ただひとり風の音聞く大晦日
渥美 清
「飢えた子供と渇いた私」(『薔薇と無名者』1970年 芳賀書店)
松田政男
飢えた子供の前で文学に何ができるだろう、と言ったサルトルに対して、秋山駿が「その問いは、文学を指差して飢えた子供がするべきなのだ。……飢えた子を材料にしながら、飢えた当の子供よりも深刻な顔をして、人間の正義を問う。それも文学をより深く問うために考える。私はこういう考え方は不愉快だ」(『新潮』六八年四月号)というアンチテーゼを提示したことを、いま、私は想起している。いま、というのはジュゼッペ・スコテ-ゼ監督の『続・鎖の大陸(苦いパン)』という記録映画を見た直後というほどの意味である。おそらく、この映画を見るすべての人びとが発するに違いないサルトル風の深刻な自省を、私は十分に予想することができる。現に、解説のためのパンフレットで、武田泰淳が「最後の場面で飢えて死んでゆく無惨な幼児を見ると、人間とはいったい何であるかとしばし考えこんでしまう」と言い、針生一郎が「地上に二十億の人類が飢え、一時間に四百人の子供が死んでゆくとき、私たちに何が出来るのかを、この映画は痛切に問いかける」と呟き、また俵萌子は「思わず〝文明とは何だろう"と考えずにはいられませんでした」と述懐している。私は秋山駿とともに、「こういう考え方が不愉快だ」と、あて言い切っておこう。
むろん、わずかな字数で断片的な感想を書き留めたにすぎぬ惹句めいた場当たりの言辞をトッコにとられて議論を進められては、これらの善意のヒューマニストたちはさぞかし迷惑であろう。しかし私は、まさに、その善意であるとかヒューマニズムであるとかをひっかけるために、『続・鎖の大陸』のような商業用フィルムを撮り、大宅壮一によれば「人類の恥部をまっこうからあば」き、岡倉古志郎によれば「単なる見世物的な<残酷映画>ではない……告発状」を提出し、そして、まんまと、見る者の善意やヒューマニズムやらを見事に喚起することに成功したドキュメンタリストを憎悪する。『続・鎖の大陸』は行きつくところまで行きついてしまったイタリア式残酷記録映画が、ついに善意やヒューマニズムを商品化してしまったという意味においてのみ記憶されるべき作品である。
……
私たちの、人間的な、余りにも人間的な眼が「正視にたえない」(俵萌子)と告白するとき、彼ら「政治的動物」の眼が私たちをまさしく「正視」している。彼らの「正視」に、私たちは、果して、耐えうるのだろうか。見られているのは、彼らではなく、私たちなのだ。私もまた、武田泰淳とともに「しばらく食事も手につかないほど」だったことを、また俵萌子のように「吐き気」にしばしば襲われたことを、率直に言おう。しかし、私はただちに、この不快な生理感覚を「人間とはいったい何であるか」とか、「文明とは何だろう」とかいった抽象的普遍的な善意とヒューマニズムの宇宙へと昇天させることを拒否したい。私の吐き気、私のめまいこそが、画面のなかの原住民たちに「正視」されているのである。彼らが私を「直視」するのだ。ここで、私はさらにはっきり言わなければならないが、彼らの視線を一身に浴びた時、私は、なんとも表現しようもない恐怖感がこみあげてくるのを押さえることができなかった。私はファノンによって告発される対象であるところの「植民者」であり、彼らの「政治的動物」に存在として敵対せざるをえない全く異質の世界の人間であるという感慨が、不快感と恐怖感の生理の谷間で、稲妻のように私を訪れたのである。
新自由主義と連合赤軍 関川宗英
「自由と平等を求めてよりよい社会をつくろうとすること 『実録・連合赤軍』をめぐって」3
1972年の「山岳ベース事件」では、12人の若者が殺された。
「あさま山荘事件」では、警察官など3人の命が連合赤軍の銃弾により奪われた。
その後、全共闘のうねりは、内ゲバや爆弾闘争の果て、衰退していった。
犯罪白書によれば、2000年までに内ゲバによる死者は97名となっている。
そんな闘争が支持されるはずがない。
映画『実録・連合赤軍』は、連合赤軍の悲惨な末路を描いたものだが、2020年の今、この映画を観ると、つくづく希望のない作品だと思わされるばかりだ。
『実録・連合赤軍』の映画レビューには、次のようなネガティブな批判が多く見受けられる。
●一致団結し革命を行う為の自己批判、総括という名の集団リンチ、目的から逸れ始める過剰に麻痺した集団心理の恐怖、密室、狭い世界の中での無意味な価値観、イジメの意識もなく、無意識に人を殺す責任感の成れの果て。
●革命に散って逝った同志ではなく、自らの自業自得とは言い難い、イジメにあって死んでしまった同志達、イジメを止める勇気がなかった革命家達。
●「本当の勇気」っていう言葉が出るけれど、その後の行動をみると、その言葉すら、観念化していて、頭で考えているだけなのね、とがっかりする。
●今の言葉でいうと「意識高い系」で実態は空っぽ。インスタ映えに酔っているのと同じ。
● 世間では認められないけれど、世間を騒がせるような・他の人がためらうような大きなことをやって自分の存在を認めさせようと意気がってつるむ…昔の暴走族の発想にしか見えない。
世界の明暗は自分が握っている?…中二病の発想?けれど、彼らは現実的な方法をとれない。
(「映画.com」 映画レビュー https://eiga.com/movie/53445/)
1970年当時の新左翼の運動は、社会との連携を欠いたものになっていた。彼らは「革命」を掲げるが、暴力を容認、その行使を前面に出していた。それは、一般の市民にとっては理解できないことであり、学生たちは孤立した。全共闘のうねりは、欧米と違って、社会や文化の変革につながらなかった。
そんな歴史の事実を前に、連合赤軍の仲間たちの執拗な暴力を延々と見せられれば、嫌悪感が先に立つ感想が増えるのは当然だろう。
しかし、理想を掲げ、「闘争」に入っていった若者たちのその思いは真剣だったはずだ。
『実録・連合赤軍』は、当時の若者たちの末路、暴力の虚しさを丁寧に描いているが、人間は描けていない。
「闘争」に突き進んでいった若者の、その事実の重さが伝わってこない映画だと思う。
1960年、安保闘争の敗北、樺美智子死亡。
1965年、ベトナム戦争、アメリカ軍による北爆開始。
1967年、10・8羽田闘争、山崎博昭死亡。
1969年、国際反戦デー闘争、佐藤首相訪米阻止闘争
1960年代、学生運動が拡大した背景には、世界の青年、学生たちの運動の高まりがある。
中国の文化大革命の若者のスローガンである「造反有理」、ソ連型社会主義に反発して市民が起ち上がった旧チェコスロヴァキアの「プラハの春」、そして世界各地で起きたスチューデント・パワーと呼ばれる大規模な学生運動。
中でも、パリの「五月革命」は、ベトナム反戦デモに関するソルボンヌ大学の管理強化に抗議する同大学の学内集会に端を発して、カルチェ・ラタンでは市街戦となった。賃下げなどに反対する労働組合も加わり、運動はフランス全土に拡大、最終的には政府に「参加の社会」実現を公約させ、強大だったド・ゴール政権を倒したのだった。
また、ドイツでは学生を中心とする反戦運動が盛り上がり、保守中道政権からリベラルな中道左派政権への交替のきっかけをつくった。
アメリカでは、学生運動の枠を超えて、ベトナム反戦運動、黒人の公民権運動、女性解放運動が連動して、リベラルな文化の基盤が拡大した。
世界の若者たちのパワー、革命的な政治運動のうねりは、日本の若者たちも刺激したはずだ。
1968年、新宿駅では、ベトナム戦争で使われる米軍の航空機用ジェット燃料を積んだタンク車が衝突事故を起こした。1969年の国際反戦デー、新宿騒乱事件は、新宿駅を市街戦化することで、“米タン”の走行を阻止しようとするものだった。
一方、当時の新宿は若者たちの溜まり場になっていた。
西口地下広場では毎日のように反戦フォーク集会が開かれ、週末になると学生や若いサラリーマンで溢れかえっていた。
そんな新宿を舞台とする“市街戦”に、『ゆきゆきて、神軍』などのドキュメンタリー映画監督の原一男も胸を高鳴らせたという。
「あの日は世田谷区・梅ヶ丘の自宅アパートにいましたが、新宿のデモの様子をニュースで見て、居ても立ってもいられなくなった。すぐに小田急線に飛び乗って、新宿駅に着いたのが午後6時頃。電車を降りると警官隊が待ち構えていて、武器を持っていないか鞄の中身をチェックされました」
「西口のロータリーに出ると、もはや完全な無秩序状態。機動隊に追われる学生の集団に巻き込まれて、私も歌舞伎町方面に逃げる羽目になった。しょんべん横丁の脇を駆け抜けた時には、誰かが山手線の高架橋から飛び降りたのが見えました。地上から7、8メートルの高さはあるので、とても無事では済まなかったはずです」
(「目撃者が語る「新宿騒乱」 暴徒2万人超え、743人がお縄に」 週刊新潮 2015年8月25日号別冊)
1970年当時、多くの若者が、この原一男のように、時代のうねりを感じていたのだろう。
そして、それぞれの若者たちの胸には、ベトナム戦争、70年安保、あるいは世界革命など、大きな歴史の変革の只中にいるという思いがあっただろう。
連合赤軍の5人が、あさま山荘で籠城を続ける最中の2月21日、アメリカ合衆国ニクソン大統領が中国を電撃訪問する。山荘内のテレビでこのニュースを見た若者たちは衝撃を受ける。
あさま山荘事件の犯人の一人、加藤倫教は、この時のことを次のように語っている。
私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。
ーーここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。
そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。
(加藤倫教『連合赤軍 少年A』2003年)
『実録・連合赤軍』では、ナンバースリーのリーダー格だった坂口弘(井浦新)が人質の女性に、「我々は共産主義者です。……戦争や不平等をなくす革命のために闘っているんです」と語るシーンがあるが、この言葉は、引用した加藤倫教の言葉につながっている。
多くの若者たちが新しい歴史を願い、時代や社会と真正面から向き合った。
そんな1970年当時の政治の季節、連合赤軍という新左翼が一つ生まれた。
金を持っていた赤軍派と、銃を持っていた革命左派・京浜安保共闘が合流したものだった。連合赤軍の結成は、1971年7月のことだ。
その後、連合赤軍は、12人の仲間を殺害。
そして、1972年2月19日、あさま山荘事件を引き起こすことになる。
人を殺したことを正当化するつもりはない。
しかし、闘争に突き進んでいった若者たちが願ったことは、今も変わっていないのではないだろうか。
「新型コロナウイルスの影響で貧富の差が広がる中、富裕層によるダイヤモンドの指輪や金のネックレスといった高級宝飾品の購入が増えている」というニュース。これは、CNNが2020/10/20に伝えたものだ。
2020/12/15には、大阪のマンションで、餓死と見られる母親と娘が、死後数ヵ月の状態で発見されたという。
1%の富裕層が、99%の人から富を吸い上げている。
この現実は変えていかなければならない。
1970年当時の若者たちの「闘争」も、そんな願いから始まったはずだ。
新自由主義的なパワーが席巻する今、歴史としっかり向き合う知性、新しい地平へと導く言葉が求められている。
袴田事件 再審認めない決定取り消す 高裁に差し戻し 最高裁
2020年12月23日 21時01分 NHK
昭和41年に静岡県で一家4人が殺害されたいわゆる「袴田事件」で死刑が確定した袴田巌さんについて、最高裁判所は、再審・裁判のやり直しを認めなかった東京高等裁判所の決定を取り消し、高裁で再び審理するよう命じる決定をしました。
袴田巌さん(84)は、昭和41年に今の静岡市清水区でみそ製造会社の役員の一家4人が殺害された事件で、死刑が確定しましたが、無実を訴えて再審を申し立てています。
平成26年に静岡地方裁判所が、事件の1年余り後に会社のみそのタンクから見つかった犯人のものとされる衣類の血痕のDNA型が袴田さんのものとは一致しなかったという鑑定結果などをもとに再審を認める決定をした一方、おととし、東京高等裁判所は「DNA鑑定の信用性は乏しい」として再審を認めず、弁護団が特別抗告していました。
最高裁判所第3小法廷の林道晴裁判長は、衣類の血痕のDNA鑑定について「衣類は40年以上、多くの人に触れられる機会があり、血液のDNAが残っていたとしても極めて微量で、性質が変化したり、劣化したりしている可能性が高い。鑑定には非常に困難な状況で証拠価値があるとはいえない」として、弁護側の主張を退けました。
一方で、衣類に付いた血痕の色の変化について「1年余りみそに漬け込まれた血痕に赤みが残る可能性があるのか、化学反応の影響に関する専門的な知見に基づいて審理が尽くされていない」として、23日までに再審を認めなかった東京高裁の決定を取り消し、高裁で再び審理するよう命じる決定をしました。
一方、決定では、5人の裁判官が、3対2で意見が分かれています。
2人の裁判官は反対意見の中で、DNA鑑定などを新証拠と認め、血痕が袴田さんのものではないという重大な疑いが生じているとして、再審を認めるべきだとしています。
再審を求める特別抗告で裁判官の意見が割れるのは異例です。
袴田さんは、静岡地裁で再審が認められた際に釈放されていて、今回の決定後も釈放された状態が続きます。