こんな気候だと、カタツムリも冬眠できないのだろうか?
殻を背負って移動する姿には、孤独感が漂っている。
右巻きのマイマイが、一般的なのだそうだ。
でも左巻きのマイマイもいるらしいから、世の中はバランスが取れている。
今頃、狭い獄中で、ゴーンさんはどうしているのだろうか。
早く狭い檻から脱出して、自由になりたいことだろう。
なぜ検察は彼を逮捕したのか?
この世には、よくわからないことが多い。
日産自動車の前身は、日産コンツェルンという財閥だ。
この財閥は、日立鉱山、日立製作所、日産自動車など多くの企業を抱えていた。
これらの企業群が形成されたのは、1933年(昭和8年)から1936年(同11年)のわずか4年の間である。
堀雅昭が書いた「鮎川義介 日産コンツェルンを作った男」の中に以下のような文言がある。
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日産コンツェルンの出発点となる日本産業は1931年(昭和6年)の満州事変を境に飛躍的に成長した。
その裏には、事変後に“建設”された満州国をアジアの自由主義圏にするという野望を持つ革新官僚、岸信介(戦後に首相)がいた。
岸は、「満州重要産業五か年計画」を作り、日満両国にまたがる巨大コンツェルンの構築を考えた。
その岸の肝煎りで、日本産業の主力会社を満州に移転させ、満州重工業開発としてユダヤ資本の取り込もうと鮎川は奔走する。
岸とは長州人脈でつながり、同郷の外相、松岡洋介、さらに東条英機と星野直樹をいれて満州支配の「二キ三スケ」の一人と言われる。
岸といい、満州といい、ユダヤといい、国策とつながった企業家の顔は、一代の風雲児というだけで片づけられない一面があることは否定しがたい。
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岸信介というのは、言わずと知れた、安倍晋三総理大臣の祖父である。
その日産自動車を、ルノーの子会社化にしようと目論んだのは、フランス大統領マクロンだ。
そして、ゴーンはトラップにはまった。
彼らは、日産と安倍首相の関係を知っていたのだろうか?
越えてはならない一線がある。
それを越えようとしたとき、カタツムリは死を迎える。
日本とフランスのせめぎ合い。
事態は簡単ではない。