サングラス外しほんたうの海の色 河原敬子
ⅢⅩ 「五月の雲」を観る聞く、 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2015/7/22
町中、ガラス窓の中の青年、乱反射の中、通りに飛び出して、郵便を受け取る、何の連絡か、町中での彼の存在は、曖昧さ、田舎の老人、訪ねてくる息子、彼は都会で映画監督に、田舎の道、車、細い道、ロケハンと役者を捜しに、車を走らせて林の中に、此処は老人の土地、だが、国が回収しようとしている、木を切って国有地にというのだ、この木が切られたら元には戻らないと老人、ここまで育つのにどのくらいの時が掛かったと想っているのだと怒り、近所の土地の持ち主たちは既に売り払っても居て、何故に頑張るのだと息子、頑なな老人、ひとりの少年、この老夫婦の世話になっていて、監督とは従兄弟、老婦人に卵を持たされて、ポケットに入れて、四十日割らなければ少年のお父さんに時計を買うように頼んで上げると約束、少年の両親は何処に行ったか現れてこない、これが田舎の現実、出稼ぎでは無いのか、トルコの田舎の貧しさ、監督は役者を探して歩き回る、だが、役者になれる者が見つからない、両親を使うことに、二人は拒むが、決めてしまう息子、合理的な息子、卵を持っている少年にも、隠しておけばと、ゆでてしまえばと、それでは狡だと少年、亀を捕まえる二人、田園の中、笑ってと、カメラの位置を構図を変えて少年に演じさせる、泣いてと、旨いなと監督、算数、寝てしまう二人、亀はゆっくりと巣に戻ってく、雨、走って戻る二人、監督の合理性と遊び世界、監督の母は、少年に責任感を持たせたいのだと、だから卵を持たせたのだと、時計のことはどうでも良いのだ、それぞれの思惑違い、監督は工場で働く始まりの青年に会う、大学に落ちたのだと、始まりの知らせは合否結果の連絡だったのだ、合格できずに工場で働いて、でも、監督に唆されて映画を手伝うことに、工場を止めてしまう、怒りの青年の両親、こうして若者は皆が都会に、都会の現実も厳しいのだが、監督は一度戻ってスタッフを連れて撮影に戻ると、少年は学校の帰りに近所のおばさんにトマトを運ぶように命じられて、丘の上の家まで、やっとの思いで近くまで、が、一粒が落ちて、拾おうと手を伸ばした瞬間に卵が割れる、哀しみの表情、怒りの少年、漸くここまで頑張ってきたのに、トマトのかごをけ飛ばすのだ、赤いトマトが丘を転がり落ちる、皆が、こんな己の夢の中に、少年は鶏小屋に入り込んで卵を盗む、奪い取って走る走る、必死に逃れて、しかも二個、こうなったら狡もへったくれもない、割れた卵で汚れた服は河で洗って、何もなかった様子で戻る、老人は役所に申請するための書類を書いている、なんとしても林を守りたいのだ、法は守ってくれるはずと、訪ねた少年の落ち着きの無さ、足を踏み叩き、次にはぶらぶら、落ち着かない老人は叱る、少年は額の写真を見て困惑、目の前の老人が余りに若いのだから、実物の老人と写真の人物を左右の目を順次伏せて見比べる、可愛さ、時の感覚が少年には未だ馴染めない、四十日の感覚しか無いのだ、永い年月の老人の生活の思いにはどこか理解の外で、額の老人と老婆の二人の過去の写真を手にして、持ち出す、若い二人の写真に何を見る、この地に居ない両親か、もしや、少年の両親は死してしまっているのでは無いか、通りの柵に写真を挟み込む少年、隠し事、悪戯、祈り、監督が戻る、始めの一日は車で遠出、翌日から撮影が、青い空、白い雲、さて撮影の場、木漏れ日の中、監督の部下の男、仕事を辞めた青年は台本を読み上げる、後について語る老人、レフ板を持っている少年、少年は語りの老人の後ろを走り抜ける役も、何度遣っても老人の演技が旨くない、大量に使われる映画フィルム、大金だ、苛立ちの息子、が、そんな夕暮れの中、老人の見上げた木にマークが、芝居で雨かと上を見るシーンか在るのだが、その芝居の最中に見つけてしまう、役人が訪れてマークを付けていったのだ、老人は映画どころではない、やはりこの土地の木をも始末する段取りなのだ、慌てて戻っていく、町中で役人らの事を問いただすが、誰も満足に答えられない、どこに役人は居るのだろうか、真なのだろうか、老人の間違いでは無いのか、あの印だって、何の印かは判明していない、だが、ここに国家の、権力の不気味さが在るのは間違いないが、またの日、旨く撮影が、スタッフの持っている音のでるライター、少年は溜まらずに、老婆に時計ではなくライターが欲しいと、分かったと老婆、卵はこの通りと少年、狡の卵が出される、老婆は認めて、もう持っていなくても良いと、未だ日にちに満たないが、それぞれの思いこみが違うのだ、が、偶然か、スタッフが少年にライターを上げると、うれしさの少年、ならばと老婆にやはり時計が欲しいと、身勝手な頼み、老婆も何処まで本気で聞いているのか、撮影が終わって車で去る監督と老婆、一人残る老人、不安なのだ、見守っていないと、そんな老人が手にする置いて有った卵、責任感どころか、もう良いといわれたら直ぐに、残されて、この老人の手にした卵は、思いは、皆が願いを持って、監督とスタッフに諭される若者、都会の生活は楽ではないと、それでも彼は行くかと、誘っておきながら、仕事まで辞めてしまったのに、今更に、溜まらない青年、撮影の最中に、一人不安げに彼方を見つめる青年の痛ましさ、彼には彼の卵が、監督には撮影が、都会に有りながら、結局田舎の生活を捕らえる監督、彼の卵は、合理的な人集めキャストもスタッフも、利用してお払い箱、少年の願い、老婆の願いとは、そして、老人の願い、しかし、卵の願いなど、トマトの落下一つで狂ってしまう、狡も使える、狡を為るとは何、監督は少年を唆したが、少年はそれは狡と拒んでいた、自信が在ったからか、割れるまでは、さて、だが、ライターを手にしたのは偶然、スタッフの男を何度も見つめ、少年が惹かれていたから上げたのだ、願いは何処に、どうやって実現するか、時にはあまりにあっさりと、美しい風景の中、監督の過去に捕らえた両親のビデオ、近代化、技術、皺のハッキリ捕えられた映像、だが、今よりは若い、時の厳しさ、狡と偶然、でもこれを期待することは出来まい、ラスト木に持たれて横になる老人、一晩の撮影が終わり、明け方の光の中、居眠りか、死か、何も解決しない現実、私達の卵たる映画は、見つめる視線は何を想う、何を見続ける、時に偶然割れもするのだろうが、ラストに何を想う、何を見る、ラストに始まる、卵など信用しない、信用する映画としてなどは見ないとしても、映画は有る、卵は有る、割れたとしても、あのべっとりした黄身の質感を想いながら、始まる、ラストに、老人の手の中の卵、少年の手にした卵、今私たちの個々に観る、聞く、触れる、卵、それは祈り、押し寄せる不安、権力の不安の中に、過ぎ去る時の不安の中に、在る、祈り、さて、このトルコ映画に対して、日本の過去のダムに沈んでいく村のドキュメンタリー映画「越後奥三面 山に生かされた日々」は響き合って谺している、たまたま同時期に私が観たばかりにこうした思いにとらわれるのだが、映画を観るとは、自由に他作品も重ねて見て聞いて仕舞えることの楽しさなのだ、力なのだ、