寺本英先生は、私の直接の指導教官ではない。
先生の専門は生物物理学だし、私の専門は地球物理学だ。
しかし、寺本先生は私の人生における師であった。
今年は、先生が逝去されて17回忌にあたる。
かなり個人的な関係になるが、思い出話を書くことをお許し願いたい。
1970年、幸運なことに私が京都大学理学部に現役で入学したとき、最初に訪ねたのは寺本先生の研究室だった。
母親に強く勧められたからであった。
先生は島根県松江市の出身で、私の母校である松江北高校の前身、松江中学の卒業だった。
先生は第三高等学校を出て、京都帝国大学に入学後、湯川秀樹の門下生となった。
理学部物理学教室で、エネルギーエントロピーを担当されていた。
以前にもブログに書いたことがあるが、当時、父の妹が岡崎にあった上野病院で看護婦をしていた。
この病院が、寺本先生の奥さんの実家である。
三高時代に貧乏だった寺本先生は、戦後まもなく、京都市東山区泉涌寺にあった上野家の畑の夜番をしていた。
食料のない時代に、サツマイモを盗みに来る輩がいたので、番人が必要だったのである。
アルバイトが終わると、先生は泉涌寺から左京区吉田の寮まで歩いて帰ったらしい。
父の弟であった叔父が、泉涌寺の塔頭で住職をしていた。
上野家の畑のすぐ近くである。
寺本先生に差し入れで一升瓶をそっと渡すと、先生は東大路を通って帰宅する途中で空にしたらしい。
それほどに大酒飲みだった。
私が最初にお会いしたとき、先生はまだ44歳だったと思う。
第一印象は、懐の深い人だと思った。
先生はよく私を木屋町にある女波(めなみ)という飲み屋に連れて行ってくれた。
近藤正臣さんのお母さんがやっていた店である。
今は改装してずいぶんきれいになっているが、昔はもっと風情のあるおばんざい屋さんだった。
先生について語りたいことは山ほどある。
私が人生の岐路で決断を必要としたとき、そこにはいつも寺本先生の姿があった。
1976年、山登りの仲間と南アメリカにあるアンデス山脈とアマゾン河へ遠征することになった。
先生に相談に行ったら、「ぜひ行ってこい。」と言われて背中を押してもらった。
そして、東京大学の寺田和夫先生を紹介してもらった。
寺田先生は文化人類学者で、アンデス文明の研究をされていた。
「未開の地に研究者が赴くのは、侵略者が行くよりまだ救いがある。」と教えてもらった。
よくわからない論理だったが、なんとなく納得した。
1983年、琵琶湖研究所に就職するときに寺本先生に推薦者となってもらった。
吉良所長に直接電話して、決断を促してもらった記憶がある。
1993年、BITEX(琵琶湖国際共同観測)を行ったとき、お金が足りないだろうと言って50万円ほど研究費をカンパしてもらった。
おかげで世界中から177人の研究者や学生が集まり、一か月間の共同観測をすることに成功した。
先生が龍谷大学に移られてから、一緒にびわ科学懇談会という集まりを立ち上げたりもした。
その時に話された、数理生態学的視点から評価した食物連鎖の話は興味深くまだ記憶に残っている。
1996年2月7日に、先生は他界された。
あれから17年がたつ。
シャイで、ダンディで、そしてとても誠実な人柄だった。
先生からいただいた一通の手紙を今でも大切に持っている。
それはわざわざ速達で届いたものだった。
私をある賞に推薦したが、選考の結果、落選したという内容だった。
大先生が、私のような未熟者のことをかくまで支援していただいたことに頭が下がる思いだった。
このように私は良き師に恵まれた。
そのことが誇りであり、財産でもある。
だから、若い人にはなるべく親切でありたいと思っている。
人は死ぬときは一人だが、生きているときは一人ではないからだ。
先生の専門は生物物理学だし、私の専門は地球物理学だ。
しかし、寺本先生は私の人生における師であった。
今年は、先生が逝去されて17回忌にあたる。
かなり個人的な関係になるが、思い出話を書くことをお許し願いたい。
1970年、幸運なことに私が京都大学理学部に現役で入学したとき、最初に訪ねたのは寺本先生の研究室だった。
母親に強く勧められたからであった。
先生は島根県松江市の出身で、私の母校である松江北高校の前身、松江中学の卒業だった。
先生は第三高等学校を出て、京都帝国大学に入学後、湯川秀樹の門下生となった。
理学部物理学教室で、エネルギーエントロピーを担当されていた。
以前にもブログに書いたことがあるが、当時、父の妹が岡崎にあった上野病院で看護婦をしていた。
この病院が、寺本先生の奥さんの実家である。
三高時代に貧乏だった寺本先生は、戦後まもなく、京都市東山区泉涌寺にあった上野家の畑の夜番をしていた。
食料のない時代に、サツマイモを盗みに来る輩がいたので、番人が必要だったのである。
アルバイトが終わると、先生は泉涌寺から左京区吉田の寮まで歩いて帰ったらしい。
父の弟であった叔父が、泉涌寺の塔頭で住職をしていた。
上野家の畑のすぐ近くである。
寺本先生に差し入れで一升瓶をそっと渡すと、先生は東大路を通って帰宅する途中で空にしたらしい。
それほどに大酒飲みだった。
私が最初にお会いしたとき、先生はまだ44歳だったと思う。
第一印象は、懐の深い人だと思った。
先生はよく私を木屋町にある女波(めなみ)という飲み屋に連れて行ってくれた。
近藤正臣さんのお母さんがやっていた店である。
今は改装してずいぶんきれいになっているが、昔はもっと風情のあるおばんざい屋さんだった。
先生について語りたいことは山ほどある。
私が人生の岐路で決断を必要としたとき、そこにはいつも寺本先生の姿があった。
1976年、山登りの仲間と南アメリカにあるアンデス山脈とアマゾン河へ遠征することになった。
先生に相談に行ったら、「ぜひ行ってこい。」と言われて背中を押してもらった。
そして、東京大学の寺田和夫先生を紹介してもらった。
寺田先生は文化人類学者で、アンデス文明の研究をされていた。
「未開の地に研究者が赴くのは、侵略者が行くよりまだ救いがある。」と教えてもらった。
よくわからない論理だったが、なんとなく納得した。
1983年、琵琶湖研究所に就職するときに寺本先生に推薦者となってもらった。
吉良所長に直接電話して、決断を促してもらった記憶がある。
1993年、BITEX(琵琶湖国際共同観測)を行ったとき、お金が足りないだろうと言って50万円ほど研究費をカンパしてもらった。
おかげで世界中から177人の研究者や学生が集まり、一か月間の共同観測をすることに成功した。
先生が龍谷大学に移られてから、一緒にびわ科学懇談会という集まりを立ち上げたりもした。
その時に話された、数理生態学的視点から評価した食物連鎖の話は興味深くまだ記憶に残っている。
1996年2月7日に、先生は他界された。
あれから17年がたつ。
シャイで、ダンディで、そしてとても誠実な人柄だった。
先生からいただいた一通の手紙を今でも大切に持っている。
それはわざわざ速達で届いたものだった。
私をある賞に推薦したが、選考の結果、落選したという内容だった。
大先生が、私のような未熟者のことをかくまで支援していただいたことに頭が下がる思いだった。
このように私は良き師に恵まれた。
そのことが誇りであり、財産でもある。
だから、若い人にはなるべく親切でありたいと思っている。
人は死ぬときは一人だが、生きているときは一人ではないからだ。
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