「…私は死ぬ前にたった一人で好いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは、腹の底から真面目ですか」
(夏目漱石 『こころ』)
漱石が時々書く、この畳みかけるみたいな文章が大好きなのです。
人間くさいというか、真面目で冷静な漱石が書いているだけにえろいというか。
“先生”が“私”へ宛てた遺書の文章がまたすごい。
私は何千万といる日本人のうちで、ただ貴方だけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと言ったから。……私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新らしい命が宿ることが出来るなら満足です。
奥さんはその「たった一人」にはどうしてもなり得ないのでしょうか、先生…。
ダメなんでしょうねぇ。
先生が奥さんに全部話せるようなら、初めからこの物語はないですしね…。
男同士の関係としては、現代の私達からみると少々戸惑いますが、そして三浦しをんさんなどは「これは同性愛を描いた小説である」と言い切っちゃっていますが。
かくいう私も、“私→先生”への感情はそれに近い気はします。
でも当時は結構ありますよね、こういう関係。漱石門下→漱石などにもそういう感じありますし。
一方逆やKはない――、と昔は思っていたのだけれど、最近は“先生→K”ってかなりそれに近い感情じゃない…?と強く思う。
そう思えば先生がとった行動が全てすっきりと納得できてしまうのですが、いかがなものでしょう?
そしてこんな手紙をもらってしまった“私”は、危篤の父親を置いて東京行きの汽車に飛び乗り、そのままこの物語は終わっています。
村上春樹は『海辺のカフカ』の中でこの小説を「完成された作品」と言って不完全な『坑夫』と比べているけれど、あり得ないほどの長さの先生の遺書といい、その構成といい、『こころ』も完全というのとは少し違うと思うのだけどな、私は。
春樹が『坑夫』に対して述べている「不完全であるが故に人の心を強く引きつける」というのは、『こころ』にも当てはまる気がするのです。
※2019.8.30追記:
先生の遺書があり得ない長さになった理由は、漱石の次に連載予定だった志賀直哉がまだ書けていなくて、朝日新聞から「話を引き延ばしてほしい」とお願いされたためなんですって…!(『腰ぬけ愛国談義』より)