chuo1976

心のたねを言の葉として

花こぶし老いてはならぬ膝頭        中山皓雪

2020-03-31 05:45:56 | 文学

花こぶし老いてはならぬ膝頭        中山皓雪

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春眠のあぁぽかぽかという副詞 池田澄子

2020-03-30 06:41:39 | 文学

春眠のあぁぽかぽかという副詞                 池田澄子

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「旅に出よう」    高野悦子 (『二十歳の原点』)

2020-03-29 03:55:50 | 文学

「旅に出よう」    高野悦子 (『二十歳の原点』)


 旅に出よう
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草と笛をもち
 旅に出よう
 出発の日は雨がよい
 霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
 萌え出でた若芽がしっかりとぬれながら
 そして富士の山にあるという
 原始林の中にゆこう
 ゆっくりとあせることなく
 大きな杉の古木にきたら
 一層暗いその根本に腰をおろして休もう
 そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
 暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう
 近代社会の臭いのする その煙を
 古木よ おまえは何と感じるか
 原始林の中にあるという湖をさがそう
 そしてその岸辺にたたずんで
 一本の煙草を喫おう
 煙をすべて吐き出して
 ザックのかたわらで静かに休もう
 原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
 湖に小舟をうかべよう
 衣服を脱ぎすて
 すべらかな肌をやみにつつみ
 左手に笛をもって
 湖の水面を暗闇の中に漂いながら
 笛をふこう
 小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
 中天より涼風を肌に流させながら
 静かに眠ろう
 そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

揺れながら大きくなるよしやぼん玉        小寺敬子

2020-03-28 06:07:07 | 文学

揺れながら大きくなるよしやぼん玉        小寺敬子

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一衣帯水

2020-03-27 04:12:53 | 言葉

愛知県豊川市のマスクが不足していることをニュースで知った中国側友好都市の江蘇省無錫市新呉区は至急マスク五万枚を調達し、今日から順次郵送します。

中華人民共和国駐日本国大使館

2020/3/25

 


一衣帯水 両国は極めて近い 
源遠流長 長い歴史がある 
隔海相望 海を挟んで向かい合っている 
桜花満開 桜は満開 
衆志成城 人々の志で城は成る 
戦疫必勝 疫病との戦いに必ず勝つ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アリアドネの糸~正しい道への道しるべ

2020-03-26 06:46:35 | 映画

アリアドネの糸~正しい道への道しるべ
        アリアドネはギリシャ神話の女神。英雄テセウスのミノタウロス退治を助けた。
        壮大な迷宮ラビュリントスに入り、怪物ミノタウロスを退治した英雄テセウスは、アリアドネが渡した糸を使って迷宮を脱出することができた。

 

 

 

「壁の中の沈黙 『アルジェの戦い』について」(『薔薇と無名者』1970年 芳賀書店)

松田政男


 白壁の高層アパートが起伏に富んだ首都近郊の台地にハモニカのように連なれば天下泰平のシンボルとしての私たちの団地群となるけれども、背後にすぐ山岳地帯が迫るアフリカ北部アルジェの町で天まで届くかのような石段の両側に煉瓦造りのアパートがひしめきあってスラムを形成すると、そこは、破壊と叛逆の拠点カスバと呼ばれる。ジロ・ポンテコルボが『ゼロ地帯』以後五年の歳月を費やしてつくった映画『アルジェの戦い』の主人公は、いわばこのカスバの町そのものと言ってよいが、むろん全篇を貫くアリアドネの糸は、さながらカスバの申し子のごとくに登場し、成長し、惨殺され、そして転生する青年革命家アリ・ラ・ポアントの短い生涯である。したがって、製作もまたイタリアとアルジェリアの合作ということになる。

……

 街頭でのデンスケ賭博とフランス人コロンの青年たちとの喧嘩によって何度目かの刑務所行き経験したアリは、そこで、初めて、FLN(民族解放戦線)のメンバーと接触するが、しかし、アリの生涯のなかに最初に介入してきたその革命家は、次の瞬間、ギロチンの一閃によって処刑されてしまうのであって、いわば常に「死」を媒介とせざるをえないところの連帯が以後のアリの運命となることをこの源初の政治体験が暗示しているといえる。数ヵ月後、アリは脱獄し、獄内組織からのレポによって最初の任務――警官殺しを与えられる。これは、実は、アリがスパイであるかどうかを試すテストであるけれども、下層階級出身のひとりの非行青年アリは一挺のピストルを手にすることによって戦士の道を、一歩、踏み出すのであって、ヨリ正確に言うならば、武器を媒介することによってアリは革命組織の一員となるのである。このことは決定的に重要である。エンゲレスのパロディで言うならば、人間から戦闘者への進化するにあたっての武器の役割、が持つ意味を、私たちは徹底的に探らなければならないのだ。
 たとえば、斎藤竜鳳いうところの代々木士官学校へ私が入ったのは一九五〇年十一月、朝鮮戦争開始後半年のことであったが、当時高校二年生であった私に、わが日本の革命組織は一挺のピストルを与えたか? もちろん否。せめて一本の棍棒は? これも否である。私に渡されたのは、おそらくは斎藤竜鳳をはじめとするもろもろの同窓生諸公と同じように、数冊のパンフレット、であった。読むために? 否。売るために、である。来る日も来る日も、私たちは、戸別訪問をやり、平和署名を集め、パンフを売り、ビラを貼った。何処に? のちに五・三〇事件の交番襲撃で有名になった旧中仙道が環状7号線と交差する手前の岩之坂(東京都板橋区)一帯にである。

……

 一九五四年十一月一日に始まるテロルのクロニクルの、まさにドキュメンタルな描写が、アリの回想シーンの前半の圧巻である。ヨーロッパ人街の小綺麗なレストラン。圧政と搾取の上に笑いさんざめくフランス人のコロンたち。中央のテーブルでは幸福そうな一家の食事が続く。無心にアイスクリームをなめる赤ん坊。ベールをはずし、髪を切り、口紅までひいた女戦士がバッグに時限爆弾を忍ばせて入ってくる。隣のフランスの女の子の椅子の下にバッグを押し入れる。赤ん坊のクローズアップ、アイスクリームはまだ残っている。戦士はさりげなく店を離れる。アイスクリームはほとんどもうない。赤ん坊の口許はべとべと。轟音、閃光。全員即死、レストラン崩壊。このテロルには一かけらの感傷もない。その意味で、アルジェリアの戦士たちは、サヴィンコフやカリヤーエフらロシア・テロリストの面々よりも、むしろフランス・プロレタリア―トの父オーギュスト・ブランキとその徒党に似ている。長い抑圧のもとで、本国フランスのプロレタリアートが忘れ去ってしまったブランキズムの精髄が、植民地アルジェリアに不均等によみがえったのである。

……

 「アリ、どうして黙っているのだ。返事をしないのか」とマチュウは問い、壁は無言でその問いをはね返す。壁の中のアリは同志たちに呟く。「あいつらと語るコトバなんか持っていない!」ダイナマイトが仕掛けられ、秒読みが始まり、壁は依然として応答なく、アリは死ぬ。サナダ虫の最後の頭部はつぶされ、カスバの叛徒は以後なりをひそめるにいたる。そして三年後、一九六〇年十二月、カスバの階段は、突如、全民衆の蜂起によってみちあふれる。アルジェリアの独立と自由を叫ぶ大デモンストレーションはヨーロッパ人街にまで流れ出し、暴動は一週間にわたってつづく。それはもはやサナダ虫ではなく、さながら怪獣サナラである。ナレーションは言う。「このデモがなぜ起こったのか誰もわからなかった。アルジェリア臨時政府(革命政権)でさえもわからなかった。」――さらに二年後、一九六二年七月五日、アルジェリアは独立する。(一千万の人口のうち百万人が殺され、その結果、人口分布は三十歳前後が極端に凹んでいると言われる。)『アルジェの戦い』は終わるのだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春がくる少し大きい靴はいて      浮 千草

2020-03-25 06:24:10 | 文学

春がくる少し大きい靴はいて                   浮 千草

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物置の自転車出して北の春          高橋実千代

2020-03-24 06:22:28 | 文学

物置の自転車出して北の春          高橋実千代

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(評・映画)「娘は戦場で生まれた」 砲火の町、作品自体が奇跡

2020-03-23 06:27:29 | 映画

(評・映画)「娘は戦場で生まれた」 砲火の町、作品自体が奇跡
2020/2/28 朝日新聞

 

 すぐに記憶から消え去る映画もあれば、棘(とげ)のように胸に刺さり抜けない映画もある。本作は後者。見る者の心は無傷でいられない。戦火のシリアにとどまり死の恐怖と生の喜びの狭間(はざま)で生きた若き女性監督による5年間の濃密な記録である。
 世界遺産の古都アレッポ。2012年からは独裁政権の攻撃の的となり、廃虚と化した。容赦のない無差別砲撃と空爆。学生で市民ジャーナリストのワアド・アルカティーブは、カメラを手に内戦の真実を市民社会の内側から映す。動乱の渦中でも医師のハムザと出会い結婚、娘サマも誕生した。日常の幸せを諦めないことも彼らの抵抗運動だ。
 原題は「サマのために」。なぜこの地にとどまるのか、決断の理由を不安や迷いも包み隠さず語る。未来の象徴たる娘に捧げたビデオレターでもあるのだ。
 病院には瀕死(ひんし)の人々が担ぎ込まれる。血染めの床。家族の慟哭(どうこく)。世界が目を背ける惨状だ。「町は包囲された。こんなことを世界が許すとは思わなかった」。ワアドの声に絶望が滲(にじ)む。
 だが映画は希望の萌芽(ほうが)も捉える。赤子の微笑、灰色の町を染める夕日、掘り出される花の苗。本作もまた廃虚から芽を出す希望だ。300時間超の動画の断片は一本の作品となり花開く。
 英テレビ局チャンネル4などが製作を担い、社会派ドキュメンタリー作家のエドワード・ワッツが完成に協力。ワアドの並外れた勇気や無事に生還できた幸運など、完成にはいくつもの奇跡が重なったろう。映画の存在そのものが驚きであり、それは祝福に値する。カンヌ映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を筆頭に、世界45以上の賞を獲得した。(林瑞絵・映画ジャーナリスト)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼 松田政男1                関川宗英

2020-03-22 06:54:04 | 映画

「飢えた子供と渇いた私」(『薔薇と無名者』1970年 芳賀書店)

松田政男

 

 飢えた子供の前で文学に何ができるだろう、と言ったサルトルに対して、秋山駿が「その問いは、文学を指差して飢えた子供がするべきなのだ。……飢えた子を材料にしながら、飢えた当の子供よりも深刻な顔をして、人間の正義を問う。それも文学をより深く問うために考える。私はこういう考え方は不愉快だ」(『新潮』六八年四月号)というアンチテーゼを提示したことを、いま、私は想起している。いま、というのはジュゼッペ・スコテ-ゼ監督の『続・鎖の大陸(苦いパン)』という記録映画を見た直後というほどの意味である。おそらく、この映画を見るすべての人びとが発するに違いないサルトル風の深刻な自省を、私は十分に予想することができる。現に、解説のためのパンフレットで、武田泰淳が「最後の場面で飢えて死んでゆく無惨な幼児を見ると、人間とはいったい何であるかとしばし考えこんでしまう」と言い、針生一郎が「地上に二十億の人類が飢え、一時間に四百人の子供が死んでゆくとき、私たちに何が出来るのかを、この映画は痛切に問いかける」と呟き、また俵萌子は「思わず〝文明とは何だろう"と考えずにはいられませんでした」と述懐している。私は秋山駿とともに、「こういう考え方が不愉快だ」と、あて言い切っておこう。
 むろん、わずかな字数で断片的な感想を書き留めたにすぎぬ惹句めいた場当たりの言辞をトッコにとられて議論を進められては、これらの善意のヒューマニストたちはさぞかし迷惑であろう。しかし私は、まさに、その善意であるとかヒューマニズムであるとかをひっかけるために、『続・鎖の大陸』のような商業用フィルムを撮り、大宅壮一によれば「人類の恥部をまっこうからあば」き、岡倉古志郎によれば「単なる見世物的な<残酷映画>ではない……告発状」を提出し、そして、まんまと、見る者の善意やヒューマニズムやらを見事に喚起することに成功したドキュメンタリストを憎悪する。『続・鎖の大陸』は行きつくところまで行きついてしまったイタリア式残酷記録映画が、ついに善意やヒューマニズムを商品化してしまったという意味においてのみ記憶されるべき作品である。
 ……
 私たちの、人間的な、余りにも人間的な眼が「正視にたえない」(俵萌子)と告白するとき、彼ら「政治的動物」の眼が私たちをまさしく「正視」している。彼らの「正視」に、私たちは、果して、耐えうるのだろうか。見られているのは、彼らではなく、私たちなのだ。私もまた、武田泰淳とともに「しばらく食事も手につかないほど」だったことを、また俵萌子のように「吐き気」にしばしば襲われたことを、率直に言おう。しかし、私はただちに、この不快な生理感覚を「人間とはいったい何であるか」とか、「文明とは何だろう」とかいった抽象的普遍的な善意とヒューマニズムの宇宙へと昇天させることを拒否したい。私の吐き気、私のめまいこそが、画面のなかの原住民たちに「正視」されているのである。彼らが私を「直視」するのだ。ここで、私はさらにはっきり言わなければならないが、彼らの視線を一身に浴びた時、私は、なんとも表現しようもない恐怖感がこみあげてくるのを押さえることができなかった。私はファノンによって告発される対象であるところの「植民者」であり、彼らの「政治的動物」に存在として敵対せざるをえない全く異質の世界の人間であるという感慨が、不快感と恐怖感の生理の谷間で、稲妻のように私を訪れたのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌国際芸術祭

 札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。 http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf