車中の難
ベルリンへ向かう列車の中で、晃は一人物思いに沈んでいた。これから行おうとする大きなビジネスを前に、身が引き締まる思いだった。南米から食料を調達するという話を持ちかけてきたのは、他でもない、ロッテルダムに本社を置くファン・オメレン社の社長だった。英国に亡命政府を樹立したウィルヘルミナ女王の命で、彼はオランダ国民に食料を届けようとしていた。幸い、ファン・オメレン社はドイツ軍侵攻の前に大量の資金をニューヨークの銀行へ移していた。この銀行発行のドル建て小切手で決裁をするという条件だった。
薄暗いコンパートメントの中に一人坐り、どうしたらこの難題を解決できるのかを考えていると、不意にドアが開いた。入ってきたのは、サーベルを腰につるしたドイツ人将校だった。吐く息が酒臭く、思わず身構えたところ、将校が突然、晃に抱きついてきた。
「まて、私は日本人男性だ。離せ。」
大声で叫んだが、ドイツ将校は強い力で晃をつかみ、キスをしてきた。冗談じゃない、必死の力で抵抗をするがなかなか逃れられない。思わず金的を蹴り上げたら、やっと事態がわかったようだ。晃から体を離すと、コソコソと逃げるように外へ出て行った。小柄な晃を女性と見間違ったのかもしれない。ドイツ軍人から抱擁され接吻までされた男は、世界広しといえどもおそらく晃だけだったろう。
そう言えば、ロッテルダムにある晃の自宅を徴用して寝泊りしていたドイツ軍将校が、酒に酔って二階から転げ落ち死亡したこともあった。親切心から、晃は軍医と掛け合って事故死の届けをしてやった。そうすれば、未亡人に対して遺族年金が支払われるからである。
このように、戦争に疲れ、ドイツ軍兵士の軍規は大いに乱れていた。
つづく
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