私は小さい頃から、「世界の謎と不思議」が大好きで、そういった本を夢中になって読んでいました。今となっては解明された事柄もたくさんありますが、その中に「イ-スター島の謎の巨大な石の像」があって、どうやって大きな石を切り出して建てたんだろうとか、誰も読むことのできなくなった言葉(と言われている)「ロンゴロンゴ」など、遠い南の国の神秘的な謎は、しっかりと脳内に焼きついてしまいました(苦笑)
それが、後に思わぬ身近な土地と深いかかわりがあると知って、とても驚いたのと同時に、大津波で苦しむのは、国も人もまったく関係の無く同じで、遠い海を隔てていても、お互いに助け合える気持ちがあるのは、なんて嬉しい事なんだろうと、ずっと思っていました。
それが震災による津波で、モアイ像が流されてしまったと知った時は、本当に悲しかったです。守り神様までも流されてしまったんだとガッカリしていたんですが(かろうじて頭部だけはみつかって、今は志津川高校に置かれています)チリから新しい、しかもイースター島の石で造られたモアイ像が贈られたんです!
★「YOMIURI ONLINE/ 南三陸復興のシンボル到着…チリが寄贈」
( http://www.yomiuri.co.jp/feature/eq2011/information/20130517-OYT8T00638.htm?from=popin )より引用
復興と友好のシンボルにと、モアイ像で知られるイースター島のある南米チリから宮城県南三陸町にモアイ像が贈られ、16日に町内の仮設商店街に設置された。
同島の彫刻家が作ったモアイ像は高さ約3メートル、重さ2トン。クレーン車でつり上げられ、あらかじめ用意した台座に載せられた。町によると、同島の石を使ったモアイ像が島外に出るのは初めてという。
町とチリは、1960年のチリ地震津波で共に被災したことから交流が始まった。91年には、モアイ像の複製が町沿岸部の松原公園に設置されたが、東日本大震災の津波で流失した。
・「YOMIURI ONLINE / 津波の怖さ モアイが伝えて」
( http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/miyagi/news/20130516-OYT8T01576.htm )より引用
「チリも南三陸も大きな津波を経験した被災地。モアイが津波の怖さを後世に伝え続けるきっかけになってほしい」。南三陸町の仮設商店街に、南米チリ領イースター島から運ばれたモアイ像が設置された16日、台座を手がけた奈良県の石工(いしく)・左野勝司さん(70)は、復興と友好のシンボルの役割を担うモアイ像に、自らの思いを託した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↑の記事に登場する左野さんは、以前、イースター島で倒れていたモアイ像を元通りに建てるという企画に携わっていた方なんですね。その当時の事や、新しいモアイ像が簡単には贈られるものではなかった様子などが、特設HPにまとめられていました。
★「日本経済新聞 / 想いよ届け、はるかな国へ モアイプロジェクト」
( http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/ac0b/139205/haruka/index.html )より引用
>「EPISODE Ⅰ チリの人々の友愛」
町民や志津川高校の生徒たちがモアイ像を大切にしていたことを知っていたチリ側は、南三陸町に新しいモアイ像の寄贈を申し出た。というのも、チリでは震災後に民間企業が義援金を募り、政府とともに追悼式典を行うなど、被災地と日本への想いを強くしていたからだ。チリ国民の想いを形にしたいと考え、モアイ像が選ばれたのである。南三陸町は申し出を受け、ここに、イースター島で造られたモアイ像を日本とチリの友好と震災復興のシンボルとして南三陸町に寄贈する「モアイプロジェクト」が日本のチリ関係者も参画しスタートした。
しかし、寄贈は簡単なことではなかった。モアイ像はイースター島の石を用い、島の人々の手によって造られ、瞳がはめ込まれてこそ、マナを有する本物となり得る。ところが今や、イースター島は世界遺産に登録されており、モアイ像を安易に制作したり寄贈したりすることはできない。
さらに、島の石で造ったモアイ像を遠い外国に持ち出すことに対しても、島内で反対の声が上がった。
「ならば」と手を挙げたのが、島の重鎮でありラパヌイの彫刻家一家の長老、92歳のマヌエル・トゥキ氏だった。
「モアイの魂の力で、破壊された町を再建しようという日本人を、なぜ我々は助けてあげられないのか? 日本人はこれまで我々を援助してくれたではないか。石の供出が困難なら、自分の土地から岩を切り出して、息子に彫らせる」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今月の25日に、南三陸で記念式典が行われるそうです。どうぞ、新しいモアイ像が津波からみなを守って下さいますように。
それが、後に思わぬ身近な土地と深いかかわりがあると知って、とても驚いたのと同時に、大津波で苦しむのは、国も人もまったく関係の無く同じで、遠い海を隔てていても、お互いに助け合える気持ちがあるのは、なんて嬉しい事なんだろうと、ずっと思っていました。
それが震災による津波で、モアイ像が流されてしまったと知った時は、本当に悲しかったです。守り神様までも流されてしまったんだとガッカリしていたんですが(かろうじて頭部だけはみつかって、今は志津川高校に置かれています)チリから新しい、しかもイースター島の石で造られたモアイ像が贈られたんです!
★「YOMIURI ONLINE/ 南三陸復興のシンボル到着…チリが寄贈」
( http://www.yomiuri.co.jp/feature/eq2011/information/20130517-OYT8T00638.htm?from=popin )より引用
復興と友好のシンボルにと、モアイ像で知られるイースター島のある南米チリから宮城県南三陸町にモアイ像が贈られ、16日に町内の仮設商店街に設置された。
同島の彫刻家が作ったモアイ像は高さ約3メートル、重さ2トン。クレーン車でつり上げられ、あらかじめ用意した台座に載せられた。町によると、同島の石を使ったモアイ像が島外に出るのは初めてという。
町とチリは、1960年のチリ地震津波で共に被災したことから交流が始まった。91年には、モアイ像の複製が町沿岸部の松原公園に設置されたが、東日本大震災の津波で流失した。
・「YOMIURI ONLINE / 津波の怖さ モアイが伝えて」
( http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/miyagi/news/20130516-OYT8T01576.htm )より引用
「チリも南三陸も大きな津波を経験した被災地。モアイが津波の怖さを後世に伝え続けるきっかけになってほしい」。南三陸町の仮設商店街に、南米チリ領イースター島から運ばれたモアイ像が設置された16日、台座を手がけた奈良県の石工(いしく)・左野勝司さん(70)は、復興と友好のシンボルの役割を担うモアイ像に、自らの思いを託した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↑の記事に登場する左野さんは、以前、イースター島で倒れていたモアイ像を元通りに建てるという企画に携わっていた方なんですね。その当時の事や、新しいモアイ像が簡単には贈られるものではなかった様子などが、特設HPにまとめられていました。
★「日本経済新聞 / 想いよ届け、はるかな国へ モアイプロジェクト」
( http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/ac0b/139205/haruka/index.html )より引用
>「EPISODE Ⅰ チリの人々の友愛」
町民や志津川高校の生徒たちがモアイ像を大切にしていたことを知っていたチリ側は、南三陸町に新しいモアイ像の寄贈を申し出た。というのも、チリでは震災後に民間企業が義援金を募り、政府とともに追悼式典を行うなど、被災地と日本への想いを強くしていたからだ。チリ国民の想いを形にしたいと考え、モアイ像が選ばれたのである。南三陸町は申し出を受け、ここに、イースター島で造られたモアイ像を日本とチリの友好と震災復興のシンボルとして南三陸町に寄贈する「モアイプロジェクト」が日本のチリ関係者も参画しスタートした。
しかし、寄贈は簡単なことではなかった。モアイ像はイースター島の石を用い、島の人々の手によって造られ、瞳がはめ込まれてこそ、マナを有する本物となり得る。ところが今や、イースター島は世界遺産に登録されており、モアイ像を安易に制作したり寄贈したりすることはできない。
さらに、島の石で造ったモアイ像を遠い外国に持ち出すことに対しても、島内で反対の声が上がった。
「ならば」と手を挙げたのが、島の重鎮でありラパヌイの彫刻家一家の長老、92歳のマヌエル・トゥキ氏だった。
「モアイの魂の力で、破壊された町を再建しようという日本人を、なぜ我々は助けてあげられないのか? 日本人はこれまで我々を援助してくれたではないか。石の供出が困難なら、自分の土地から岩を切り出して、息子に彫らせる」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今月の25日に、南三陸で記念式典が行われるそうです。どうぞ、新しいモアイ像が津波からみなを守って下さいますように。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます