「水俣病とプラスティック」 関川宗英
20230529
1956年、チッソ附属病院に幼い姉妹が入院した。姉は5歳、妹は2歳。手足が硬直、痙攣して歩けない、言葉は不明瞭という症状だった。
チッソ附属病院の院長だった細川一は、1956年5月1日、「原因不明の脳症状を呈する患者」と水俣保健所に報告する。
この日が水俣病の、最初の公式確認とされている。
1959年7月22日、熊本大学研究班が「有機水銀説」を発表する。
1940年、イギリスで有機水銀の農薬をつくっていた工場で、中毒事件が起きていた。有機水銀中毒となった労働者の症状が、水俣の奇病と完全に一致したためだった。
しかし、熊本大学の発表があっても、チッソは工場を止めなかった。
国も熊本県も、水俣の奇病に対して有効な手立てを講じなかった。
そのために、水俣病は2283人の認定患者、4万6714人の救済対象者(2022年2月現在)を生んだ。今も水俣病裁判は続いている。
水俣病の疑いが叫ばれながら、なぜここまで広がってしまったのか。1960年前後(昭和30年代)あたりを整理する。
1 チッソの嘘
熊本大学の有機水銀説の発表後、1959年11月、NHKの『奇病のかげに』が放送された。水俣を本格的に取り上げた草分け的なテレビ番組である。
この番組の中で、当時のチッソの社長吉岡喜一は、カメラをまっすぐ見ながら次のように語っている。
医学のほうでは、魚介の体内にある、ある種の有機水銀が原因だといっておられますが、私のほうの工場から出ますのは無機水銀であり、無機水銀がどうして、どういう経路で、何によって有機水銀に化するか、こういうことはいまだに研究されていない次第でございます。(NHK『奇病のかげに』1959年11月)
ところがこの社長の言葉は真赤な嘘だった。
チッソ社長が「わが社から出るのは無機水銀」と答えた放送から9年も前に、チッソは水俣工場で有機水銀が発生していることを把握していた。
チッソの工場技術部の実験を担当していた技術者、塩出忠次は、1995年の「NHKスペシャル 戦後50年 その時日本は」第4回『チッソ・水俣 工場技術者たちの告白』の中で証言している。
1950年当時、彼が行った工場の実験の中で、水俣工場のアセトアルデヒド生産過程で有機水銀が副生し、それを含む母液が発泡してあふれ出てることを確認する。そして装置からあふれ出た母液が、排水口から流出するのをはっきりと目にする。
塩出は、会社に報告する。報告を受けたのは、当時の酢酸課長、中村克己だった。中村は塩出の報告に対し、「本当かい、有機水銀というものが、母液のなかに本当に出るの」と応じたという。
さらに翌年、設備の改良の機会があり、塩出は設備の大幅な改善策を提案している。
このように有機水銀発生の報告があり、施設の改善策の提案までされながら、チッソは有効な対策をとらなかったのである。
一方、1956年水俣病公式確認後、チッソは、独自にネコ実験を始めている。
チッソの技術部とチッソ附属病院とが中心となり、ネコに様々な餌を与えて実験を繰り返していた。1957年頃に始まった実験に使ったネコは、838匹にもなる。このネコ実験は、チッソと奇病の因果関係を否定するデータを得ることが目的だったが、チッソの工場排水が水俣湾に注ぎ込まれていた百間口の排水を餌にかけて与えたネコ374号は、1959(昭和34)年9月28日にネコ水俣病を発症した。さらに、チッソの廃液中、アセトアルデヒド工場から排出される廃液を餌にかけて与えたネコ400号が同じ年の10月6日にネコ水俣病を発症する。もう一つの塩化ビニール工場の廃液を餌にかけて与えたネコは発症しなかった。解剖の結果も、ネコ水俣病であることを示していた。
このネコ実験を行ったのが、水俣病公式確認を保健所に提出した、細川一だった。細川はチッソにネコ実験の結果を報告するが、チッソはネコ実験の事実を隠ぺいする。
ネコ400号発生の後の11月、NHK『奇病のかげに』は放送されている。チッソの社長吉岡喜一は、有機水銀発生の事実、ネコ実験の結果を知りながら、「わが社から出るのは無機水銀」と堂々と主張していたのだ。
そして、チッソは1968年の5月まで有毒な廃液を流し続けたのである。
水俣の奇病の原因は、チッソの工場にあるのではないか。その疑いが濃厚になったときに、チッソが工場を止めていれば、水俣病がこれほど広がることはなかっただろう。
しかし疑惑が出たからといってそのために工場を止めることは、チッソの死活問題だった。露わになった問題がはっきりとチッソの責任だとわかる前に、チッソはさらに利潤を上げようと生産を増やした。なりふり構わぬ企業体質は、チッソ創業からのものだった。
2 チッソの企業体質
チッソは、新興財閥だった。旧財閥のような、鉱山の独占的所有や、銀行や商事会社などあらゆる企業が集まる巨大な経営基盤はない。そんな新興財閥だったチッソは昭和に入ると、朝鮮や中国の植民地経営によって、その規模を拡大してきた。
チッソのような新興財閥が、旧財閥との競争を乗り切るためには、絶えず技術革新を図り、新しい分野を先取りする戦略が求められる。
そのあたりのチッソの企業体質を、水俣病に尽力した医師、原田正純は『水俣が映す世界』で次のように書いている。
したがって、他所より一歩でも早くということは、いまだ確立していない技術を先どりして、いきなり生産していくという強引なやり方であった。そのことはもちろん、当時の現場の技術者や労働者のすぐれた直観によって可能であったが、一方でそれは工場全体を実験工場化し、いちかばちかの冒険であった。そのことは、つねに爆発など危険をはらむこと(安全性無視)であり、そこで働く労働者や付近住民をモルモットにしたともいえるのである。そのもっともいい例がカザレーのアンモニア合成法の導入である。
一九二一(大正一〇)年、創業者野口遵はまだパイロットプラント規模であったこの技術を一〇〇万円で購入し、その工業化にはじめて成功した。これはわが国のみならず世界の化学工業史に重要なエポックを画すものであり、チッソの化学工業界での地位を確立したのであったが、その裏には、いちかばちかの神風特攻隊的経営戦略があった。
「創業当時は度々の事故を惹起し苦難の道が続いた。何といっても之に従事する者は高圧工業には当時は全く素人の二十歳代の青年技術者たちと工場経験のない工員たちであり、指導者のカザレー博士ですらイタリアでは実験装置の操作しか経験なく、カザレー法が世界でも初めての工業化のこととて思わざるところに思わざる事故が頻発し、大きな不安と神経の消耗は少なからざるものがあった。たとえば、圧縮機の各部から突然ガスが噴出したり、各段配管の破裂、ガス引火、圧力計ブルドン管破裂、アンモニアゲージグラス破裂等々これら小事故さえも、その都度、耳につんざく音響に続く引火を起こした」「創業当時の大きな事故としては、昭和二年一二月……系統パイプバルブが破裂し、地下溝にこもったガスに引火し爆発して、一瞬にして屋根窓ガラスのほとんど全部を吹き飛ばしてしまい、その後、昭和三年一一月に四号圧縮機六段が前記程度の事故を起こした。その他、中小多数の事故があり、従業員は勿論、町の人々までまかり間違えば町も一瞬にして吹き飛んでしまうという恐怖の念を懐いていた」と『日本窒素肥料事業大観』に記載されている。その結果、事故のたびに工員の家族は肉親の安否をきづかって工場正門に殺到してくるので、会社は正門をぴたりと閉鎖してしまった。そこで家族たちは正門をよじ登って“夫を出せ„ “子供を出せ„と絶叫したという。そして、いち早く電気化学から石油化学への転換を企図するや、その装置をフル回転させ、スクラップ化するまえに使えるだけ使おうと生産をあげた。環境汚染を拡大させた体質と同一のものである。工場内における労働者の人権無視は、その周辺住民、とくに漁民にたいして当然のことのようになされたのである。(『水俣が映す世界』原田正純)
新興財閥のチッソが、化学工業でその地位を確立できたのは、工員や地域住民の安全や人権など顧みず、いまだ確立していない技術を使って、いきなり生産をしていくという強引な経営戦略によるものだった。そんな企業体質からすれば、水銀中毒の危険性を知りながら、アセドアルデヒドを生産し続けることは、会社の成長のために渡らなければならない橋の一つだったのかもしれない。
チッソは、アセトアルデヒドを増産させ続けた。ネコ400号の実験から約9年後の1968(昭和43)年5月まで垂れ流し続けた。
水俣病は、チッソの企業体質が生んだ化け物である。
3 経済優先の政策
一方、水俣の海の環境汚染が叫ばれるようになっても、国も熊本県も有効な手だてを講じていない。その理由は何だったのだろう。
1949年、昭和天皇がチッソを訪問し、再建されたばかりのチッソの社員を激励している。チッソの化学工業は戦後復興の期待を背負う産業だった。
敗戦からの復興をどのように成し遂げるか。国はまず肥料と石炭の生産から立て直しを目指したが、新産業の育成、国際競争力の強化、石炭から石油へのエネルギー転換といった新しい産業政策を打ち出す。それは、合成繊維産業、石油化学工業を新規の育成産業とする流れに結び付いていく。そんな流れに、まさにチッソは乗っていた。
1950年、朝鮮戦争の軍需景気により、日本は立ち直りのきっかけをつかむ。「もはや戦後ではない」、戦後復興から高度経済成長へと国を挙げての近代化へのうねりに日本中が沸き立っていた。
第二次世界大戦中から、プラスチックの時代が始まるきざしはあった。軍事徴用により金属類が不足し、その代用品としてプラスチックの需要が高まったためだ。
第二次世界大戦が終わると、安さと利便性で金属に勝るプラスチックは人々の生活に深く浸透していくことになる。
軍用品として利用されていたプラスチックや合成ゴムだけではない。合成繊維が一般市民の生活に登場し、「ビニール」と呼ばれたポリ塩化ビニルや、「ポリ」と呼ばれたポリエチレン、「スチロール」と呼ばれたポリスチレンなど、プラスチックは人びとの生活の様々な場面で広く使われるようになった。
プラスチックの本格的な大量生産は1955年頃から始まる。
1952 年、チッソはアセトアルデヒドからオクタノールを作ることに成功する。
日本はそれまで、プラスチックの原料となるオクタノールを100%輸入に頼っていた。チッソはアセトアルデヒドを増産し続け、1959 年にはチッソは日本のオクタノールの生産の 85%を占めるようになる。
電気化学方式によるアセチレンを原料とするアセトアルデヒド、また、そのアセトアルデヒドから作られる酢酸や酢酸ビニルの生産は、戦後の高度成長期に石油化学方式への転換が図られるまでの間、有機合成化学工業の柱となっていました。
1950(昭和25)年代の半ばに入ると、安い外国製品に対抗できる国際競争力を強化するため、化学工業は電気化学方式から石油化学方式への早期の転換が必要になっていました。
国は、1955(昭和30)年7月に第1期石油化計画、1959(昭和34)年12月に第2期石油化計画をあいついで策定し、国策として石油化を押し進め、昭和電工やチッソなどの化学企業は国の石油化計画に参加し、石油化学工業のための大規模な設備投資を行いました。(「水俣病の被害」 新潟県 https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/212538.pdf)
チッソのオクタノール生産量の増大は、かなりの経済的意義があった。
第二次世界大戦以降、日本は記録的な貿易赤字を計上していた。プラスチック製品は、日本の輸出の新しい柱となる期待の産業だった。戦後復興の始まりに、最も先進的な化学会社として、チッソ工場は明らかに重要な経済的役割を担っていた。
プラスチックの原料となるオクタノールは、アセトアルデヒドから作られる。
アセトアルデヒドは、カーバイトと呼ばれる炭化物から生成されるのだが、その生成過程で触媒として使われる水銀が、有害な有機水銀に化学変化する。
1950年代、プラスチックの増産とは、有機水銀をより多く生み出すことであった。
有害な水銀は、1955年、5歳と2歳の小さな女の子の体に奇病となって現れた。
しかし、海外より安いオクタノールの生産は、日本の近代化を実現するための重要な柱だった。
国や熊本県は、有害な水銀にストップをかけず、新産業の振興を優先させた。
人の命より、日本の近代化のための政策を優先させたのである。
4 新しい時代の気分 プラスチック
プラスチックが私たちにもたらしたものは、経済的役割だけではない。
プラスチックは、大量消費社会を実現するために重要な素材といえる。清潔で、安く、色も美しい。高度経済成長を実現した日本、その豊かな生活をプラスチックが演出していた。プラスチックは豊かさの象徴でもあった。
「もはや戦後ではない」と書かれた1956年の『経済白書』は、回復による成長が終わり、次の段階の成長は近代化によって支えられると断言している。
技術革新(イノベーション)という言葉も初めてこの白書で使われた。
技術革新とは、設備近代化、技術開発のための投資の原動力とされるが、それは単なる生産技術の革新を意味するのではない。経済生活のあらゆる領域で「従来と異なるやり方で事を運ぶこと」だという。つまり、電化製品に囲まれ、化学繊維の服を身につけ、インスタント食品を口にし、プラスチック製品を使うという生活。技術革新により、日本の新しい生活の原型が実現したのである。生産から消費まで国民生活全般が、昭和30年代に大きく変化した。
1956年に映画『太陽の季節』が公開された。
若者のセックスと暴力を描いて“太陽族”という流行語まで生んだ、石原慎太郎の芥川賞受賞作を映画化。石原裕次郎が拳闘部員役でスクリーン・デビュー!
これは、「日活データベース」にある映画『太陽の季節』のコピーである。石原慎太郎は「ポスト<第三の新人>」、戦中体験を文学の原点にしていない「真の戦後派」として文壇に登場する。24歳のデビュー作『太陽の季節』は賛否両論を受けながら、一世を風靡した。1956年1月に芥川賞受賞、その年の5月には映画化された。
ネットの「日活配信チャンネル」をのぞけば、3分余りの『太陽の季節』ダイジェスト版が見られる。その3分余りの短い動画に、ボクシングのグローブやヘッドギア、ヨット、水着、街を歩く若い女性の華麗なファッションなど次々に現れる。いずれも新しい時代の、若者たちのあこがれのアイテムとして登場するのだが、そのどれもが戦中にはなかった物であり、戦後になってプラスチック素材により作られた物であることに気づく。
映画『太陽の季節』が公開された1956年5月とは、水俣病の最初の患者の公式確認がなされた月である。
朝鮮戦争の朝鮮特需、それに続く神武景気、日本は急速な経済発展を迎える。好景気の影響により、耐久消費財ブームが発生し、いわゆる三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)が出現した。もっといいものが欲しい、もっといい暮らしがしたい、重苦しい占領下の時代から自由の時代に入ったという気分は近代化の風をあおる。大衆の欲望が、一気に噴き出したような高度経済成長期に時代は突き進む。
高度経済成長は大量消費社会をもたらしたが、それを支えたのがプラスチックだった。
プラスチックは新しい時代の気分を現す素材だったのである。
今も、水俣病から学ぶ
日本は戦後復興から近代化への成長を実現した。人々の生活の中にプラスチックが増え、大量生産され始めたころ、水俣では奇病が発生した。しかし、チッソの社長は噓を言って、水銀を海に垂れ流し続けた。
戦後復興の陰で、熊本の水俣病のほか、新潟水俣病、イタイイタイ病などの公害病が起きていた。
大量消費社会の実現、中流階層が国の多数を占めるようになった時代。しかし多くの人が豊かで快適な生活が送れるようになった陰で、環境汚染で苦しむ人が生まれていた。
石牟礼道子は『苦界浄土』の中で書いている。
水俣病事件もイタイイタイ病も、谷中村滅亡後の七十年を深い潜在期間として現れるのである。新潟水俣病も含めて、これらの産業公害が辺境の村落を頂点として発生したことは、わが資本主義近代産業が、体質的に下層階級侮蔑と共同体破壊を進化させてきたことをさし示す。その集約的表現である水俣病の症状をわれわれは直視しなければならない。人びとのいのちが成仏すべくもない値段をつけられていることを考えねばならない。(石牟礼道子『苦界浄土』)
科学の進歩によって、物質的に豊かな暮らし、快適な生活が実現できていることを否定する人はいないだろう。
しかしその陰で、地球そのものに影響を及ぼす様々な問題が出て来た。そしてそれは解決されず、さらに深刻な事態を引き起こしていることも多くの人は知っている。
水俣病は、経済優先の市場主義社会、命までも金で換算するようなすさんだ社会の到来を告げていた。
水俣病の公式確認から4年後の1960年、日本で1人が1年間に使うプラスチックの量は約5.8kgだった。それが、2018年には82.2kgと約14倍も増えている。
そして、世界のプラスチック生産量は1秒間に11トンもあるそうだ。
(https://www.pwmi.jp/library/library-114/)
2023年の初夏、改めて水俣の1960年前後をメモにまとめてみた。
46億年のこの地球を24時間に例えると、たかだか77秒(500万年)の人類。そんな人類の不遜をつくづくと感じる。
豊かな暮らしとは何なのか。この地球で生きている私たちは何を大切にしていくべきか。
私たちは歴史を鏡として、考え続けなければならない。