や恩師という言葉は高校時代か大学時代の先生にしか使わない。
まあそれはいいとして。
だから努力はかなわない。
いや、努力をかなえたいと思っている人の多くは、その成果や成功体験だけが欲しいのであって、そこにたどりつくために必要な腕前をみがく過程に楽しさを見いだせない…と言ったほうが近いかもしれない。
努力がかなわない原因。
それは、自分と同じだけ努力している人間と戦うからであって、また自分が嫌なのに根性で解決しようとしているからである。
たとえば受験なんかがその代表例で、戦う相手は自分と同じだけ頭がキレて自分と同じだけ勉強している全国の受験生、しかもその勉強は楽しくないときた、そんなんでカンタンに努力がかなうとでもお思いですか?…ってぇところだ。
じゃあどうしろというかというと…
対人戦にならない分野に目標をさだめるという手もある。
たとえば、ある程度は自分で車の整備ができるようになりたい、今日はクーラントを自分で交換できるようになった、そういうヤツだ。
腕前を磨くのが苦にならない分野により特化するという手もある。
たとえばわたしでいうと、一般論でいえば電験二種は宅建より難しいが、電験二種(ただし法規を除く)は法律の暗記が主体の宅建ほどには苦痛ではなかった。