以前まちミューさんのブログで紹介されていました。県立巨摩(こま)高校の目の前にある元写真館です。この通りは初めて歩きました。胴体が洋風で、頭(屋根)は和風の作りですが、不思議と調和しています。
母がここの学校(女学校時代)の卒業なので、こちらの写真館で卒業写真を撮ったかも知れません。
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去る2010年2月7日の山梨日日新聞に、県庁南別館(旧県立図書館)の解体の記事が掲載されていました。昨日、県庁へ行く用事がありましたので覗いてみましたら、跡形もなく取り壊されていました。
在りし日の姿です。
記録として新聞記事を載せておきます。
2010年02月07日(日)
庁舎シンボル 「丸石」を撤去
解体進む県庁南別館
県の防災新館建設に伴い、甲府市丸の内1丁目の県庁内で、県民情報プラザと県庁第1、2南別館の解体作業が進んでいる。6日の作業では、第1南別館のシンボルだった球状の「丸石」が撤去された。
この日は直径約85センチ、重さ約900キロの丸石をクレーンでつり上げ、建物の解体に支障がない場所へ移動。今後、県庁北別館地下で保管、将来的には県庁別館へ展示する予定。
解体予定の3棟のうち第1南別館は、1930(昭和5)年に甲州財閥を代表する実業家根津嘉一郎の寄付で完成、県立図書館として使われた。幾何学的形態を組み合わせたアール・デコ様式の流れの中で生まれたデザインが取り入れられているのが特徴で、シンボルとして入り口に丸石が置かれた。
県が同館の解体方針を公表した後、建築家や学術団体などから保存を求める声が相次ぎ、丸石や建物の窓枠、照明器具などの保存が決まった。この日の作業に立ち会った建築研究所の関係者は「これほど大きな丸石を使った戦前のアール・デコ調の建物は珍しい。大切に保存してほしい」と話していた。同館は今月中に解体される。
資料保存のため、第1南別館前から移される「丸石」=県庁
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山梨英和の講堂(グリンバンクチャペル)については、2008年4月10日にエントリーしてありますが、その時は外観しか紹介しておりませんでしたが、この度あるイベントの下見打ち合わせで内部に入る事が出来ました。英和の卒業生にとっては懐かしい空間だと思います。
昭和24年(1949)の建築ですが、2006年に耐震改修工事がされました。元々の設計は構造力学の権威である内藤多仲ということですが、内藤がどこまでデザインにタッチしたかは分りません。木造でこれだけの空間は、当時としては珍しかったと思います。
小屋組みは意外と細い印象を受けました。
階段廻りです。
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昭和24年(1949)の建築ですが、2006年に耐震改修工事がされました。元々の設計は構造力学の権威である内藤多仲ということですが、内藤がどこまでデザインにタッチしたかは分りません。木造でこれだけの空間は、当時としては珍しかったと思います。
小屋組みは意外と細い印象を受けました。
階段廻りです。
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去る2010年1月27日の山梨日日新聞に、
「地方病研究の功績 後世へ─昭和町が杉浦父子の医院保存地域文化発信拠点に」
という見出しの記事が掲載されました。
以下に紹介します。
大正から昭和にかけて甲府盆地を中心にまん延した地方病(日本住血吸虫病)の研究に尽力し、地方病の権威として知られた医師杉浦健造、三郎父子の業績を後世に伝えていこうと、地元の昭和町は同町西条新田の杉浦親子の自宅や診療所を取得し、地域文化の発信拠点として保存、活用することを決めた。国の登録文化財として文化庁に申請。親子が研究を続けた院内を紹介し、2人に関する講座を開く。地方病の中間宿主の宮入貝が生息したのが水路だったことから、釜無川の氾(はん)らんの歴史などを含めて「水」をテーマにした展示を計画している。診療所部分は10月にも一般公開する予定。
町教委生涯学習課によると、杉浦医院8代目の健造(1866〜1933年)は、地方病に日本住血吸虫病という名前が付く前から研究を始めた先駆者。地方病発症地の用水路に共通して宮入貝に似たカワニナが生息するという研究結果を発表し、医学会の地方病研究を活発にした。
9代目三郎(1895〜1977年)は、米国の研究者も講習に訪れたという地方病の権威。動物実験を繰り返して、宮入貝を宿主とする虫卵から出た寄生虫が皮膚から侵入する感染ルートを突き止めた。父子は用水路の殺貝(さつばい)やコンクリート舗装など予防にも力を入れた。
2人の研究拠点だった診療所は正覚寺隣にあり、敷地は約3300平方メートル。大正時代に建てられた木造2階建てで、南西にある住宅から廊下でつながっている北東の診療所には、診察台や薬棚のほか「Dr.Sugiura's Office Physician」と書かれた看板が残る。
町は今後、大学教授や文化財審議委員など約10人で整備・保存・活用検討委員会をつくり、施設の在り方について検討。建物は補強工事をするとともに、駐車スペースも整備。庭園にある池には、地方病撲滅に伴ってえさのカワニナが減ったため姿を消したホタルが生息できるようにする。町内で集めた昔の農具、工芸品を展示するなど歴史博物館の要素を持たせ、近隣の史跡や歴史・文化遺産の情報を提供する。将来的にはボランティアスタッフを養成する考え。
同課は「施設の活用方針は、杉浦父子の業績を伝えながら、水の歴史を伝える歴史遺産にすることと、まち歩きの拠点にすることの二つ。文化、歴史を後世に伝えるとともに、地域の活性化にもつなげたい」としている。
以上ですが、当ブログにはこれまで「昭和町」のカテゴリーがありませんでしたので、「中央市(玉穂・田富・豊富)」と一緒にして「中央市・昭和町」とします。
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「地方病研究の功績 後世へ─昭和町が杉浦父子の医院保存地域文化発信拠点に」
という見出しの記事が掲載されました。
以下に紹介します。
大正から昭和にかけて甲府盆地を中心にまん延した地方病(日本住血吸虫病)の研究に尽力し、地方病の権威として知られた医師杉浦健造、三郎父子の業績を後世に伝えていこうと、地元の昭和町は同町西条新田の杉浦親子の自宅や診療所を取得し、地域文化の発信拠点として保存、活用することを決めた。国の登録文化財として文化庁に申請。親子が研究を続けた院内を紹介し、2人に関する講座を開く。地方病の中間宿主の宮入貝が生息したのが水路だったことから、釜無川の氾(はん)らんの歴史などを含めて「水」をテーマにした展示を計画している。診療所部分は10月にも一般公開する予定。
町教委生涯学習課によると、杉浦医院8代目の健造(1866〜1933年)は、地方病に日本住血吸虫病という名前が付く前から研究を始めた先駆者。地方病発症地の用水路に共通して宮入貝に似たカワニナが生息するという研究結果を発表し、医学会の地方病研究を活発にした。
9代目三郎(1895〜1977年)は、米国の研究者も講習に訪れたという地方病の権威。動物実験を繰り返して、宮入貝を宿主とする虫卵から出た寄生虫が皮膚から侵入する感染ルートを突き止めた。父子は用水路の殺貝(さつばい)やコンクリート舗装など予防にも力を入れた。
2人の研究拠点だった診療所は正覚寺隣にあり、敷地は約3300平方メートル。大正時代に建てられた木造2階建てで、南西にある住宅から廊下でつながっている北東の診療所には、診察台や薬棚のほか「Dr.Sugiura's Office Physician」と書かれた看板が残る。
町は今後、大学教授や文化財審議委員など約10人で整備・保存・活用検討委員会をつくり、施設の在り方について検討。建物は補強工事をするとともに、駐車スペースも整備。庭園にある池には、地方病撲滅に伴ってえさのカワニナが減ったため姿を消したホタルが生息できるようにする。町内で集めた昔の農具、工芸品を展示するなど歴史博物館の要素を持たせ、近隣の史跡や歴史・文化遺産の情報を提供する。将来的にはボランティアスタッフを養成する考え。
同課は「施設の活用方針は、杉浦父子の業績を伝えながら、水の歴史を伝える歴史遺産にすることと、まち歩きの拠点にすることの二つ。文化、歴史を後世に伝えるとともに、地域の活性化にもつなげたい」としている。
以上ですが、当ブログにはこれまで「昭和町」のカテゴリーがありませんでしたので、「中央市(玉穂・田富・豊富)」と一緒にして「中央市・昭和町」とします。
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