DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

遍歴者の述懐 その32

2012-12-08 18:21:22 | 物語

白い肌と黄色い隊長

戦争の傷跡がまだ完全に癒えていなかった頃の話である。

1961年のある日、フジテレビから晃のところに電話があった。

「鳥澤晃さんですか。フジテレビでディレクターをしている者です。昨年、上映された『白い肌と黄色い隊長』という映画をご覧になりましたか。その中で主人公のモデルになった山地正さんと捕虜になっていたオランダ人女性たちの対面を番組でやることになりました。ぜひ通訳をお願いしたいのですが。」

晃には思い当たる節があった。確か、セレベス島にあったカンピリ山地捕虜収容所の話だった。

「いいですよ。」

承諾して、晃は放送局へ出向いた。その時に手渡された筋書は以下のようなものだった。

場面は、セレベス島マッカサルの郊外にあったカンピリ収容所である。ここには、戦争中、約3000人のオランダの婦女子が収容されていた。日本の収容施設はどこも待遇が良くなくて、連合国側にひどく評判が悪かった。ここカンピリ収容所も同様だった。1942年8月に所長として赴任した山地正兵曹は、「これはいけない」と思い、収容所の待遇改善を行い、さらに収容された子供たちを喜ばすためにさまざまに奔走した。

1944年2月、山地兵曹は、日本民生部から呼び出しを受けた。この収容所の女性たちを、日本人高官の慰安婦として差し出せという命令だった。この命令に驚いた山地兵曹は、第二南遣艦隊司令長官柴田中将に直訴し、命令の撤回を勝ち取った。

1945年、終戦とともに山地兵曹はマカッサル戦犯拘置所に送られ、禁固20年の求刑を受けた。慣例によると、この種の戦犯には絞首刑の判決が出る可能性が強かった。収容所から解放されたオランダ女性たちが、このことを聞いて山地の刑の減免を願い出たのであった。

「私たちが暴行を受けないで終戦が迎えられたのは、山地さんのおかげである。」

この嘆願のおかげで山地は減刑され、1949年1月に巣鴨に移送され、同年9月に釈放された。

番組では、当時、収容所に拘束されていた2名のオランダ女性と山地正氏および当時の部下とが17年ぶりに対面するというものであった。

感激と感動の対面が終わった後、オランダ大使から次のような依頼があった。

「彼女たちが日本に来るときに、オランダで反対デモが起こりました。彼女たちは、勇気をもってやってきたわけですが、何とか無事にオランダへ帰れることを願っています。あなたから、オランダ国民に対して、オランダ語でこの感激を伝え、冷静な対応をしてくれるように宗教的な見地から語りかけてくれませんか。」

フジテレビの役員の案内で別室へ行き、晃はオランダ語で次のようにマイクに語りかけた。

「かつては敵であったかもしれないが、キリスト教では『神様は決して敵は作らない』と教えています。私たちが信じる仏教でも、同じような教えがあります。二人のオランダ婦人と山地氏との対面は、神様の愛によって実現したものです。この対面は、とても感激的で美しいものでした。どうか、彼らの勇気を理解してください。」

こうして、二人は無事に帰国できたそうである。

つづく

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