昨夜年末のご挨拶をしたばかりですが、彌十郎さんのこんなインタビューを見かけたので。
ちょうど来年で50年役者をやってきたことになるんですけれども、何やってきたんだって、上にいる親父や兄貴やおじさんたちに心配されてるんでしょうけれども、何とかつなぎましたって言えるようになりたいですね。それが歌舞伎なんだと思います。
(spice)
地元が舞台なのに『鎌倉殿の13人』は観ておりませんが、彌十郎さんの時政パパ、評判よかったですよね。
「何とかつなぎましたって言えるようになりたいですね。それが歌舞伎なんだと思います。」。
歌舞伎役者さん達が常々仰るこういう表現が、とても好きです。
新しいものを生み出すことだけが芸術ではないと思う。それはそれでもちろん必要だけれど、過去から未来へ”つないで”いくものも、大事な芸術の要素だと思っています。歌舞伎は芸術というより芸能だけども。「歌舞伎は本当に間口が広いですし、重たい演目のおもしろさもいつかはわかってほしいという気持ちもある。それはいつも考えていることですね。」とも。うんうん
András Schiff - Sonata No.32 in C minor, Op.111 - Beethoven Lecture-Recitals
先日クラシック音楽ファンの方と、「無人島に一曲だけ持っていくなら?」という例え話について話していたのですが。
その方はブルックナーをあげ、私はベートーヴェンのピアノソナタ32番をあげました。
その方は「そんな曲を持っていったら、もう死んじゃってもいいやという気持ちになってしまわないか?」と。
実はわたし、この例え話って、無人島に行って、いずれそのままそこで最期を迎える(戻れる可能性は99%ない)ことが前提の話なのかと思っていたのです。
でも普通の人は、無人島での孤独をなんとか耐え抜いて、いつか皆のいる場所に生きて戻ることを目的としているのだろうか。
おそらくそれが普通の感覚なのだろうな、私の感覚は普通ではないのだろうな、と気づきました。そうかあ。そうだよなあ。
とはいえ私も現実に本当に無人島に行かねばならなくなったら、人の声が入った歌を持っていくような気もしますが(やっぱりみゆきさんかなあ)。
そんなわけで、ベートーヴェンのピアノソナタ32番。
冒頭に載せた動画はシフによる同曲のレクチャーですが、33:30あたりの高音トリルからふっと緊張が解けて此岸に戻る流れが、私がこの曲の中で最も好きな部分です。シフが"the grounds and the heavens(地上と天上)"と言っているまさにそのとおりの感覚を、私もそこに感じます。
シフはこの最も遠く離れた2つの世界について「this is I think the Beethoven's question where is our place as human beings between those two levels.(ベートーヴェンはここで、我々人間の居場所はこの2つの世界のどちらなのか?と問いかけているのだと思う)」と。続いて、「how does he come back from that faraway land to home.(どのように彼はそんな遥か遠くの場所からhomeに戻ってくるのか)」と。
シフはこの曲を聴く度に、弾く度に、gratitude(感謝)とforgiving(許し)の感覚を覚える、と言っています。そしてそれは、他の誰よりも苦難の人生を歩んだベートーヴェンの「いま生きて、このような音楽を書けることへの深い、聖なる宗教的なまでの神への感謝」であると。
32番は「此岸と彼岸」に喩えられることが多い曲だけれど、シフの解釈では、最後に”彼”は此岸のhomeに戻ってきているのですよね。また、シフもそういう演奏をしている。私はシフのこの前向きな演奏がとてもとても好きなのです。
一方でまた、私がこの32番という曲から感じるのは、一度彼岸から此岸に戻り、自分の人生の全てをgratitude(感謝)とforgiving(許し)の中で肯定し、最後にはより遠い本当の彼岸へ旅立っている、そういう感覚です。つまりこの曲のラストのhomeは、此岸だけでなく彼岸のその場所も意味しているように感じられるのです。個人的に、バレンボイムやポリーニの演奏では彼岸を感じます。
これはゴルトベルク変奏曲から受ける感覚と同じで、あの曲も最後に始まりの場所に戻って、静かに円環が閉じられますよね。あの最後のアリアは、私にとっては此岸のhomeよりもむしろ彼岸のhomeという感覚の方が強いのです。誰もが最後は還るべき場所に還れる安心感のようなものを、ゴルトベルクも、この32番も、感じさせてくれます。
トーマス・マンは小説『ファウストゥス博士』の中で、32番の第二楽章を「戻ることのない終わり」と表現しているそうです。
トーマス・マン、、、。
グールドが漱石の『草枕』と並んで愛読書としていたのが、マンの『魔の山』。
漱石とグールドについてこのブログに書いたのは、2018年の年末のご挨拶のときでした。あれから4年。何かというと私の前に現れるトーマス・マン、、、。
いい加減に腹を括ってこの年末年始に読んでみよう、と図書館で借りてきました。『魔の山』と『ファウストゥス博士』。
が、いきなり長編はハードルが高すぎる…と感じ、まずは中編『ヴェニスに死す』を読み始めてみたところ、翻訳の日本語がとんでもなく読みにくい(新潮文庫版)。最初から挫折しそうになったけど、ようやくストーリーが進んで面白くなってきたので(主人公がヴェニスで美少年と出会ったところ)、読み続けられそうです。なお有名なヴィスコンティの映画は未見です。
以前もご紹介しましたが、グールドによる『草枕』のラジオ朗読はもっっっのすごくいいので、ご興味のある方は聴いてみてね。youtubeで聴けます。朗読に先立って、グールドはこんな風に解説しています。
「『草枕』が書かれたのは日露戦争のころですが、そのことは最後の場面で少し出てくるだけです。むしろ、戦争否定の気分が第一次大戦をモチーフとしたトーマス・マンの『魔の山』を思い出させ、両者は相通じるものがあります。『草枕』は様々な要素を含んでいますが、とくに思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観の対立、モダニズムのはらむ危険を扱っています。これは20世紀の小説の最高傑作のひとつだと、私は思います」
軽く年末のご挨拶を、と思っていたのに、結局いつものように長くなってしまった
皆さま、本年も当ブログにお越しくださり、本当にありがとうございました。
どうぞよいお年をお迎えください
※追記
「ベルリン発 〓 バレンボイムが一時的に現場復帰」(月刊音楽祭)
バレンさん、神経系の重い病気だともうピアノを弾くことは難しいのだろうか…。昨年、あんなに素晴らしい32番を弾いてくださったばかりなのに…。
今年の大晦日と元旦の2日間だけ指揮台に復帰し、シュターツカペレベルリンの第九を指揮されるそうです。
どうかバレンさんの病気が快癒しますように。
以下は、昨年の来日前のインタビューでの、ベートーヴェンの最後の3つのソナタについてのバレンさんの言葉です。
私たちは内面と外面、両方の世界で音楽と結びついています。3曲は(番号としての)最後だけにとどまらず、文字通りのファイナル、一つの役割を終えて到達した満足感とともに奏でる作品です。日本の聴衆の皆さんも、そのような感覚に浸り、じっくりと耳を傾けていただければと思います。
(discovermusic.jp)
6年ぶりに来日してくれたシュターツカペレ・ベルリンの最終日に行ってきました。
前回の2016年の来日のときは、友人とSKBの音色やバレンボイムのピアノについて色々話をしたなあ。ボストン響にしても、当時来日していたオーケストラがいま再び来日していて、でも彼女はいなくて…。季節は巡っているのだな…と改めて感じさせられます。
【ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90】
今回のチケットを買ったのは、もう一度バレンボイム&SKBの音を聴きたかったからでした。ですが、バレンさんは身体を壊されて活動を休止。代わりにアジアツアーの指揮をすることになったのが、ティーレマンでした。
ティーレマンを聴くのは初めてですが、なんとなく彼の指揮は私の好みとは合わないのでは…という気がしていたので、チケットを手放そうかどうか直前まで迷ったのです。でもSKBの音のブラームスは聴きたいし、食わず嫌いもよくないし、今年の〆にやっぱりオーケストラの音を聴きたいし。なので、行くことにしました。
さて、今回の3番。
ティーレマンの指揮姿を私は初めて見たのですが。
演奏が始まった瞬間に、ええっと。。。。。。。
ものすごく吃驚した。。。。。。。
あんな指揮が世の中に存在するとは。。。。。。。
下から上に両手を掬い上げる基本形も、下方で手をピロピロするのも(音を抑えて、という意味と思われる)、何よりゆったり楽章以外でのカクカクした動きが機械仕掛けの人形みたいで。あまりに個性的すぎて笑いそうになってしまい、最初の方はまったく音楽に集中できず、仕方がないからティーレマンから目を逸らそうと試みるもP席ではそれもできず。ああいう指揮でもオケは演奏できるんだなあ。指揮って不思議だなあ。
しかしそれにも次第に慣れ、音楽に集中できるようになりました。
直前にSKDの録音で予習したときも驚いたけど、まるでオペラのようなブラームス。音が語る語る。ブラームスの心を語っているというより、ドラマを語っている感覚。この曲にはないはずの劇が目の前で繰り広げられているよう。
本来こういうブラームスは全く私の好みに反するのだけれど(私の理想のブラームスはハイティンクなので)、これだけのものを聴かせてくれたら何も文句は言えないよねえ。。。お見事。。。
そして、SKBの”the独逸”の音!東独時代の音を残すオケ、と表現される方もいますね。一瞬で6年前に聴いたときの感覚を思い出して、やはりこのオケの音ってすごく独特だな、と。分厚く、底光りするいぶし銀のような、くすんだ暗い音色。でも温かみも感じさせて。
まるでブラームスの時代のオケがタイムスリップしてきてサントリーホールの舞台にいるような錯覚を覚えました。あるいは、彼らのいる空間だけがブラームスの生きている時代であるような。
ふくよかさや華麗さはないし、はっとするような弱音もないけれど、突然うわ…っと呆然とするような独特の美しい音を出すのはバレンさんのときと同じ。今回もその瞬間が何度かありました。重い音がうねるように、でも最高に美しい音を出すんです。他のオケでは経験できない感覚。
繊細な演奏ではないし粗さも感じたけれど、少なくとも絶対的なライブの楽しさがありました。
あと、ティーレマンの指揮は作為的な不自然さで有名のようだけれど、今日聴いた限りでは殆どそれは感じませんでした。速度は速めだし、数回だけあれ?事故?というような音楽の流れが引っかかるときがあったのが気になったと言えばなったけど(ティーレマンの動きからそれは彼の指示だとわかった)、全体には全く自然に音楽は流れていたように感じました。
特に3楽章と4楽章の主題はSKBの音の個性が最大限に合っていて、またこれはティーレマンゆえだと思いますが4楽章のうねるような劇的なドライブ感がSKBの重厚な音色で演奏されると舞台の空気がうねって、最高に興奮しました。なのにちゃんと体温が感じられて、美しい。この音のブラームスが聴けて本当に嬉しい。このときは演奏後の客席のフラ拍手もなく、響きの余韻まで完璧でした。
(20分間の休憩)
【ブラームス:交響曲第4番 ホ短調 作品98】
3番もよかったけど、4番、すごかった。
三楽章の華やかさ。
そして四楽章。最初の主題が演奏されたときは「おいおい、いくらなんでも速すぎでしょう」と面食らったけど自然に修正され、終盤のドラマチックな悲劇感が半端なかった。変奏なのにオペラみたい。これだけ聴かせてくれたら、何も言えない。
まるでワーグナーのようなブラームスだけど(ワーグナー詳しくないけど)、ブラームス自身もワーグナーに感動して「今夜の私はワグネリアンです!」とクララ?に言っていたこともあったくらいだし、こういう演奏もアリのように思う。今夜の演奏を聴いてブラームスがどう感じるのか、怒るのか喜ぶのかは全く想像できないけれど。
また、このドラマチックに音を解放させた悲劇感に、ゲルギエフがマリインスキーから出していた音を思い出しました。そしてどちらも歌劇場のオケだなあ、と。
ティーレマンの全幕オペラを聴いてみたい。
と感じるブラームスって…笑。
とにかくライブの楽しさを存分に感じさせてくれて、一年の最後を気持ちよく〆ることができました。
これで私の今年の音楽鑑賞は終わりです。
そしてバレンさんは大丈夫なのかな・・・。ティーレマンもとても素晴らしかったけど、バレンさんの音楽もまた聴きたい。
あの演奏活動休止のメッセージの文言がちょっと気になるのよね…。
"Music has always been and continues to be an essential and lasting part of my life. I have lived all my life in and through music, and I will continue to do so as long as my health allows me to. Looking back and ahead. I am not only content but deeply fulfilled."
バレンさん、お戻りになるのをお待ちしてますよ~~~!!
そういえばティーレマン、パワハラ系指揮者の評判を聞いていたのに(バレンさんも同じ評判があるけど)、SKBの奏者達に対して物凄く腰が低くて常に上機嫌で驚きました。噂によるとSKBのシェフになりたいというご本人の希望があるようなので、そのせいだろうか。P席にも二回オケに挨拶させてくれた(こういうサービス精神、バレンさんと同じだ)。ティーレマンは西ベルリンの出身なんですね。
現在、ベルリン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)は公演のため日本を訪れています。昨晩は、東京のサントリーホールで開催されたコンサートの後、100名以上のオーケストラメンバーがドイツ大使公邸を訪れました。行われたレセプションには高円宮妃久子殿下のご臨席を賜りました。 pic.twitter.com/yWcTLZebPg
— ドイツ大使館🇩🇪 (@GermanyinJapan) December 8, 2022
2019年チャイコフスキー・コンクール金管部門で優勝。昨年ARDミュンヘン国際コンクールでも第2位入賞を果たしたホルンの逸材が8月に初来日!
— ぶらあぼ (@bravo_tweet) June 14, 2022
わずか22歳にして、ベルリン国立歌劇場管の首席客演奏者を務める #ゼン・ユン さんに、来日を前にお話をうかがいました。https://t.co/wgq4Xlh3sB#YunZeng
今日の前半のホルントップは、このゼン・ユンさんでした。安定感のある明るめの音色で、安心して聴くことができました(ホルンって大事…)。舞台上でもニコニコ笑顔で楽しそうだった
でも後半のホルンの方もSKBらしい音色でとてもよかったです。個人的には後半の方の音色のが好みだったかも。
本日のニュース。「防衛費増額の財源 一部は増税」、「空自の名称『航空宇宙自衛隊』へ」。
わたし、思うのですが。
8月15日の終戦記念日も大切だけれど、同じくらいかあるいはそれ以上に明日12月8日も戦争について考える日としてしっかり子供達に伝えていくべきではなかろうか、と。
リメンバーパールハーバーとか自虐史観とかそういうことではなく、なぜどのようにして日本は戦争に向かってしまったのかということを、冷静に知的に、それぞれが考えたり幅広く調べたりする日として。
戦争を経験してソ連で捕虜にもなった私の祖父は、亡くなる前に「最近の日本の空気は戦前と似ている」と言っていました。祖父が亡くなったのは14年前だけれど、今の日本の空気は当時とは比べものにならないくらい戦前のそれに近づいているのではないかと感じます。
『死んだ男の残したものは』は、作詞が谷川俊太郎さんで、作曲が武満徹さん。
谷川さん(当時34歳)は1965年(昭和40)、”ベトナムの平和を願う市民の会”のためにこの詞を作詞し、友人の武満(当時35歳)に作曲を依頼。できあがった曲を渡すときに武満は「メッセージソングのように気張って歌わず、『愛染かつら』のような気持ちで歌って欲しい」という手紙を添えたそうです。気張って歌ってほしくない、というのはきっと谷川さんも同じだったのではないかな。常々「僕の詩は感情を込めすぎずに淡々と朗読してほしい」と仰っているし。
この歌、改めて聴くと、すごく”谷川さん”だなあと感じる。死んでいく人が男→女→子どもとさり気なく一つ一つ増えて(残っている人が減って)いくところとか、残したものが終盤で「生きてる私 生きてるあなた」になる流れとか。「他には誰も(何も)残っていない」の逆説的な希望とか。
戦後は音楽の道に進み世界を舞台に活躍した武満ですが、戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年だったそうです(wikipedia)。
石川セリさんは武満作曲の歌ばかりを集めたアルバムも出されていて、それはセリさんの声に惚れ込んだ武満からの希望だったそうです。このアルバムには筑紫哲也さんのNews23のエンディングで使用された『翼』という歌も収録されています(作詞作曲ともに武満)。
セリさんの『死んだ男の残したものは』は、この歌でよくある深く感情を込めた歌い方とは全く違いますね。私もこの歌は大仰に歌うよりも淡々と歌う方が、より言葉のもつ力が聴く者に届くように感じます。
谷川さんとのコンビのアルバムがいくつかある小室等さんは、この歌を今年9月の国葬反対集会で歌われていました。
またジブリ映画で谷川さん作詞の歌を歌った倍賞千恵子さんも、この歌をレパートリーにされています。
さて、と。
私は明日はシュターツカペレ・ベルリンの演奏会に行ってきます。ドイツと日本というとワールドカップでも盛り上がっていましたが、81年前の明日を思いながら、こんな風に彼らの演奏会を聴きにいくことができる日常は決して当たり前に守られているものではないのだと改めて感じます。この「守る」を”どう守る”べきなのか、私も考えたいと思う。答えは簡単には出ないけれど。
先ほど見つけたこれもいいな。高音きつそうだけど、それもいいというか。この歌は女性が歌う方がいい気がする。
しかしこの曲を一日で作った武満、天才だな。全く同じメロディで、歌詞によって絶望も希望も表してしまうとは。気負わないシンプルな歌詞とともに、言葉と音楽の力を感じます。谷川さんも武満も30代半ばでこんな歌を作っちゃうのだものなぁ。。。
2018年の引退公演以来、4年半ぶりのピリス。
彼女自身は割とすぐに活動を再開していたけれど日本まで来てくれそうな気配はなく、活動はヨーロッパ限定なのかしら…と悲しく思っていたので、今回のアジアツアー(韓国→日本→台湾)は本当に嬉しい。
おかえりなさい&戻ってきてくれてありがとう〜~~
【シューベルト:ピアノソナタ第13番 イ長調 Op.120 D 664】
彼女の演奏には恣意的な表現はない。楽譜から作曲家の言葉を丁寧に読み取り、作曲家との対話の中で彼女はありのままの自分自身を語り、真摯に作品に対峙する。彼女の音楽の構築はすぐれて理知的であるが、同時に、その流れは実に自然であり、精妙なフレージングも大きな魅力である。なかでも、彼女の演奏の要となっているのは、息遣いの繊細さであろう。研ぎ澄まされた感性と細やかな音楽の呼吸を通して、作曲家の内奥に深く分け入り、多彩な情感をデリケートに描き分けていく。ピリスは、その音の一つひとつに鮮やかな息吹を注ぎ込む。彼女は、演奏の一回性に信念をもっているという。このようなピリス特有の表現は、シューベルト演奏にも通じる。彼女が自ら語っているように、「内省的な思索」は彼女のシューベルトにおける真骨頂である。
(公演プログラムより。道下京子)
公演プログラムのこの言葉、本当にそのとおりだと思う。
前回のリサイタル以降色々なピアニストでシューベルトを聴いてきて、そのどれもが素晴らしい演奏だったけれど、一方でピリスのシューベルトだけがもつ唯一無二の音も懐かしく感じていたこの数年間でした。もう一度聴きたいと強く思っていたので、今回聴くことができて本当に嬉しかった。
ピアニストの色を感じさせない。でも温かな体温は感じる。ただそれだけのことがどれほど貴重か、彼女の演奏の真の魅力&他に代わりのいない個性というものを今夜も改めて感じました。
その繊細な演奏は考え抜かれた末のもののはずなのに、作為的なものを全く感じさせない、今そこで生まれたような自然な音楽の流れ。そのさりげなさが、シューベルトの音楽に凄く合っている。
この13番のソナタ。全楽章素晴らしかったけど、例えば三楽章のこの動画の0:15のドソーシラーのようなフレーズの繊細かつ”自然”な息遣いなどはピリスの真骨頂だと思う(他のピアニストだと作為的になりやすい部分)。
今回もピアノはYAMAHA。前回の引退公演と同じものかどうかはわからないけれど、このメーカーの素朴で親密な音色はシューベルトにとても合っているように思う。温かで繊細なピリスの演奏と相まって、まるでシューベルティアーデにいる錯覚を覚えました。今回の演奏会は録音録画がされていなかったので、その時間と音楽をその場にいる人だけで分かち合う親密さも、シューベルティアーデ感を高めてくれていました。
そして何よりピリス自身が、前回の公演時と比べて、吹っ切れたような自由さを感じさせて、纏う空気も音もとても良い。あの引退は彼女にとって必要なことだったのだなと、今夜の姿を見ていて感じました。
【ドビュッシー:ベルガマスク組曲】
公演プログラムによると、ドビュッシーはこれまでの彼女のレパートリーにはなかったけれど、彼女がいま最も演奏してみたい作曲家の一人なのだそう。
ピリスとドビュッシーの組み合わせは、思っていたより悪くないというか、意外に合っているように感じました。
ドビュッシーの作品の自然さが、やはり客観的で自然体のピリスの個性と合っている。ピリスらしく温かみのある音色のドビュッシーだったけれど、これはこれで良い。特にメヌエットと月の光が良かったです。
ただYAMAHAのピアノと澄んだ色彩感が欲しいドビュッシーとの相性はイマヒトツだったような
(20分間の休憩)
【シューベルト:ピアノソナタ第21番 変ロ長調 D 960】
ピリスが舞台に出てきて椅子に座るか座らないかのとき、スマホなのかなんなのか?笑っちゃうほどの大きさで客席後方から朗々と響きわたる音楽。
おや?と少し首を傾げながらも、音が消えるのを待たずに弾き始めるピリス。こういう意外に神経質じゃないところ、ラテンの国の人だなと感じる。シフやツィメさんだったら絶対に弾かないだろうな笑(音を鳴らした奴は死んでよし)。
さて、21番。ピリスの個性には前半の13番のが合っているように思うけれど、個人的に、二楽章がとんでもなく良かった。今まで聴いたこの曲の二楽章の中で一番かもしれない。好みの問題ですが、この楽章、等身大の若いシューベルトが暗い道を一人でとぼとぼと歩いているような演奏が好きなんです。冒頭の左手から右手へ繋がるドのオクターブの4音のところ(シフがオスティナートと呼んでいた部分)、ピリスは音を長引かせないんですよね。ツィメさんもそう。この弾き方、孤独なとぼとぼ感が感じられて好きなんです。同動画の0:57~の自然な呼吸の変化も、まさにピリス。今夜の演奏でも泣きそうになってしまった。その後の顔を上げて歩いていこうとするような、あるいは天からの光を見上げているような長調の部分も、ピリスの演奏からは今まで聞いた中で一番等身大の青年の姿が見えました。
一方、4楽章の主題のところは滑らかに流れるように演奏されていて、あまり好みではなかったかも(子供が遊んでいるようなリヒテルのような演奏が好きなので)。また四楽章の和声の強音は、今夜のピリスはだいぶきつそうに演奏していましたね。こういう不安定さは2018年の引退公演でも感じられた部分で、手が小さく体重も軽いピリスには難しい演奏なのだろうな、と。
当時インタビューで引退理由の一つとして語っていた「自分の手はとても小さく、歳をとるに従いピアノという楽器との違和感が増してきている」というのはきっと本当だったのだろうと、今夜の21番を聴きながら感じました(今回の公演プログラムでは引退理由は「ヨーロッパのマネージャーとの不和」とのみ書かれてあったけれど)。今夜も、それらをカバーするために懸命に全体重をかけて弾いているのが近くで見ていてよくわかりました。78歳のいま、若い頃と同じようには弾けていないことは彼女自身がよくわかっているはずで、それでもこの曲を弾きたかったのだろうな、と。ただ先ほども書いたように、今夜の彼女自身はとても安定してリラックスいるように見えました。そして作為を感じさせない自然で誠実な彼女の演奏は21番でも変わらず、「ピリスからしか聴かせてもらえないシューベルト」を聴かせてくれたのでした。
たびたびこの言葉を引用してしまうけれど、ハイティンクがペライアの演奏に対して言っていた「彼の演奏を聴いていると人生は悪くないと感じる」という言葉を、今夜のピリスでも感じました。そういえばピリスもハイティンクの指揮で協奏曲を演奏していたな…。
【ドビュッシー:2つのアラベスク第1番 ホ長調(アンコール)】
このアンコールも、とてもいい演奏だった。
本音を言えば引退公演のアンコールで弾いてくれたシューベルトのD.946-2を聴きたかったのだけれど(素晴らしい演奏だったんです)、今夜のアンコールは彼女が今ドビュッシーを弾きたいと思っていることが、ドビュッシーを弾く喜びが強く伝わってくる演奏で、爽やかで温かな気持ちにさせてもらえたのでした。
そういえば今夜弾かれた2曲のドビュッシーのどちらからも、日本の音楽の響きを感じたな。ドビュッシーが日本の美術を愛好していたことは有名だけれど、彼は日本の音楽を聴いたことがあったのか、ただの偶然なのか。いずれにしても、ドビュッシーの感覚って日本人の感覚と通じるものがあるのだろうな、と改めて感じたのでした。
会場中からの温かな沢山の拍手を受けて、ピリス、とても嬉しそうだった
またぜひ日本に来てね~!!!
※”手の小ささ”で思い出したけれど、ピリス、「バレンボイム・マーネ・スタインウェイ」を弾かせてもらったらどうだろうか。鍵盤の重さはわからないけど、バレンボイムの手に合わせて既存のグランドピアノより鍵盤の幅が狭く作られているそうだし。まだ量産されていないのかしら。ていうか、バレンボイムも手が小さいのだろうか。アシュケナージやデラローチャは手が小さいピアニストで有名だそうだけど。と思ってググってみたら、「20 Famous Small-Handed Pianists」というリストが。なんと、ギレリスやペライアもsmall handsで有名だとは。全然知らなかったし、全くそうは感じさせない演奏ですね。ペライア、お元気かなぁ……。
※自分用覚書。これまでに聴いたシューベルトのピアノソナタ。
2番(レオンスカヤ)、4番(光子さん)、7番(光子さん)、11番(レオンスカヤ)、13番(レオンスカヤ、ピリス)、14番(光子さん)、15番(光子さん)、16番(レオンスカヤ)、20番(ツィメルマン、シフ、ヴォロドス、光子さん)、21番(ツィメルマン、シフ、レオンスカヤ、ヴォロドス、光子さん、ピリス)