戸を閉めに立てば近くの除夜の鐘 深見けん二
その頃、そうですねえ、独身者は、あたしの部屋では二、三人でしたか。あたしはもちろん、まだひとり身でした。
あたしが結婚したのは、外島に来て一年余り経ってからでしたか、もうはっきり憶えてませんけど、昭和六、七年だったと思います。
手足はだいぶいい人でしたけど、眼はもう駄目で、日蓮宗の導師をしていた人でした。あたしも、身延にいたせいで日蓮宗ですから。その人が二度三度お勤めに行くありさまを見ていてね・・・手足がいいといっても盲人ですから、不自由でしょ。それに当時は、男には男の付添いさんということになってましたから、やっかいでしょうと思いまして・・・。
いやあ、恋愛ってほどのものじゃあありますまいねえ。もちろん、ぜんぜん嫌なら結婚しないでしょうけれど、とにかく、十八も齢はちがってたんですから・・・ただ、不自由だろうと思いましてね・・・。
その人とは、二十九年間つれそいました。山田法水といいましたけれど。
外島では、結婚してる人の方がずっと多ござんしたよ。独身者は四分の一くらいでしたかねえ・・・それがねえ、みんな淋しいといおうか何といおうか、女の人が入ってきますとね、まあ、いろんな、仲人になろうとする人が来ましてね、この人はどうだあの人はどうだって、やたらにすすめに来るんです。ま、あたしは自分で選びましたけど。
ところが、あたしと十八もちがうんですから、あれは金がめあてだ、金さえ取ってしまえばそれっきりだって、そんな陰口を叩かれましてね。あたしの耳には二、三年も経ってから入ってきたんですけど。
だけど、二十九年間めんどうみましたよ。導師をしていた人だけに、亡くなる時はきれいでした。ちゃんと、こうやって、手を合わせて、おばあさん、ありがとうございましたって合掌しました。
二十九年間といいますけど、その途中で、あたしが目を失いましたろ、目の悪い人の不自由を見てお世話するつもりになったんでしょ、そのあたしが目を失ってしまって・・・。
そこからが、あたしの、本当の修行がはじまったんですね。それまでは、どんなことでもつらいとは思いませんでしたけれど・・・あれからが、あたしの、頂上の修行でした。
ともかく、その人を送ることができまして・・・。
この病気は、どこもかしこもみんなしびれてしまいますけど、舌だけは麻痺しない。あたしも目を失くしてからは、ほんとにそれで助かりました。特におじいさんが病んでからは、なんでも噛んで食べさせてあげるのですが、硬さも熱さも、みんな舌があってこそね、わかるのですから・・・。だけど、入歯を洗ってあげることができなくなったのはつらかったです。ですが、これも舌に助けられたんです。
入歯を洗うのは、他人さまには頼みにくい。いえ、お願いして、やって下さらないことはないのですが、他人の入歯を洗うというのは、気持のいいもんじゃありませんです。あたしはこのとおり、今も入歯をしたことはありませんけど、おじいさんのを長年洗っていて、これはなかなか、他人さんにお願いできるようなことじゃないってわかってますから。あれはいけませんですよ。
というのは、食べカスがついたりしてて、ヌラヌラしますでしょ。それをあたしは、目がいい時は、ブラシの硬いので何回も何回も洗いましたけど、目が見えなくなると、ブラシがあってもこすられんのです。すぐ落とすんです。手が麻痺してますから、持ってるものやらなにやらわからなくなるんです。目が見えなくなってわかるのは、それまで目でこすってたんですよ。目で持ってたんですよ。手でこすったり持ったりしてたんじゃないんですねえ。
それで、しょうがないから、あたしは、自分の歯でみんなカスを取って、そして舌でさぐってみて、これでどこにも汚れはない、みんな取れてると確かめてから、おじいさんに入れてあげました。これは、あたしが目を失ってから九年間、やりとおしました。
その九年間が・・・。
だけど、臨終の時、ひと言、おじいさんがあたしを拝みましたのでね、もう・・・苦労は忘れました。この人(橋本正樹氏)は、当時、隣の部屋にいたんです。この人はその時分から、あたしのしてきたことを、一部始終しっています。おじいさんが死んで一年経ってから、こんどは逆に、あたしのめんどうをみてやろうと思ってくれたんでしょうか、一緒になることになりまして・・・。
なんだか、話がずいぶんこっちの方まできてしまいましたねえ。・・・外島の作業の話でしたね。
生きている 藤本トシ
おおげさに言えば、数えきれないほど落としては拾い、拾ってはまた落としてしまい、そのたびに部屋中を這いまわり撫ぜまわりながら、わたしの手はようやく一粒の栗を拾った。瞬間、凱歌にも似た太息が唇をついて出る。心に小鳥も海も躍動する朝の風景が開けて、相好をくずした私が、そのさわやかさの中にとける。額は苦闘のなごりの汗を吹いているが、そんなことは苦にならない。
このように物をさがす場合、家人がいればすぐに見てくれるし、今日のように留守であっても、インターホンで頼めば補導員さんがすぐ来て、苦もなく用を足してくれるのだが、しかしそのときには、喜びと感謝の思いがあるだけなのである。ときによると、その思いのなかに、
「こんなことさえ出来なくなってしまったのか」なぞと愚痴が貌を出すことさえあるのだ。
骨が折れたにせよ、暇がかかったにもせよ、小さいものほど始末に困る麻痺ぶかい手が、自力で栗を拾い得たこの感動は、言いようもなく深いものである。そこからは生のあかしが生まれるからだ。
先日、私の部屋に七十になる盲友があそびに来られた。秋季大掃除の前日であった。友はくつろいだ口調で話しはじめたのである。
「うちは、きのう押入れの掃除を全部してしまったぜ。拭き掃除は補導員さんにしてもらったが、夏冬の道具の入れかえは、脚立をつかって三階まで一人でちゃんとすませてしまった。むろん蒲団もやってのけたよ」
私はびっくりしてしまった。三階とは一間の押入れの上にもう一段天井までの押入れがあって、さしあたり不用のものを入れておく倉庫がわりのところである。わたしは問うた。
「あんな高いところから、重い蒲団をどうやって下ろしたり上げたりするんです」と。
「頭さ、頭を使うんだ。まず脚立にのぼって、一ばん上のをそっと頭にのせるとしずかに下りて、それを畳の上におく。このくり返しをやって下ろし終わったら、今度は上げるばんや。
やっぱり一枚頭にのせると、脚立にのぼって、三階に首が出たら、そこでぐっとおじぎをするんだ。すると蒲団がぱっと押入れの中に入るやろ。これを二、三回やったら終わりや」
友は呵々と笑った。おそらくその一瞬、この盲友も生の実感を得たのであろう。誇らかに眉をあげたであろう。足にまだある感覚を、こよない宝と思いながら・・・。
けさは鵙(もず)がたいへんよく鳴く。すばらしい晴であろう。窓をいっぱいに開けてふかぶかと呼吸する。そのとき遠くで池野のお婆ちゃんらしい声がした。久しく会わない人である。確かめようと身をのりだしたとき、過ぎた日のひとこまが胸をよぎった。
「あんたよう、なにまごまごしてるんや・・・」
これが、わたしの耳がとらえた池野のお婆ちゃんの第一声である。
あの日も快晴であった。ひとまわり散歩をして、楓陰亭にゆく坂下まできたとき、私はなんとかして一人で亭まで行ってみようという気をおこしたのである。これまでにも何度そう思ったことかしれない。理由は、内海の風景はもはや見るよしもないが、そこにある四季それぞれの長閑(のどか)さに私は心をひかれていて、人手を借りずに行けたなら、おりおりそこに坐して、松風や笹生の香や、草をけるキチキチバッタなどの中にいたいという、切な望みがあったからだ。
しかしいざとなると、無感覚のうえに数回の手術で、すっかり変形した足には自信がもてず、杖は突くたび両手の中でぐらぐらする頼りなさに、つい気勢をそがれて思いはいつも立消えになっていたのである。
だがその日はちがった。どうしてもという気であった。私は杖を右に向け、左に向けして、恐ろしい崖ぶちを確かめると、一歩を踏みだす地をたたいた。この時である、見知らぬお婆ちゃんが私に声をかけたのは。わたしは心の一部をかくして、
「亭まで行こうと思うのです」
とだけ答えた。
「そうか・・・。わてもあそこへ行くんよ、ちょうどいい、連れになろうや」
お婆ちゃんは、ぽんと私の背をうった。
やがて二人は手に手をとって坂を登りはじめたのである。
意に反したが私は楽しくなっていた。
が、そのうちにお婆ちゃんの歩みは私よりもさらに頼りないのに気がついた。私は組んでいた手に力をこめるとお婆ちゃんの体を支えはじめたのである。よいしょー、よいしょー、坂はだんだん急になり、歩行はいよいよ千鳥になったが、お婆ちゃんのかけ声だけは威勢がよかった。
「ほーら着いたぜ、あとはコンクリートの段を六つ七つ登るだけや」
どうにか目的場所に来て、お婆ちゃんは明るく言ったが、私は当惑してしまった。段がもんだいなのである。もうお婆ちゃんの足は頼れない。杖はなおさら駄目である。どうしようか・・・と思いまどっている耳もとで、声がした。
「早う這わんかい。わてはな、いつも這うて登るのや、らくだぜ」
私は杖をぐっと帯にさしこんだ。突くほうを空にむけて。ふたりは一心に、陽光のなかを、うごめくような蟇(がま)の歩みをつづけたのである。
ようやく亭に腰をおろしたとき、お婆ちゃんはあたりかまわぬ声で笑った。その、けろりとしたひびきが真下の海にころげていった。
このとき私は、この新患者のお婆ちゃんから、わが手で生の歓びをかちとるために、残された可能を、えぐりだすことを学んだのである。
光芒 藤本トシ
三月四日、午前九時を少しまわったころ園内放送がかかってきた。
「今日は午後一時に障害年金四ヶ月分をお渡ししますから、受けられる方は印をもって分館へおいで下さい」
瞬間、寮はいつもより静かになった。受けられない友への遠慮めいた思いが口を封じたものらしい。だが、声のないざわめきが満ち潮のようにふくれてくる。かがやく眸の饒舌が感じられる。ハンセン氏病園のうちでも、最も深い谷間にはじめてさしたこぼれ陽である。そのなかで私もまずはほっとした。
「さあ・・・これあんたの分や、さわってみ。六千円やで」
暖かくなった午後の道からはずんだ足音が戻ってきて、名ばかりの私の手に紙幣をぽんと載せてくれた。それを探っていると、紙幣を透して抄本がちらちらする。ふじ紫だったという私の戸籍抄本、それが配達されたときと同じ吐息がふいに心をついてでた。
ふるさとからの音信が絶えて三十年である。その間にあの苛烈な戦争があったので、郷里の人々はすでに私は亡き者と俤(おもかげ))さえも忘れ果てていたのだろう。私も結局それが気楽と喜んでいたのだったが、こと年金問題となると、その救いの手を、一人で一級障害をいくつも背負う身であるために、入用もかさむことから諦めきれなかったのである。
抄本を送って貰おう・・・と決心はしたが、しかし私は戦後の家族の住所を知らない。そこでやむなくたった一人の知人に頼んで、家族へ手紙を渡して貰ったのである。
幽霊からの通信にどんなにみんな驚いたことであろう。だが寝ている子を起こした私も、折りかえしきた甥の返事を読んで貰って、少なからずろうばいしたのである。
彼は、私が家を出てから十余年後に生まれた次兄の末っ子であるらしい。高校を終えると、一人横浜へ来て遠縁の店で働いているというのである。私の病気などみじんも気付いていないらしい。こんなことが書いてあった。
「僕は今日久しぶりに新田へ遊びに行きました。ちょうど良かったと言って叔母さんの手紙を渡してくれたのです。
僕はこのときまで叔母さんがあることをぜんぜん知りませんでした。叔母さんはどうして一人だけそんなに遠くへ行ったのですか。
父は二十年も前に死んだのですが、叔母さんは御存じなかったのですか。本家の伯父さんも同じ年に亡くなっているのですよ。それから、抄本のことは早速母の方へ申しおくりましたから御安心下さい。(中略)
それでも僕は叔母さんがいることを知って本当にうれしいのです。近いうちに都合をつけてきっと遊びに行きます。父は僕が歩き始めたころ亡くなりましたので、その顔を少しも憶えていないので、叔母さんに会ったら父の面影が浮かぶだろう・・・と思うといまからでも行きたい気がします。叔母さんにも幾人かの子供さんがあるのでしょう。会っていろいろ話し合うのが楽しみです」
これは困ったとしょんぼりしている私のそばで、読み手はくすくす笑っていた。その笑いの底で、同病者である手がそっと私の心を撫でた。愁いをほぐしてくれていた。やがて抄本が手にはいると、その晩考えたあげく、
「私も広ちゃんに会いたい気持ちで一杯です。しかし近日中にここから隣り町へ移ることになっておりますので少しお待ちになって下さい。引越しがすみしだいくわしい住所をお知らせいたします。ではお体を大切に」
甥に出す礼状の末尾に、私はおずおずこの嘘を添えた。こうしてさりげなく濃霧の中へ這入ってしまった。親も兄弟さえも既にない故里、そのような所へもう二度と出てはならない幽霊なのだ。
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てのひらの六千円がいま私から離れてがまぐちへ入れられようとしている。その前の道を、これから貰いに行く下駄が急ぎ、ポケットを押えていそいそと盲杖が戻ってくる。どの足音にも柔かくまつわる早春が感じられてうれしい。
あすこそは新しい魚が、思いに想ったトランジスターが、ナイロンのカッターが、季節に合ったスカートが、彼または彼女のものとなるであろう。
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その夜みえさんが遊びに来た。火鉢の前へ坐るとすぐに、
「なあ・・・もう春やから色はピングがいいやろか。それとも赤のほうがうつるやろか・・・」
いきなり始めたこの問いに、私はちょっととまどったがすぐ意を察して、
「そうねえ、どっちもいいけれど・・・でもそのうちにいろんな既製品を売りに来るんでしょ。そのとき色にこだわらずに一番可愛らしい感じの服を選べばいいじゃないの」
と答えた。彼女は、ふるさとに幼い子供を残して来た母親だったのである。希みはまず愛児へのおくりものだったのだ。灯のもとでなおあれもこれもと、やりたい物の胸算用をつづけているみえさん。そのお相手で私の頭もいそがしい。切れた私の絆。生々しく結ばれている友の絆。ふたりは何時しか互いにそれをみつめていた。みおつくしの鐘が鳴るとみえさんは慌てて帰っていった。親としてのせめてもの希いがかなえられる軽やかな足どりで。隣の窓からは、もう静かな寝息が洩れてくる。
辛うじて得た、ひとすじの光芒の中に浮かぶ喜びの群像。そのひとびとに、今宵の夢はまどかであろう。
1960年(昭和35年)
ほしかげ 藤本トシ
私は今までに死を覚悟したことが三度ある。一は関東大震災で、火の粉の雨を濡れ蒲団でふせぎながら、ゆれる大地にしがみついていたとき。三は第一室戸台風で、大阪の外島保養院(光明園の前身)は壊滅、あっと言うまに全員濁流におし流されてしまっとき。二、このときだけは、みずから選んだみちであったが、しかし、ともかく三回とも命拾いをしたのである。が・・・実のところ、その後のさだめもきびしくて、拾ったいのちが邪魔になる日もいくたびかあったのである。
このようなある日、私は消極的自殺という言葉を聞いた。おかしなことに私の心はこのときパッと明るくなったのである。私はすでに失明していたし、両手の指もうしなっていたので、麻痺ぶかい掌だけでは縊死もできず、一夜でめしいた身の悲しさは、入水しようにも海までゆく見当がつかないのである。そこで毎日うっとうしい顔をして、「梅雨」のような涙を人知れず流しつづけていたのである。つまり消極的自殺を実行していたのである。
だが私の気持はその日から変わった。いつになったらけりがつくのか知れない自殺、そんなことをのんびりしてはいられないのだ。もうイチかバチかである。けれどイチは見込みがない。とすればバチを取るより方法はないのである。私は肝をすえて闇を凝視することにした。
暗中に、きらりと砂金のような光を見出し得たのは幾日へたころであろうか。不思議なもので、一つみつかると夕星がしだいに数をますように、私の砂金もだんだん殖えていったのである。
ともあれ、最初の「きらり」はこうであった。
「こんちわ・・・、吉川さんいるかな・・・」
室員たちは出払って、私一人ぼんやり坐っていると三平さんの声がした。
「畑へ行って留守だけど、でも、もう帰るじぶんよ。あがってお待ちなさいな」
私がそう言っているところへ吉川さんが戻ってきた。他の友も一緒である。めいめい開墾した畑に何かの種を蒔きに行ってたものらしい。
吉川さんは甘藷の粉でお団子を作り始めた。三平さんが二つ返事で食べると言ったからである。昭和二十五年の早春であった。食糧事情はすこし良くなっていたが、それにしても代用食の藷の粉が残っているのは自作農のおかげである。三平さんは盲人なのでその余得はない。
「さあ、たんと出来たぜ。熱いうちに腹いっぱい食べや」
吉川さんは三平さんの手にホークをくくってやった。
彼は私とおなじように指がないのである。
時計は十一時を打っていた。
「ああ・・・ごっつおさん」
三平さんの謝辞が聞こえたのは、それからだいぶ時がたってからである。吉川さんは言った。
「もういいのかいおっさん。団子は粉のありったけ二十七作ったんやぜ。あと二つ残っとる。がんばらんかい」
「うん、じゃあよばれる」
三平さんが答えた瞬間、室員たちはどっと声をあげて笑い出した。吉川さんの藷団子といえば、少しひらたいが直系五、六センチはあるのである。それを二十七平らげようと言うのである。
「えっへっへへ・・・」
みんなの笑いが納まらぬうちに三平さんは食べ終わって、一緒になって笑いはじめた。私は二度びっくりしたのである。くったくもこだわりもない声のひびきであった。私の知る三平さんとは全く別の感じであった。
「なぜだろう」
私は思いまどったのである。
三平さんは園にきて二年たらず、まだ新患の部に属する人であった。彼は家族のことが心配でいつもしょんぼりしていたのである。私たちにこう話したことがあった。
「おれは三十六のとき病気になってしもうた。上ふたりは亡くなって、下の子が四ツのときだった。
その子を残して、家内はさとへ帰ってしまうし、親たちは七十に近いし、病気だからといって、ひっこんでおられんやろ。だから俺は人目をさけて暗いうちに山へ行き、暗くなってから戻るようにして何年か働きつづけた。
あるとき蜜柑の木を消毒していたら、その液が眼に入ってな、それからだんだん見えなくなってしもうた。
盲になってから俺がいちばん困ったのは、子供が二、三年生のときだった。読めない字を子供に聞かれると、俺は冬でも裸になった。背中の右てに麻痺していないところがあるのや。そこへ子供が指で書くのだが、書く順を知らんやろう。だからやたらに横縦ひっぱるので、なかなか見当がつかんのや。子供はじれるし、俺は寒いし、まったく泣けたぜ」
三平さんはその他にも多くの悩みがあったであろう。
「俺ほど辛い人間はあるまい」
と言っていたのに、その重荷をいつ・・・どのように処理したのであろうか。自分を笑う人たちと共に洒々落々声を合わせて笑っている。私は問うた。
「きょうは楽しいことがあるのね」と。
「うーん。見る方向を変えたんや。どうせ苦労するんなら残り福を探そうと思いついたんや」
私は三平さんに痛いところを、ぐさりと刺されたような気がした。その傷口から汚水がほとばしり出ていく気がした。
このとき初めて、私は砂金のかげを見たのである。
1969年(昭和44年)
足あと 藤本トシ
「めくらさんにはね、とくべつに神様がついていてくださるのだよ。そして教えてくださるから独りでもなんでも上手にできるのさ」
私は今でもこの言葉を忘れない。私は末子なので小学校へ入るころになると、母は年のせいかよく肩をこらした。そして按摩さんを頼みにゆくのは私の役になっていた。その按摩さんがである。今のように車のはんらんはなかったにもせよ、他のさまざまな乗物と、ひと通りの多い街をたった一人で二度も角を曲がって、まちがいなく私の家に来るのである。それがいかにも不思議であった。おさない脳裡には、めくら鬼にされた時たいていは困って泣く自分の姿が浮かんでいた。
不思議はまだあった。ながい療治がすむと母はきまって茶菓を、時間によっては食事をだした。按摩さんはそれを実にきれいに食べるのである。骨っぽい小魚、貝、汁、豆などの難物さえ手ぎわよくさばいて少しもこぼさない。すむとお行儀よく一礼して座をはなれ、母から渡されたお金を指先で確かめると更に一礼して静かに帰って行くのである。
先の言葉は唖然としてその姿を見おくる私に、笑顔で母がささやいたものである。その時には、めくらにはめくらの神様がついててくださるかどうか、わが身で確かめる時が来ようなぞとは夢にも思わなかったのである。
さて、盲目となって、見るかげもない手足になって、私は神様から何を教えられたのであろう。わからない、が・・・おぼろげながら受けとめられたのは、涙の底を掘り下げろ、ということである。ともしびは我が手で獲得するものだ、ということである。
ともあれ、私はこの掘り下げ作業を始めるようになってから、よく春木のお婆ちゃんを思い出す。というより知らず知らずお手本にしているのかもしれない。この人の両手はてのひらさえ殆どなかった。足も同様で、ひざでいざって、いつも用事を足していた。眼こそ見えたがまことに不自由な日常だったのである。
お婆ちゃんは八畳五人の部屋にいた。私はそこの付添いだったのである(外島時代のこと)。ある時お婆ちゃんは私に、
「重箱の上になあ、長い箸を一本横にのせて、その上と下とに団子を一つずつ置いたような字はなんと読むのや」と問うた。
「そんな字どこに書いてあるの」と聞くと、けさ来た手紙の中にあるというのである。しかし手紙は見せてくれなかった。何かわけがあるらしい。私はじーっと考えていたが、そのうちに、はたと思いあたったのである。いつか本にあったのを教えてあげた文字である。私は言った。
「それは、母という字よ」
「ああそうか・・・、それでようわかったわ」とお婆ちゃんはにこにこした。
その後お婆ちゃんは感ずるところがあってか、少年寮から不要になった二、三年生の読本を借りると、猛勉強をはじめたのである。先生は私であった。教師は頼りないが、お婆ちゃんの熱意の成果はすばらしいもので、一年も経つと便りはおろか、ふりがなつきとはいえ大衆雑誌もどうにか読めるようになったのである。それからのお婆ちゃんは、いつも盲人たちに囲まれていた。娯楽の乏しかった時代なので、お婆ちゃんの読書はその人たちにとって真実大きな慰めだったのである。
こうして、あの第一室戸台風の高潮に呑み込まれる日まで、お婆ちゃんは盲人たちの心に、そして、自分のたましいに火を点じつづけていたのである。
今私の周囲には、盲友たちの実に美事な足あとがたくさんある。その最たるものは十一園のライ盲者が万難を排して手をつないだことである。全盲連を結成したことである。そこから生まれでる幾多の活動、その成果のひとつひとつが、谷底の者をうるおす水滴となっているのだ。重症の私はその恩恵をうけるばかりの不甲斐なさなのである。だが、全力をしぼって自他の心を日おもてに向けさせた、このお婆ちゃんの心意気だけは、私のものにしたいのだ。
秋 藤本トシ
今年もコスモスの季節になった。空はどんなに美しいであろう。深々と澄んだ蒼さを思い浮かべていると、そのなかで・・・あの可憐な花が揺らぐ。コスモスは洒落た洋館の庭にあってもいい。炊煙のなびく藁屋の背戸でも調和する。山村の駅のほとりに、ひっそりと寄りそって咲いていた一叢の薄くれないの花を私は今でも忘れない。
コスモス。私はこの花がもとから好きではあったが、とりわけ二、三年まえから心をひかれるようになってきた。これには理由がある。
私の眼が明らかだった時のことである。ある夜四、五人の友と雑談を交していると、そのうちに玉枝というまだ新患の娘が自分の過去を話し始めた。
彼女は中流の家庭に育ったらしい。しかし病気になると物置が少し改造されて、そこが彼女の住居になった。そのうえ戸外に出ることを一切禁じられてしまったのである。若いみそらで、明けても暮れてもがらくたと同居である。窓さえめったに開けられない薄暗い小屋での生活は、気が狂うほど侘しかったという。
この辛さに耐えかねたある日、彼女は世間がまだ寝しずまっている夜明け前に、窓からそっと抜け出した。むろん跣(はだし)である。さいわい町はずれだったので、草原でも土手でも歩くところは広々としていたらしい。そこで思いきり外気を吸って、東天がやや白みそめると、幽霊のように慌てて墓所へ帰った。
墓所、彼女は自分の住居をそういうのである。この秘密は誰にも漏れなかった。味をしめた彼女は、それから毎日お天気でさえあればこの冒険をやったのである。
「ほんまに、あのときの星空の美しかったこと。残り月の清らかだったこと。野川の音や穂草のそよぎまでが全く絵のようでな、この世のものとは思われんほどやった」。彼女はこう術懐した。
ある朝、例のごとく暁光に追われて急いで野路を帰っていく途中、土橋の上まで来ると、一茎のコスモスがしっとりと露にぬれて落ちていた。誰が落としたのであろう・・・などと考えているひまはない。彼女はそれを奪うように拾うと駈けだした。
がらくたの中から小瓶を探し出すと、彼女は洗面の水を節約してそこへ入れた。それにコスモスを挿したのである。墓所の中のたった一つの彩り。彼女はそれを、とみこうみして飽くことを知らなかった。が、油断はできないのである。家人に見られたら外出したことがばれてしまう。それこそ一大事である。彼女は恟々として、かすかな跫音でもすばやくそれを押入れに隠した。
はかない楽しみである。それも長く続く筈はないのである。数日後、花はとうとう彼女の膝で散ってしまった。
「家の人に内証やから、その花屑を捨てるのに困ったやろう」
誰かが聞いた。彼女の答はこうであった。
「いいや、花はなんにも捨てやせん」
「じゃーどうしたんや・・・」
「わて・・・何もかも食べてしもうたもん」
「まあー」
友だちはどっと笑った。実は私も奇異に感じたのである。発病後のくらしが、私のほうがやや幸福だったのか、それとも、更に深い苦悩の日々であったのか、ともかく少しずれがあってその気持が呑み込めなかったのである。
・・・・・・
その後私には失明という打撃があった。手足の感覚がないので、口で物を確かめるより仕方がなくなったのである。初めのうちは唇が大方その役を引受けてくれていたのだが、しだいにおぼつかなくなってきて、近年では舌がそれに代わるようになった。来る日も来る日も、生活する為の物に、舌はまず体当たりして、それを私に教えてくれるのである。あるとき私はマーガレットの花を貰った。へやの飾りとしてのものには、遠慮なのであまり触れないが、自分のものとなると、専用の花筒に入れて心おどらす私なのである。このときも、一日にいくど探りにいったことか。二、三日たっての朝、私は顔を洗うとすぐ、マーガレットにキスの挨拶にでかけた。終えてから静かに筒を置こうとすると、舌先に花びらが残っていた。散る時が来たのであろう。私はそう思いながら、しごく自然にその花びらを食べてしまった。そしてやっと思い当たったのである。あのときの、若い友の言葉が━━。
病苦と、孤独に苛まれていた乙女の心は、拾った瞬間から、コスモスと一体になってしまったのである。芯を食べようと花びらを食べようと、それはあたりまえだったのだ。一体なのを具象化しただけなのだからである。私は晴ればれとした。
私の肩をそって撫でて、朝闌の風が過ぎた。甘藷が焼けているのであろう。隣室から秋の匂いがもれてくる。
1963年(昭和38年)