やくそくの数だけ落ちる冬の星 塩野谷仁
ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅠ「第三の岸辺」を見る聴く、 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2019/11/27
旅立っていく父、何処に、何故に、分からないまま、連れていってと息子と娘、妻の哀しみ、それでも父は去る、カヌーに乗って岸を去っていく、美しい夕闇の中、これがブラジル、街へ出て行くのでもあり、既に、それは死でもあるのだ、それ以後も父を求めて河に語りかける息子と娘、川岸にはいつも父のために食事を用意する、父との語らいの生活、父が彼らから離れたことはないのだ、成長した息子、娘は幼なじみの彼と恋、青年は結婚もしないが、ある日子牛に目が止まり後を追う、馬にまたがって牛を追う、とある屋敷の中に、其処には家族の団欒が、しかし、彼の目に留まるのは一人の美しい娘ばかり、彼女にだけ光が当たっているのだ、今まで女性になど興味を示さなかったのだが、彼女を連れ戻って結婚、祝いの荷車、行進、喝采、音楽、式、河に語りかける息子、妻を紹介、妹も一緒に暮らす彼を紹介、しかし、妹夫婦は生活のために街に去っていく、父に別れを告げて、いつも見守る母、息子の嫁は身ごもって、出産、河に父に報告、成長の娘をも見せて知らせる、いつも河を見つめている少女、ある日、少女はかえるが来ると、祖母はそんな馬鹿なと、こんな乾いた土地に蛙などと、だが、その直ぐ側に蛙が現れるのだ、祖母の戦き、次にはパスタが食べたいと、するとこんな片田舎にパスタ売りが遣ってくる、祖母は息子を呼ぶ、嫁は病に苦しんで、瀕死、倒れて瀕死の状態、祖母はもしや、孫娘が奇跡を起こせるのではと、少女に祈らせる、いや、呪文とも思える言葉を語らせる、なるがままにと、すると目を覚ます母、生き返ったのだ、奇跡を起こす少女の力、少女は母に重なって抱き寄る、起きあがる母、彼らの幸せな生活が再開する、そんな小屋に、いかがわしい男たちが、一人の男を捕らえたままに現れる、捕縛して、始めは少女を見いだして、でも、少女は直ぐに家の中に、飲み物をと男ら、息子が出向いて、だが、男らは美しい妻を見いだして色目で眺める、嫌らしい目つき、夫が相手するが、キャンプしても良いかと、認める夫、翌朝、飲んだ呉れて寝ている彼らを見て不安の夫、父の為の食事を用意したのだが、不吉、リーダー格の男は可愛い女房にコーヒーの用意をして貰えないかと、うなずきはする夫だが、家族連れだって逃れていくのだ、起き出した男らは父の為の食事を手にして、小屋の中に、誰もいない、もぬけの殻、苛立ちの男、妻のネグリジェに顔を埋めるばかり、街に向かう一家、停留所に待っている妹、遣ってきた家族、久しぶりの再会、家族は町の様子に不安、困惑、立ち並ぶ家々、妹らの家に、夫は仕事に出ているのだと、が、町中にあの男らを見いだす家族、彼等は果たして、岸辺の男たちだろうか、だが、同じ視線、同じ恐怖、不安、追ってきたのか、何処にもこんな不吉な男らはいるのだろうか、恐怖の男らの反復とも、美しい妻を見初める男ら、家の中に、テレビを見てキャンディーのコマーシャル、祖母は欲しいねと、孫の力を信じて語りかける、見事に孫はキャンディを手にする、次々に画面からこぼれ落ちてくるキャンディ、妹の夫は男らに脅されて、美しい娘は一体何者だと、仕方なしに答える夫、家に慌てて戻って息子に語る、そこに銃声が、孫と祖母の見ているテレビなのだが、怯えて頭を抱える息子夫婦と妹夫婦、家の前の中庭では子供達が遊び、それを見ている少女、手にしているキャンディ、欲しがる余所の子、与える少女、次々に並ぶ子供達、今や子供達にキャンディを与える天使様、無くなることがないのだ、この様子に不審の恐怖の男ら、が、少女の怒りの力が、家を一遍に作り替えてしまうのだ、祖母の希望通りに、砂煙を上げて一変させる、集まっていた人々の戦き、恐怖、戦慄、後ずさりするばかり、恐怖の男らまでも、こんな奇跡の少女の前に頼みを持ち込む人々、神様なのだ、テレビ中継までも、これを利用して金儲けに走るならず者達、集まった人々から、金を巻き上げるのだ、妹夫婦も衣装まで作って英雄気取り、彼らの生活も一変、小綺麗に繕って髪を溶かす母、祖母一人が不安顔、押し寄せる人々、気の乗らない少女に押し寄せるならず者、怒りの少女は砂塵を吹き上げて追い立てる、誰もが消えて、泣き叫ぶ祖母、少女は元の椅子に座り込む、祭りが始まる、皆の祝い、だが、こんな最中に少女は倒れて死するのだ、父は監獄に、妻はならず者に抱かれて、怒りの夫は監獄を飛び出して妻の前に、哀しみの夫はギャングに依頼、銃を手にして妻を犯した男の前に、だが、相手もライフルを持って現れる、危機一髪、倒れる相手の男、何故か、そう横からギャングが狙っていたのだ、ジョン・フォードなのだ、こうして敵の男を始末する、その家族の嘆き、葬儀、参列する男、長老らの言葉、和解が訪れたのだろうか、判らない、娘の葬儀、天に舞うピンクの娘の棺、田舎の小屋に戻って、河に父に祈る、戻ってくるときではと、そんな彼の前に小舟が、戻ったのか、近寄る小舟、果たして、怯えて去る主人公、小舟には誰が、父か、また恐怖の男では、あの恐怖の男たちの視線を受け止めたのでは無いか、もはや、男に素直に信じれる河は無い、父は見いだせなくなったのだ、父は何処に消えた、この消えたことに何を見る、単なる病のための死か、ゲリラに加わったか、罪を犯したのか、少女は父の賜では、その奇跡も、妻も、父からの贈り物、河からの、だが、ならば、ならず者もやはり、賜、このずれをどうする、妻は果たして本当に犯されたのか、求めたのではないのか、河から現れた物に何を見るかなのだが、しかし、一度信頼を、信じることを失うと、もはや、何も見いだせない、恐怖と敵愾心ばかり、美しい妻も少女も見いだせない、だが、今、この恐怖を生きるしか、そんな最中に祈りとは、河とは、父とは、それでも、あの去って行く背の中に、中から、失われた岸から、この岸の自覚から、痛い自覚から、そして、全ては、父に去られた少年の見た夢、幻、でも在るのだ、今、目覚めて、始まるしか無い、
王兵は現代の語り部だろうか。「かつて、こんなことがあった…」と語る老人たちの言葉は神話のようだった。
人が死ぬのは午前3時ごろ…、夜の空気と昼の空気が入れ替わるとき…、飢えで骨と皮だけの囚人たちは、辛いとも痛いとも言わずに死んでいく。ゴビ砂漠の再教育収容所、人が死に始めた最初のころは死者のために棺を作ったが、毎日のように死人が出るようになると、5,6人の死者をまとめて荷台に乗せ、荒れ地に捨てに行く…、そんな老人たちの話が延々と続く。
1957年、中国では反右派闘争が起きていた。政権批判の事実はなくても、上司に意見をしたというだけで「右派」のレッテルを張られ、再教育収容所へ送られる。過酷な労働、劣悪な施設、ゴビ砂漠の明水では地下に掘った豪に寝起きしていた。そして、一日小麦250グラムという少ない食料。この再教育収容所から生きて戻り、2005年ごろになってカメラの前で話せる老人たちが、いかに生き延びたかを切々と語る。妻がこっそり持ってきてくれた「麦こがし」のおかげで生き延びることができた…、給仕係になれたおかげで飢えずに済んだ…、1961年1月、人命救済へと突如変わった政府方針のため、「右派」たちは家に帰ることができた。老人の話は、長い人で1時間以上になる。10分程度の短い話の老人もいたが、映画に登場する老人たちは全部で20人になるだろうか。老人たちの話と、人骨の散らばるゴビ砂漠の収容所跡のシーンから8時間超(495分)の映画は作られている。
王兵の2007年の作品『鳳鳴 ― 中国の記憶』(183分)と同じように、話を続ける老人の前で、カメラが動くことはない。話し手の老人が立てば、わずかにアングルが変わったりするが、ワンシーンワンカットの長回しでインタビューは続く。話の切れ目なのか、カットが入ることはあるが、その後のアングルも背景も変わらない。話し手の前を家族が通り過ぎても、カットされることはない。インタビュー中、来客が来たらしく、話し手の老人がカメラから視線をそらし、フレームの外に向かって挨拶を始めたことがあった。が、それでもカメラは回り続けていた。そんなインタビューの連続が『死霊魂』だ。
話し手の語り口は、それぞれ個性的で、引き込まれる。口角泡を飛ばして、息もつかせぬマシンガントークの老人もいれば、蒲団の中でイタチのようなキレイな目を開いて、やっと言葉を紡ぎだしていた老人もいた。
しかし、そんな老人たちの言葉を聞いている(観ている)と、かつて中国で、こんな収容所があったのか、こんな時代があったのかと昔ばなし、おとぎ話を聞いているような気持ちになってくる。
何世代も口伝えされて、今も世界各地に残っている民族の神話。神話には、その民族の何世代もの思いや願いが詰まっているだろう。神話にはその民族の宇宙観や歴史観、何千年もの年月を越えて血の中に受け継がれてきた民族特有の匂いといったものが感じられる。山形国際ドキュメンタリー映画祭のような機会がなければ、8時間もの映画を見ることはできないと思うが、王兵の映画を見ていると他の民族の神話を聞いているような気持ちになる。人が生きているその根っこの部分を触られるような、特別な気持ちだ。
美しいショットはない。BGMもない。話し手と聞き手の切り返しもなければ、表現者の懊悩を窺わせるカメラワークもない。収容所跡のシーン(人骨、荒れ地、強い風の音)には怒りを読み取ることはできるが、王兵の気持ちが露わになることはない。ただ話し手を撮り、それをつないで、辛抱強く映画としてまとめている。
王兵の映画は、現代の歴史の一片を、映像作品という形でまとめたものだ。それは、デジタル時代の今、現代の神話と呼べるものかもしれない。
人、一瓢を遺り、以て操(と)りて飲むことを得たり。
飲み訖(を)はりて木の上に掛くるに、風吹き瀝瀝(れきれき)として聲有り。
由、以て煩はしと爲し、遂に之を去る。
人遺一瓢、得以操飮。飲訖掛於木上、風吹歴々
有声。由以爲煩、遂去之。
(『逸士伝』に曰く、許由 箕山に隱るるに、盃器
なし。手を以て水を捧げて之を飮めり。人 一瓢
を遺るに、得て以て操りて飮む。飲み訖りて、
木上に掛くるに、風吹いて歴々声あり。由以て
煩と為し、遂に之を去る。)
唐土(もろこし)に許由といひける人は、さらに、身にしたがへる貯(たくは)へもなくて、 水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に 懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬(むす)びてぞ水も 飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。
それを見た人が、瓢箪を送った。
ある時、瓢箪を木の枝に懸けていると、風に吹かれて鳴ったので、やかましいと思い捨ててしまい、また、手で水をすくって飲むようになった。なんと、さわやかな心情であろうか。