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「経験生かし切れなかった」二度目の大震災 仙台市出身の東海大生が反省語る

2016年04月22日 19時41分40秒 | 日常
  東日本大震災が起きてから二か月くらいして、長男が岩手の大学に通うために引っ越した時、あぁ、これで少なくとも長男は生き延びると、本気で思ったものでした。(そこは地震はおきても津波は来ない、内陸なのです)今は、次男が同じ岩手の大学に通い、長男は違う土地で就職し、独りで暮らしていますが、やはり、ここよりは生き延びる可能性は高いだろうと思っています。

息子たちの引っ越しの用意を手伝う時に、懐中電灯と乾電池とロウソクにマッチは、ひとまとめにして100均のクリアボックスに入れて持たせました。その後、それぞれ、予備のメガネや風邪薬やばんそうこうなど、足している様子です。

地震と津波で、家も街もドロに沈み、ライフラインが全滅した体験は、骨身に染みているとは思っていますが、若い十代の頃に体験した辛い出来事を、どうか生涯忘れないで、「まさかの時」に備えていて欲しいと願っています。



 この記事の加藤木君のご家族も、よもや熊本で大地震に遭うとは、想像もされなかったと思います。きっと地震に限っては、仙台よりは安全だろうと、送り出されていたのではないでしょうか。ほんと「まさか」って考えが、思考停止させてしまうんですよね。自分の住んでいる場所がどんなところなのか(海からどれだけ離れているとか土地が低いとか)一番近い指定された避難場所はどこにあるのかとか、後になって、何も知ろうとしていなかった、自分のアホさ加減が招いた不幸の分もずいぶんあるなと、何度も思い返しています。

どうぞこれ以上、加藤木君が辛い目に遭わずに済むよう、こころから願っています。

★「西日本新聞 / 「経験生かし切れなかった」二度目の大震災 仙台市出身の東海大生が反省語る」
( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160422-00010008-nishinp-soci )より引用

 熊本地震で被災した東海大農学部(同県南阿蘇村)1年の加藤木高広さん(19)は、5年前に仙台市で東日本大震災も経験した。2度も震災に襲われるまさかの事態。教訓を学んでいたつもりだったが、十分な対応ができず、「備え」の大事さを痛感した。


 16日午前1時25分、南阿蘇村の学生アパート2階の自室で本を読んでいると、激震に見舞われた。体が揺さぶられ、必死に布団をつかんだ。冷蔵庫が部屋の真ん中にまで動いた。「東日本大震災と同規模だ」。冷静に対応しようと、しばらく動かずにいた。

数分後、ガスの臭いがしたため外に逃げようとしたが、こたつの机の上に置いていたはずの眼鏡が見つからない。停電し、室内は真っ暗。携帯電話のライトをつけてみたが、薄暗く、眼鏡は見つからない。

手探りで家財をかき分け、外に出た。近くの避難所までの道路も亀裂が走り、学生たちはみな、携帯電話の小さな光を頼りに歩いていた。「垂れ下がった電線に接触し、怖かった」と加藤木さん。一帯の学生アパートでは犠牲者が出た。


 2011年3月11日の東日本大震災の発生時、中学2年生で、仙台市に住んでいた。授業中に強い揺れが襲い、机の下に潜り込んだ。自宅は家財が倒れ、足の踏み場もない。水も電気もなかった。震災後、飲料水の保管や災害時に必要な懐中電灯、保存食など防災用品をまとめたかばんを準備しておくことも、学校で教わった。

ただ、南阿蘇村のアパートに防災用品はそろえていなかった。懐中電灯も、メガネの場所も。「東日本大震災の経験を生かし切れなかった」と悔やむ。九州は水害のイメージが強く、「地震はないだろうという思い込み」。加藤木さんはいま、この教訓を胸に刻む。

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