chuo1976

心のたねを言の葉として

六月の樹々の光に歩むかな                            

2020-05-31 09:08:58 | 文学

六月の樹々の光に歩むかな
                           石井露月

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『悪徳の栄え』 マルキ・ド・サド  澁澤龍彦訳    1965年

2020-05-30 05:28:29 | 文学

『悪徳の栄え』 マルキ・ド・サド  澁澤龍彦訳    1965年刊 桃源社


  マルキ・ド・サドは74年の生涯の後半生を、牢獄で過ごしたという。サドは貴族の特権として性的狂乱に耽った。そして、その性的狂乱の罪で残り半分の人生を獄中で過ごすことになるのだが、サドはその後半生の獄中で、「大小50巻に達する書物に性的想像力の極みを言葉に移しおえた」(松岡正剛)。本書は、獄中で書かれたサドの代表作と言われている。訳者は澁澤龍彦。ちなみに、同書は1969年わいせつ文書として有罪判決を受けている。

 

バタイユ「エロティシズムの社会化」

サドはつねに社会と強姦し、輪姦し、凌辱したという見方。バタイユがそこから「悪」こそが社会とエロティシズムの本質を嗅ぎ分けるにあたって最も必要欠くべからざるものだという思想に到達していった。

 バタイユの思想のほとんどすべてはサドのなかにあった。

『悪徳の栄え』 ノアルスイユ「悪徳こそ人間に固有なもの、それにくらべれば美徳は利己主義のおちんちんのようなものだ」

        サン・フォン「この悲惨な社会に必要なものは悪であって、それがなければ組織なんてつくれない」

        ジュリエット「自然の唯一の法則はエゴイズムで、そのエゴイズムを破れるのは他人と享楽を分かちあう悪徳だけですわ」

 

 

 

 サドがたんなるアルゴラグニアであったかどうかということは、いまでは疑問視されている。『悪徳の栄え』にも『新ジュスティーヌ』にも出てくるのだが、サドの快楽は放蕩によって傲慢を獲得することであり、屈辱によって矜持を強化するためでもあったからである。必ずしも被虐にのみ溺れていない。
 もうひとつ、マルセイユ事件が露呈したことは、サドに「コプロフィリア」や「ウラニスム」があったということである。コプロフィリアは糞便愛のこと、ウラニスムは肛門愛のことであるが、コプロフィリアについては『ソドム百二十日』で大きな比重を与えられているわりに、サドが執着していたという形跡はない。
 ウラニスムは鶏姦をともなうもので、これについては数々の乱行の記録を見るかぎりサドはつねにこだわっていたようだ。ボーヴォワールはサドのリビドーは肛門愛を中心に広がったのではないかと推理した。この見方はいまではサドに関する"常識"になっている。ぼくはコプロフィリアやウラニスムには近付けない(サド侯爵とぼくを較べてもしょうがないけどね)。
 さらに、マルセイユ事件があからさまにしたことがある。サドには極度の視姦主義があったということだ。
 他者の性行為を目撃することが自身の性欲のみならずいっさいの精神の興奮をもたらすということは、対自と対他が対立することなくエロスの根本に集中していたことを暗示する。そこには主客の入れ替わりがおこる。実際にもマルセイユでは、サドは下男を「侯爵さま」とよび、その"侯爵化した下男"の一物が目の前でそそり立つことをもって自身の怒張を感じた。
 このことはのちにバタイユらによって「エロティシズムの社会化」としてとくに重視された。サドはつねに社会と強姦し、輪姦し、凌辱したという見方だ。バタイユがそこから「悪」こそが社会とエロティシズムの本質を嗅ぎ分けるにあたって最も必要欠くべからざるものだという思想に到達していったことは、いまさら加言するまでもない。バタイユはそこから無神学大全を、有罪者の思想を、そして蕩尽の経済学をおもいつく。
 バタイユの思想のほとんどすべてはサドのなかにあったのである。すでにサド自身が『悪徳の栄え』で、ノアルスイユに「悪徳こそ人間に固有なもの、それにくらべれば美徳は利己主義のおちんちんのようなものだ」とか、サン・フォンに「この悲惨な社会に必要なものは悪であって、それがなければ組織なんてつくれない」とか、ジュリエットに「自然の唯一の法則はエゴイズムで、そのエゴイズムを破れるのは他人と享楽を分かちあう悪徳だけですわ」とかと言わせている。
 サドが何を書いたかではない。獄中のサドがどのような日々をおくったかということが、サドの謎の最大の問題なのである。

「松岡正剛の千夜千冊」 https://1000ya.isis.ne.jp/1136.html

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塩漬けの小梅噛みつつ冷酒かな                           

2020-05-29 05:50:59 | 俳句

塩漬けの小梅噛みつつ冷酒かな
                           徳川夢声

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コロナ・パンデミックについての八つの断章 比較文学者・四方田犬彦

2020-05-28 04:36:00 | 文学

コロナ・パンデミックについての八つの断章 比較文学者・四方田犬彦
2020.05.27
https://www.asahi.com/and_M/20200527/12076421/?iref=comtop_fbox_u02
 
<7>
今では誰もがヒキコモリになってしまった。もう元祖ヒキコモリを笑うことはできない。さまざまな理由から家の外に出ることを拒絶してきた者は、世界の全体がはからずも自分たちと同じ趨勢(すうせい)に陥ってしまったことをどう思っているだろうか。
ヒキコモリ(incubation)には宗教的な修行から現在の社会化した家庭内の現象までさまざまなタイプがあり、一律に論じることはできない。しかし、少なくともこれまでその行為に対し無理解と軽蔑をしてきた者たちは、自分たちがサルトルのいう「出口なし」の状況に置かれていることから出発して、ヒキコモリについて新しい共感的認識を抱く機会が与えられたのではないだろうか。
DVとレイシズムについてもしかり。それはもはやひとごとではなくなった。いたるところでDVが噴出し、理性のもとに統制されていたはずのレイシズムが明確な形をとって出現している。ネオナチやヘイトスピーチの徒(と)が、ほら、きみたちも同じじゃないかと笑っている姿が目に浮かぶ。
権力の側からの「自粛」を良しとしない者は、共同体の名のもとに非難され、排除される。感染する・しないが個人の倫理的責任であるかのように報道される。風評という風評がインターネット空間を駆け廻り、大新聞は一面に書く記事に事欠いて、なんとか感傷的な美談を捜し出そうとして挫折する。

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ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅧ「追われる男」を見る聴く、 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ  2020/5/27

2020-05-27 05:22:00 | 映画

ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅧ「追われる男」を見る聴く、     『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ  2020/5/27

  西部の川沿いの一本道、縦に捕らえられた道を、馬上の男が現れる、タイトルバック、歌が流れて、主人公は高見に登り、川岸に、振り返り降りていく、水を汲むのだろうか、川に向かってかがんだ主人公、瞬時に銃を構えて振り返る、そこに一人の若者、背後から近づくなと主人公、西部を知らない若者とも、ここらにはいい人しか居ないと、悪かったと主人公、だが、何処か不審なところも孕んでの出会い、主人公は落ち着きどころを探している、こうして二人の旅が、線路沿い、空高く鷹が、列車が走り来る、若者は鷹を狙って撃つ、腕に自信があるのだと、始まりの出会いでも、早撃ちを語っていた、故に、怪しいのだが、若者が、早撃ち自慢とは、此処では鷹を外す、主人公が一発で仕留めて、列車は銀行の金を運ぶ、以前にも強盗団が、見張り役の二人は、不安顔で、馬上の二人を見詰めていた、また襲われるのではと、そこに銃声が、もはや、逃れられないと、周章てて札束の入った革の袋を二人に投げ出すのだ、拾い上げ、勘違いと知って主人公は返さなくてはと、青年は、この大金で遊んで暮らせると、銃を構える隙に、主人公は袋を青年に投げつける、受け取った青年は銃を構えられずに、この瞬間の見事、裁き、列車を追い掛ける二人、先に街に着いた列車の見張りは、皆に報告、保安官らはライフルを手にして犯人を追う、そこに青年を先にして、現れた主人公ら二人、狙われ撃たれ、捕まって、瀕死の若者、リンチに合う危うい主人公、真実を告げて、撃たれて瀕死の青年は,街の人々の知る若者、見張りの勘違いを暴き、街の者たちを納めて、若者の元、医師は諦め顔、奇跡は起こらないと、それでも,介護する主人公、連れ来られた屋敷には,北欧での親子が、父と娘、美しい娘、親子は知り合いの青年を引き受けたのだ、なんと奇跡は起きて、命を取り留める、が、許せない、片足は満足に動かないのだ、嘆き、怒りの、悲しみの青年、それでも、何とか青年をまともな大人にしたい主人公は、諦めずに、説得、青年も主人公の思いを知ってか、立ち上がり、歩き出し、馬に乗り、主人公は親娘を手伝って、開墾する、過去のある主人公を知りながら、恋する娘、理解する父親、頑固ではあるのだが、青年は立ち直り、街に、主人公と娘は結婚話、そこに街の者たちが現れる、主人公に保安官を期待するのだ、前の保安官は,何処か怪しかった、給料も悪くない、街中で落ち着かない青年を助手にして、仕事を受け入れる、娘は農場で働いて欲しいが、不安だが、主人公に従って、主人公の過去、結婚していて、息子も在ったが、全てを失った、何が在ったかは未だ判らないままに、保安官に成り、助手の青年も落ち着き、娘と父も安心して、いよいよ結婚、そこに強盗が、銀行で金庫の配置図をメモる仲間、下見に来たのだが、行員に犯人のリストを知られて、金を奪い逃げる、これまで何も無く落ち着いていた街中に、衝撃、主人公は犯人を追う、助手の若者に後を託して、一人は捕まっている、主人公は一人、追い、捕まえて戻るのだ、裁判をするのだと、当たり前、だが、連れ戻ると、街の様子がおかしい、灯り、ネオン、音楽、歌い踊る男たち、いつにない祭りの様な騒ぎ、なんと、捕まった犯人はリンチされ、括られているのだ、見詰める主人公のショット、括られた者のシーンはないままに、怒りの主人公は,青年を詰り、酒場に、酔いしれる男たちを追いたてる、何が悪いのだと、検事の前につれて来て,罰金を取るのだ、法に則って,検事もまた、何をとばかり、これまでもきっと、街の男たちは、犯人らと変わらぬ無法を生きてきたのだ、楽しんで来たのだ、北欧出身の親娘は、故に,何処か,街から離れての暮らし、青年もまた,その周辺に生きてきた、過去は判らない、検事は取り立てた金は主人公のものだと、良い稼ぎだなと、主人公はそんな金は要らないと検事に,笑みの検事、困ったものだが、これが西部の現実、強盗団ばかりの問題では無いのだ、街の者たちだって、所詮無法者と変わらない、危うさの中に,国が,西部が、こうして一件は収まり、主人公と娘の恋、結婚話、父の受け止め、理解、かくて今日は、教会に皆が集まって、ミサ、説教の始まり、二人に取っても祝いの日、そこに現れた強盗団、なんと主人公の知り合い、監獄で一緒だったのだと、これには街の者たちも困惑、不審、間違って捕まり、愚かしい刑を受けたのだと主人公、故に、妻も子も失った、過去が明らかに、娘は信じて,ついていくが、犯人たちは銀行を襲い、金を奪い,逃げ去る、皆を集めて追う算段の主人公、だが,街の者たちは、主人公に疑いが、それでも、覚悟を決めて追い掛ける、自信のある主人公、犯人の気持ちが判るのだと、揶揄する街の者たち、犯人らは、インディアンの支配する、岩場の中に,逃げ込んで、街の者たちは、ここからは無理だと、主人公一人が岩場の中に,若者と二人で、二人で野宿、野営、インディアン、不安,青年は語り出す、一味の仲間なのだと、彼が全てを計ったのだと、あんたの息子では無いのだと、息子を失った思いを俺に託すなと、うんざりなのだと、お節介なのだと、主人公は何処まで気付いて居た,あの始まりの川べりの背後から狙われたとき、睨み合い、列車の袋を投げる主人公と後ろで銃を構える若者、保安官事務所を託されてのリンチ、首つり、瀕死の介護をする主人公と,苛立ちの若者、これらのシーンごとに,主人公は、娘は、青年を何処まで知っていた、理解していた、知ったかぶりの大人、自由を求めての己の欲望の若者、大人の理解の彼方に、青年は結局、一攫千金を求めて居た、犯人たち、仲間たちの死体、裏切られたのか、ボスと主人公を置いて立ち去った青年の采配、インディアンに狙われた、果たして、更に追い、廃墟の城跡に、ボスの男と青年の語らい、ボスを仕留め、青年と相対する主人公、早撃ちの若者、未だ、生きていたボスが銃に手を伸ばし、瞬間、若者はボスを撃つ、主人公は知らず、若者を撃ってしまうのだ、やはり,知ったかぶりの、大人は、若者の事を間違う、何時だって若者は判っていながら,やはり、大人の説教に収まりたくなくて、飛び出して仕舞う、奪われた金を手にして、戻ってくる、娘の元に、街の者たちも、この姿には、理解を示すしか、若者は、良くやったと、語るが、本当か、主人公が殺してしまったのだぞ、強盗団ばかりか、町の者たちも、無法の最中に、そして、結局、真っ当な、父親も撃ち殺され、若者も助けられずに殺してしまう、西部を生きるとは、近代を生きるとは、こんな苦悩の事なのだ、ラストはだから、若者は良くやったと、だが,余りに痛々しい、これで、主人公と娘は健やかに、生き延びられるのか,新しい子供を作れるのだろうか、主人公は瀕死の若者を肉体的に、撃たれた若者を奇跡的に助けた、だが、精神的に、助けられなかった、所詮、足を引きずる身障者でしか無い若者として、しかし、苦悩の過去のある主人公を、ラストには、青年が、駄目青年が、結果として助け出したのでは、ならば、助けた青年に依って助け出された、反抗する、若者たちに依って、大人がいかされたのだ、私が、余りに痛ましい私が残った、恋する娘と共に、

 

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ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅦ「Betty」を見る聴く、   『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ  2020/5/26

2020-05-26 05:13:32 | 映画

ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅦ「Betty」を見る聴く、   『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ  2020/5/26

  パリの街中、一人の女がバーに、カメラは外からガラス越しに座っている女を捕らえる、席を立ち、戻り、男たちが屯している、暫くして、男と共に外に現れる女、車に、頻りに煙草を燻らせる女、男は医師だと、レストランに、誘う男、狙いは、女のアップ、肌の、皮膚の、表情まで読み取れる映像、不気味、そしてまたアップ、額の汗、雨に濡れたか、汗か、女の濡れた髪、酒を頼み、頻りに飲む、煙草を吸う、休む間もなく、ウェイター、男の誘いで何やら小さな器具、注射針、そこに男が現れて、医師を連れ出す、主人公である女の元に、店の主人か、誘い連れ行く屋敷、貴婦人の如き女、ベッドの主人公、目覚めて、朝食、こうして此処での生活が始まる、貴婦人の狙いは、主人公はどこから、挿入される過去、主人公の頭に浮かぶのだろうか、客観描写か、判らない、お屋敷の若奥様だった主人公、夫、幼い姉妹の子供たち、傲慢な母親、夫の兄弟夫婦、匿ってくれている貴婦人と男、二人の関係は、セックスの声が聞こえて目覚めて、見てしまう主人公、だが、出ていく様子もなく、寝ているばかりの主人公、過去の眼鏡の男、愛人か、弁護士か、医師か、幼いころの父と女のセックス、父は誰を犯していた、母か、姉か、使用人か、判らない、真の父だろうか、育ててくれた叔父か、そもそも、主人公の両親とは、いや、主人公もまた、犯されていなかったか、少なくとも、視線としては見せ付けられていた、こうして育って、学校に、カフェで知り合った夫、若く美しい主人公、資産家の夫に見初められて、何処か育ちが違う、馴染めない、が、夫の意向で結婚、子供が生まれて、だが、躾は夫の母が、厳しい母、厳格なブルジョア一家、全ては一家の為に、ならば後継ぎが生まれないのは主人公のしくじりなのでもあるのか、満たされない思い、サックス奏者との恋、屋敷に招いて、裸で、青年のサックス、ソファで抱き合う姿を急遽戻った家族に見られてしまった、離婚するしかない、幼い子供たちは取られてしまって、行き場のないままに、街に、彷徨うしかない、飲んで、飲みくずれて、誘われ、連れ込まれ、抱かれ、弄ばれて、追い出され、風雨に晒され、宛ても無いままに、始まりのシーンに、資産家の母は何の為に生きている、あくまで家のために、息子も、嫁も、家のため、恋など関係ないのだ、だから、夫の恋故の結婚など、興味なかったろう、生まれた幼い子供、姉妹、彼女の采配は、従うしかない駄目息子、娼婦の様に抱かれる主人公、匿った貴婦人の優しさ、話の聞き役、だが、此処で挿入されるシーンは、主人公の語り、だが、真実とは限らないでは無いか、主人公の思い込みかも知れない、聞き入る貴婦人の思い込みとも、だから挿入されたシーンは危ういのだ、私たちが、監督含めて、こんなではなかったかとロマンを馳せたばかりではないのか、単なる娼婦に過ぎない、いや、単なる娼婦たちが、何処か皆こんなドラマの中に在るのでは無いのか、そんなドラマに感心して惹かれる者たち、突き放す者たち、弄ぶ者たち、貴婦人はドラマに嵌まり、結果として、己の男を寝取られてしまった、あくまで匿う側のこれまた傲慢な立場にあったが、資産家の母親と一緒なのだ、これがフランス、国家、ブルジョア、権力、恋などたわいないと、だが、別れた夫が訪ねて労る、彼に取ってはやはり、恋する女なのだ、幼い子供の母親なのだ、だが、何処か拒んで、己の道を行く主人公、頭を垂れて、さようなら、子供までも捨て去って、これまた、主人公の傲慢とも、身勝手とも、そして、貴婦人の男を寝取って、新しいロマンの世界に、貴婦人は一人去って行く、何処に、この囲いの匿いの世界の支配者は己ではなくなってしまった、屋敷を采配するのは、貴婦人ではもはやない、主人公なのだ、資産家の家でも、母親が全てを牛耳っているようで、主人公の思いが夫を動かし、屋敷に招き寄せ、子供を産み、愛人を誘い、裁いた、だが、夫の思いは、子供たちは、母親の権力はいつまで続く、危うい最中に在るのでは、知らず、主人公の恋が、欲望が、快楽が、お屋敷たちに、充満していく、そして、その外にまでも、バーに、クラブに、レストランに、通りに、街に、パリに、国家に、これこそが、革命なのだとも、知らず、主人公すら判っていない、貴婦人の男と共に、部屋の中、水槽の熱帯魚を見詰める主人公、水槽の反対側から手前側から映される主人公の姿、熱帯魚と共に、飼われているのか、外に飛び出しているのか、己の意思なのか、結果なのか、判らない、新しい女の女将の在り方か、いや、彼女にそんな算段があるとは思えないのだが、まさに、これこそが、今日の現実、知らず権力にならなければ良いのだが、心引きつける腰つきで、世界を惑わすばかり、溜まらない私たち、だが、この欲望の外は無いのだ、

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「キアロスタミと黒澤明」    関川宗英

2020-05-25 04:12:46 | 映画

「キアロスタミと黒澤明」    関川宗英


 1993年10月、山形国際ドキュメンタリー映画祭の審査員として来日していたキアロスタミは、かねてから敬愛している黒澤明監督を訪ね、二人で過ごす時を持った。1993年のカンヌ映画祭で審査員をつとめたキアロスタミは、特別招待作品『まあだだよ』をたずさえてこの地を訪れていた黒澤監督と会う機会がありながらも、果たせずにいた。

キアロスタミ「まず、監督のお宅に伺う機会を与えて下さったことにお礼申し上げます。今のこの気持ちをうまく表現できる言葉が見あたりません。私はカンヌ映画祭で監督の『まあだだよ』を拝見したのですが、そのときちょうど私の二列前に監督が座っていらしたので、私は映画と監督を一つのフレームの中で観ることができました。それは素晴らしい体験でした。(中略)イランでもっとも人気のある映画監督といえば、ヒッチコックと黒澤監督です。監督へのイラン人の敬愛の深さをもしご存じでしたら、長旅の苦労をおしてもイランまでいらしてくださるのにと思います。」

黒澤「私もイランへはいつか行きたいと思いますが、(中略)ただ、私は最近、あまり旅行ができないんです。足が痛むので遠出はできない。」

キアロスタミ「もし、イランにいらしてくださるなら、監督のお好きなように予定を組むとお約束します。」

黒澤「ぜひ、行ってみたいですね。今は足を治療しているから無理だけど、治ったらイランに行ってみたい。どの季節が一番いいんでしょう?」

キアロスタミ「監督のお好きな季節をお作りします。私の国の季節は特別で、同じ時期でも、ある地域ではマイナス30度で、別の地域ではプラス30度だったりします。監督のおいでになれる時期を選んでくだされば、お好きな季節を作ってお待ちします。」

 

 これは、友人からから、借りた本の中にあった一節だ。お互いに社交辞令も含めての会話なのだろうが、詩的な言葉の昇華へと高まっていく。
 人を敬うことで、辿り着ける精神の高み。孤独を知る者は、人との時間を大切にしようとする。人に対する畏れを知る者は、謙虚に、そして深く自己を探っていく。

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物語の読者失格    光源氏

2020-05-24 06:52:11 | 文学

『物語の結婚』 藤井貞和  1985年 創樹社  1800円

 しかし、光源氏の寵愛は、新枕をかわしたばかりの紫上へ向く。光源氏と六条御息所とのあいだはどうなるか、というと、野宮におもむいた光源氏と御息所はさいごの情交を持つ。野宮の場面で二人の情交が無かったかのように読みとる読者もいるが、一夜を共にし、あけがたのうたをとりかわす二人に、何ごともなかった、と見るようでは物語の読者失格である。(本書より)

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「芭蕉布」

2020-05-23 05:30:15 | 文学

「芭蕉布」

 

作詞:吉川安一、作曲:普久原恒勇

1 海の青さに 空の青
  南の風に 緑葉(みどりば)の
  芭蕉は情けに 手を招く
  常夏(とこなつ)の国
  我(わ)した島沖縄(うちなー)
2 首里(しゅり)の古城の 石だたみ
  昔を偲(しの)ぶ かたほとり
  実れる芭蕉 熟(う)れていた
  緑葉の下
  我した島沖縄(うちなー)
3 今は昔の 首里天(しゅいてぃん)加那志(がなし)
  唐(とう)ヲゥーつむぎ はたを織り
  上納ささげた 芭蕉布(ばしょうふ)
  浅地(あさじ)紺地(くんじ)の
  我した島沖縄(うちなー) 沖縄(うちなー)

 

《蛇足》 昭和40年(1965)発表。
 ハワイ三世の歌手・クララ新川の歌として企画されました。当初は1番をヤマトグチ(通常の日本語)、2番を英語、3番をウチナーヤマトグチ(沖縄弁)で歌う予定になっていましたが、この歌詞がなかなかできなかったため、しばらくはそのままになっていました。
 のちに、地元で中学校の教師をしていた吉川安一が上記の詞をつけたことにより、沖縄はもちろん、全国で歌われるようになりました。ことに昭和40年代の歌声喫茶では、最も人気のあるナンバーの1つでした。
 平成17年(2005)のNHK紅白歌合戦で、長山洋子が歌いました。
 作曲者の普久原恒勇は、昭和7年(1932)、大阪市で生まれました。沖縄音楽に惹かれ、西洋音楽の手法を取り入れて、新しい沖縄サウンドを作り出した人として知られています。
 近年人気が高まっている沖縄サウンドの基礎を築いた人で、沖縄では古賀政男と並び称されています。
 吉川安一は、昭和14年(1939)、沖縄の竹富町鳩間島に生まれ、『芭蕉布』のほか、『ふるさとの雨』『本部町音頭』『ニライの苑』など、沖縄歌謡の傑作を書いています。
 芭蕉布は芭蕉の葉から取り出した繊維を編んだ織物で、麻に似たさっぱりした風合いが特徴です。着物地や帯のほか、座布団、ネクタイ、袋物などに使われます(写真)。その技術は、国の重要無形文化財に指定されています。
 3番の加那志は敬称で、首里天加那志は琉球国王様という意味だそうです。「がなし」の「が」が転訛して「ぢゃなし」と歌うこともあるそうです(谷あんさん、米澤さんからの情報を参考にしました)。
(二木紘三)

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ポピュリズムとは「今さえ良ければ、自分さえ良ければ、それでいいという考え方が主人公になった歴史過程のことである」

2020-05-22 04:31:28 | 言葉

ポピュリズムとは「今さえ良ければ、自分さえ良ければ、それでいいという考え方が主人公になった歴史過程のことである」

 

「サル化する世界」 内田樹著(文藝春秋1500円+税)


 著者は、ポピュリズムとは「今さえ良ければ、自分さえ良ければ、それでいいという考え方が主人公になった歴史過程のことである」と定義します。
 「今さえよければいい」とは「朝三暮四」のサルのこと。未来の自分が抱え込むことになる損失やリスクは「他人ごと」で、「当期利益至上主義者」と酷似する。その意味で「データをごまかしたり、仕様を変えたり、決算を粉飾したり、統計をごまかしたりする人たち」が多数派を占める歴史的趨勢を「サル化」と評します。
 日本社会に広がる「生きづらさ」は、現在社会の仕組みそのものが「生物の進化」に逆行しているからだと指摘します。
 「自分らしさ」など、別に慌てて確定することはない。「みなさんが罠から這い出して、深く呼吸ができて、身動きが自由になったような気がすること、それが一番大切なこと」ではないかと提起します。

 

全國商工新聞 2020/5/18

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札幌国際芸術祭

 札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。 http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf