ガラス器に淡き影ある夏はじめ
三吉みどり
蕭条と雨の降る夕暮れである。何時の間にか菅笠を被っている。白い着物を着て脚絆をつけて草鞋を履いているのだ。追手は遠くで鯨波をあげている。また近寄って来るらしいのだ。蜜柑の根元にかがんで息を殺す。とたんに頭上でげらげらと笑う声がする。はっと見上げると佐柄木がいる。恐ろしく大きな佐柄木だ。いつもの2倍もあるようだ。樹上から見下ろしている。癩病が治ってばかに美しい貌なのだ。2本の眉毛も逞しく濃い。尾田は思わず自分の眉毛に触ってはっとする。残っている筈の片方も今は無いのだ。驚いて幾度も撫でて見るが、やっぱり無い。つるつるになっているのだ。どっと悲しみが突き出て来てぼろぼろと涙が出る。佐柄木はにたりにたりと笑っている。
「お前はまだ癩病だな。」
樹上から彼は言うのだ。
「佐柄木さんは、もう癩病がお癒りになられたのですか。」
恐る恐る訊いてみる。
「癒ったさ、癩病なんか何時でも癒るね。」
「それでは私も癒りませんか。」
「癒らんね。君は。癒らんね。お気の毒じゃよ。」
(『いのちの初夜』 北條民雄)
「聴く力」 茨木のり子
ひとのこころの湖水
その深浅に
立ちどまり耳澄ます
ということがない
風の音に驚いたり
鳥の声に惚けたり
ひとり耳そばだてる
そんなしぐさからも遠ざかるばかり
小鳥の会話がわかったせいで
古い樹木の難儀を救い
きれいな娘の病気まで直した民話
「聴耳頭巾」をもっていた うからやから
その末裔(すえ)は我がことのみに無我夢中
舌ばかりほの赤くくるくると空転し
どう言いくるめようか
どう圧倒してやろうか
だが
どうして言葉たり得よう
他のものを じっと
受けとめる力がなければ