名月やマクドナルドのMの上
小沢麻結
岸信介とアメリカ
関川宗英
1926年(大正15年)、商工省の官僚だった岸信介は、アメリカに渡った。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と戦勝国となった日本は、脱亜入欧、帝国主義的な動きが露骨になっていた頃だったが、岸はアメリカの資源の豊かさ、経済力の大きさに圧倒されたという。 (『岸信介』 原彬久)
当時日本の一年間の鉄鋼生産量は100万トンが目標だった。しかしそれは到底達成できないものだった。ところがアメリカは、一ヵ月に500万トンも鉄鋼を生産していた。
「石炭や鉄鉱石その他の資源の産出量を比べるとわかるが、日本がアメリカを目標にして経済政策を考えたって、どだいスケールが違っていた。アメリカの偉大さに圧倒され、一種の反感すらもった」と岸信介は、原彬久のインタビューで答えている。
だから、岸信介にとって、アメリカとの戦争などありえないことだった。原彬久のインタビューで岸信介は次のように述べている。
「(戦争になれば)日本人は追い込まれていって、全面的にアメリカに屈服するか、あるいは日本自体死滅するしかないという気持だった。だから、アメリカと対抗して、アメリカに勝ってアメリカに上陸しようとか、カリフォルニアをどうしようとか、そんなことを考える人は軍人でもいなかった。とにかくアメリカがこっちに出てくるのを抑えておいて、東南アジアにおけるインドネシアの石油を確保し、中国大陸及び東南アジアの資源によって日本の生命をつないでいく、ということだった」
これが30歳くらいだった官僚・岸信介の描いていた、日本の生き延びる道だった。
アメリカ訪問から10年後の1936年、岸は満州にわたる。官僚としてキャリアを積んだ岸を関東軍が評価したためだ。
満州は岸を官僚から政治家へと成長させた。
1941年10月、岸は東条内閣に商工大臣として入閣する。時勢は、アメリカとの一戦がまさに始まろうとする時だった。
そして4年後、岸の言葉の通り、日本はアメリカに全面的に屈服した。
岸信介は、A級戦犯容疑で逮捕され、巣鴨プリズンで2年3か月幽囚生活を送る。1948年東条英機ら7名が東京裁判で死刑判決となったが、岸信介は起訴されなかった。東条らの死刑が執行された次の日、岸信介は釈放される。
岸信介は、巣鴨プリズンで屈辱的な扱いを受けたと語っている。
裸にされての持ち物検査、書籍類や文房具類の使用の制限、書き溜めた日記の類までが没収……、人権蹂躙と暴虐が日常的に行われていた。
岸は、アメリカの民主主義を「仮装の民主主義」と呼び、アメリカにたいして人一倍の敵愾心を抱いていったと原彬久は書いている。
巣鴨プリズンを出てから4年後には、岸信介は自由党から立候補、当選、政界復帰を果たす。そしてさらに4年後、石橋内閣の後を継いで首相となった。
岸信介のやりたかったことは、占領体制の清算、独立の完成だった。首相になった岸は、アメリカに対し、日米対等の安保条約改正を正面から突きつけ、「日米新時代」を訴える。
しかし、岸首相の「日米新時代」は人々に受け入れられたとは言えない。岸が強引に推し進める安保条約改正は、人々に軍事国家回帰の懸念をひき起した。
岸は首相になってすぐ、「現行憲法といえども自衛のために核兵器保有を禁ずるものではない」と述べ、社会党から内閣不信任案の提出を受けている。
岸の政治体質に、戦前の天皇制国家の官僚としての体質を警戒する人は多かった。官僚の岸がその力を認められたのは、「国家統制経済」「産業合理化」を基礎とした政策の推進だった。総力戦が叫ばれる軍事国家の中枢で、岸は国策の立案に携わる革新官僚として強い影響力を持つようになった。強権的な革新官僚の資質は、岸の政治体質そのものに深く染みついていただろう。
また岸は自主外交を唱えるが、それはともすると戦前の日本の武力外交を思わせた。
岸の政治戦略は過激だった。アジアに反共軍事国家をつくり、そのうえでアメリカと対等に、対ソ、対中国に対する力強い外交を貫こうとするものだった。
岸が安保改正論議を進める中、「安保改定阻止国民会議」が生まれた。国会周辺に連日数万人の反対デモを組織できるような動員力を実現する。総評系の組合、全学連などの学生、主婦や商店街の市民など、安保反対闘争は国民的な盛り上がりを見せるようになっていく。
しかし、強力な指導者による「統制と秩序」、独立国家日本の建設という岸の願いは、衰えるどころか増々強くなっていく。
1960年5月20日未明、岸信介は、500人の警官隊を国会に導入して、安保条約改定案を強行採決する。
民主主義は踏みにじられた、と当時の大江健三郎は書いた。
「警官たちは、社会党議員をつまみだしたが、そのとき日本中で数千万の人間が、その議員とともにつまみだされたのであることに気がついていたろうか?」「民主主義の死に立ちあっている」「岸首相はルールを破った」と大江の言葉は続く。
強行採決から安保反対闘争はさらに盛り上がっていく。
5月26日には、全国で200万人以上がデモに参加した。
新安保条約自然成立直前の6月18日には、国会周辺を33万もの人たちが埋めた。
「新聞は国民すべてが反対しているようなことを書くが、野球場は満員じゃないか。反対しているのは共産主義者に煽動されたほんの一部だと思うんだがね」
などと述べた岸の言葉が残されているが、岸の脳裏には、アメリカとの対等な条約によって生まれる、これからの独立国家日本の力強い歩みが聞こえていただろうか。
1960年6月19日、安保条約改正案は自然成立した。
ところが、安保改正から30年後、岸信介内閣はアメリカから資金援助を受けていたことが明らかになる。これは、1994年10月9日付の「ニューヨーク・タイムズ」で暴露された。1958年当時、岸信介の弟・佐藤栄作が、共産主義勢力に対抗するためとして、アメリカに資金援助を申し出た。その内容を記した、1958年7月29日付のダグラス・マッカーサー二世の手紙は、1990年6月段階で機密解除扱いとなっており、工藤美代子の『絢爛たる悪運 岸信介伝』にその内容を確認することができる。
「 親愛なる ジェフ
岸の弟・佐藤栄作(岸政権下の大蔵大臣)が、共産主義と戦うためにアメリカから財政援助を願い出ていることについては、あなたも、ハワード・パーソンズ(引用者注・国務省北東アジア局長)も興味をそそられていることと思います。佐藤の申し出は私たちにとってさほど意外ではありません。彼は昨年にも大略同じような考えを示唆していましたし、最近彼と話した際にもそうした様子を抱いているようだったからです。
同封しましたのは、佐藤とカーペンターとの会話についての覚え書きであり、もちろん極秘に扱われるべきであります。
国務省極東国務次官補
J・グラハム・パーソンズ様
一九五八年七月二十九日
ダグラス・マッカーサー二世 」 (『絢爛たる悪運 岸信介伝』 工藤美代子 p352)
さらに、ダグラス・マッカーサー二世の手紙にある、「佐藤とカーペンターとの覚書」も引用されている。
カーペンター一等書記官自身による公電「覚え書き」からの抜粋
「大蔵大臣で岸首相の弟である佐藤栄作からの申し入れがあったため、私は七月二十五日、氏に会った。佐藤氏は、現在東京で行われているふたつの会議は、岸内閣率いる日本政府及び自民党が直面している問題を象徴しているものだと指摘した。そのふたつの会議とは、ひとつは共産党大会。もうひとつは総評大会である。
佐藤氏は、日本共産党は①日本国内に反米感情を醸成すること、そして、②政府転覆のために革新勢力を糾合、強化するというふたつの目的を持っているのだと語った。
そして、政府はこれら過激派諸勢力との戦いに全力を尽くしてはいるが、十分な資金源を利用できないために限界がある。自民党も可能な限り手を尽くしてはいるが、やはり資金面の限界という点では同様である。
佐藤氏は『ソ連や中国共産党が、日本の共産勢力に対し、かなりの資金援助を行っているのは確実だ』と指摘した。
こうした状況を考慮して、佐藤氏は、共産主義との闘争を続ける日本の保守勢力に対し、米国が資金援助をしてくれないだろうか、と打診してきたのである」
(『絢爛たる悪運 岸信介伝』 工藤美代子 p353)
岸信介は、アメリカから金を貰っていた。そんな裏取引の一方で、アメリカからの独立を叫ぶ。岸の言葉を人びとはどのように受け止めるだろうか。
「仮装の民主主義」と唾棄するアメリカに金を無心しながら、口では勇ましくアメリカからの独立を唱える。それは、欺瞞というものだろう。
安保改定強行採決から60年以上が過ぎた。
2024年の今、日本は、果たして国家として、自立しているといえるだろうか。
日本は唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止に動かない。
アメリカのいいなりになって、古い軍事兵器を買わされている。
沖縄の少女が受けた性暴力事件が数か月後に知らされる。
安倍内閣は安保法制を強行採決したが、台湾有事、あるいは朝鮮有事の時、日本はどのような動きをとるのか。独立した国として動きをとれるのか。
法学者の小林節は、次のように述べている。
「戦後、A級戦犯容疑者として、めでたく東条英機と一緒に巣鴨プリズンに入れられましたが、東条は絞首刑、一方、岸は起訴もされずに出てきた。やがて巡り巡って日本の総理大臣になり、日米安保をつくるわけですが、生きて出てこられた理由は、アメリカのエージェントになったからでしょう。魂を売って、彼は生き延びた。」(『安倍「壊憲」を撃つ』)
岸信介がA級戦犯として捕らえられながら、なぜ釈放となったのか。
岸信介はCIAと深いつながりを持っていたのではないか。
岸信介の黒い噂はこれからも絶えることはないだろう。