来年の今頃、どこにいるのかも知らされていない。
こんなことを知りながら、よくみんな生きていけるなあ、と思った。
みんなうまくぼかしたりずらしたり、真っ向から立ち向かったり、泣いたり笑ったりうらんだりしてごまかしている。
いつか死んでしまうとかそんなことではなくて、全部を感じすぎてこわれてしまわないように。
そっと、柔らかい記憶のベールにくるまって、金の陽ざしや何千年も立っていた木をただ見上げて。夕日を照りかえしてどこまでも続く山脈や、昔の人々が創った大きな建物の面影にうっとりと身をゆだねて、安心を得る。
明日も、どこかで目覚めようと思う。
きっと、生きていて、どこか幸せなところで新しい気持ちで、必ず寝た時に持っていた自分の魂のままで。夢のなかでその確かな感触とはぐれてしまわないように。
そんなこと、めんどうくさくて死にたいような気もしたし、面白いから続けたいような気もした。
まんがで自分のなかの天使と悪魔がけんかする場面みたいに、その欲望は全く半々で引っ張り合い、私をこの大地の重力に縛りつけるのだ。
(吉本ばなな『アムリタ』 下p264)
そうかお互いの思っていることが同じならば、次は何をすればいいんだろう。セックス?じゃない。
きっと、友達になればいいんだ。それが友達なんだ。
そういうシンプルなことを久々に考えた。子供の時から、知らないひととひとつの教室に閉じ込められてそのなかから、そこいらへんから仲のいいひとを無理にでもさがさなくてはいけなかった。それが運命で、それが友達になるということならなんと狭苦しいことだろう。大人になったら自由になって、友達は街なかから自分でこの目と耳で探していいのに、箱に入れられていたくせがぬけていない。
抜けだそうとする弟こそが健全なのかもしれない。
(吉本ばなな『アムリタ』 下p191)
「……若いうちにいろんなことをしとくと、きっといいんだと思うな。一人で飛行機に乗るとか、英語圏ですごして身ぶりで買い物するとかね。とくにああいう、頭で考えちゃう子には、大きい自信になると思うんだ」
私は言った。
「そうだよ、俺なんかそういうの大人になってから始めたんだけど、なんかさ、惨めな思いというか、自分がこの世では取るに足りない、虫けらかと思うような思いって、してみるといいもんだよ。マゾなんじゃなくて、たとえば荷物盗まれて、そのなかにパスポート入ってて、宿も取ってなかったとか、借りたアパートメントの大家が冷たくて言葉もろくに通じないのに、風呂の湯が出ないとかさ、そういうの。むらむらとやる気が出てきて、何とかしてやる!と思うじゃないか。何かこう、自分の中に新たに芽生える感じがするんだ。未知のものが。そうすると語学もやるようになるし、自分は特別安全だと思わなくなるから、ばかなことをしなくなるし、パニックに陥らなくなる。いいことだよ。あの年で少しでもそういうのが増えるって。」
(吉本ばなな『アムリタ』 下p61)
ぐるりと私と取り巻くこの世界の中心、めくるめく景色の中で。
本当に痛いほどに実感した。
ああ、そうだ。いつか私も竜一郎もこの地上からいなくなる。
骨になって、土になって、空気に溶ける。
その気体は地上を丸く覆っていて、つながっている。日本も、中国も、イタリアも、みんな。いつか風に乗ってそこを巡るようになるときが来る。今はこんなに確かにここにある手も足も、消えてなくなる。
みんなが、いつかそうなる。
真由のように、父のように。
今生きている誰もがいずれそれにならっていく。
そのことは、何とすごいことだろう。
何とすばらしいのだろう。今確かにここにいて、今しかない肉体でまわりじゅうの何もかもをいっぺんに感じていることが。
(吉本ばなな『アムリタ』 下p60)
触りたい、と思った。
何もかもに触って確かめたい。
そう思った。
(吉本ばなな『アムリタ』 上p242)
9月にサイパンへ旅行することになったので。
サイパンの描写がとっても素敵な、吉本ばななさんの『アムリタ』より。
ばななさんの本は中学・高校あたりの頃にとても好きで、読んでいました。
最近出版されているものは全く読んでいませんが。。
彼女の本は夜の描写が印象的なものが多いですが、『アムリタ』からは澄んだ青空のような空気を感じます。これがとてもいい感じ。
終戦時(1945年)の日本人の平均寿命
男性:23歳 女性:37歳
2005年の日本人の平均寿命
男性:78歳 女性:85歳
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今回ご紹介した手記は全て、『新版 きけ わだつみのこえ』より一部を抜粋させていただきました。
ご興味をもたれた方は、ぜひこちらの本で全文をご覧くださいませ。
なお、趣旨が異なるので詳しくは触れませんが、この本には残念ながら掲載文章と原稿との不一致という重大な欠陥があることを付け加えておきます。
詳しく紹介されているサイトをみつけましたので、ご案内いたします(578号、579号参照)。
もっとも、現在入手できるものは残念ながら現行版のみである以上、批判ばかりが大きくなりそれを理由に人々がこの本に手に取ることさえしなくなるとしたら、それはあまりに残念でなりません。彼らの声の純粋な価値までが消えるわけでは決してないのですから。
「当時の戦争一色の空気の中で、そうあるべきと育てられた子供たちの中にも、こんな風に考える学生たちもいたのだ」という事実を知ること。彼らの言葉からその奥の「想い」を素直に感じとること。そして戦争について、平和について、ちゃんと向き合い考えてみること。それが本当に大切なことなのではないでしょうか。
ですから私は、上述のような問題点も理解したうえで、たとえ現行版であっても少しでも多くの人に読んでいただきたいと思います。この本にはそれだけの価値があると思うからです。一日も早く完全版が発行されることを願いつつ。
61年前の彼らの「こえ」を、どうか皆さんも自分自身の耳で聞いてみてください。
太平洋戦争から61年。
今の世界情勢をみていると、人間は何も進歩していないのではないかと感じてしまう。
けれど、日本はあれから一度も戦争をしていません。
61年間、不戦を守りつづけてきたのです。
何を言われようと、それだけは世界のどの国に対しても胸をはっていいことです。
そしてもっと堂々と不戦を宣言することのできる国づくりを私達がしていかねばなりません。
これだけは、この先どんなことがあっても守りつづけていかねばならないことだと思います。
(岩ヶ谷治禄 1944年12月23日 ルソン島にて沈没戦死 21歳)
昭和十八年十一月六日
三月十日に入隊する。それも毎日毎日近くなって来る。今日はブーゲンビル島付近の戦闘が新聞に報ぜられている。大型輸送船大破とか、巡洋艦轟沈だとか。あの大洋になぜのみこまれて死んで行かねばならないのか。日本人の死は日本人だけが悲しむ。外国人の死は外国人のみが悲しむ。どうしてこうなければならぬのであろうか。なぜ人間は人間で共に悲しみ喜ぶようにならないのか。平和を愛する人。……私のように意気地なしの者にはこんな言葉が痛切に感じられてならない。
外国人であるがゆえにその死を日本人が笑って見る。これは考えても解らない。日本人は「御民われ、生けるしるしあり」とほこりを感じていると。彼らの人生のほこりは?海の中で三日、四日と泳いで力つきて死ぬ人のあわれさ……。
昭和十九年三月某日
……私は戦をぬきにして戦へ征く。その言葉を解してくれるものはないかも知れぬ。ただ私は人の生命を奪おうとする猛獣的な闘争心は今持たぬのである。そうしてこの哀れな渦中にすいこまれるような思いで、私は戦に征くのである。
(長谷川 信 1945年4月12日 特別攻撃隊員として沖縄にて戦死 23歳)
昭和二十年一月二日
……人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。
今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。
敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。
恐ろしき哉、浅ましき哉
人類よ、猿の親類よ。
(瀬田萬之助 1945年3月7日 ルソン島にて戦病死。 21歳)
昭和二十年三月五日
……この土地の言葉はタガログ語です。……いくらか土人の言葉にも慣れました。言葉が分ると自然と人情が湧いて来るものです。皮膚の色が変わっても人情上は変わりありません。母上がいつかおっしゃられたように無益の殺生は部下にも固く禁じております。
マニラ湾の夕焼けは見事なものです。こうしてぼんやりと黄昏時の海を眺めていますと、どうして我々は憎み合い、矛を交えなくてはならないかと、そぞろ懐疑的な気持ちになります。避け得られぬ宿命であったにせよ、もっとほかに打開の道はなかったものかとくれぐれも考えさせられます。
あたら青春をわれわれは何故、このような惨めな思いをして暮らさなければならないのでしょうか。若い有為の人々が次々と戦死していくことは堪らないことです。
中村屋の羊羹が食べたいと今ふっと思い出しました。
またお便りします。このお便りが無事に着けばいいのですが……
(『きけ わだつみのこえ』より)
今回紹介した中だけでも、1945年4月12日林氏及び長谷川氏、4月14日竹田氏、4月28日大塚氏、4月29日市島氏、5月11日上原氏と、立て続けに戦死しています。太平洋戦争もいよいよ終盤のこの時期、どれほど多くの未来ある若い命が日々失われたのかと思うと、言葉がありません。そしてそれは、敵側だって同じなのです。こんな若者たちが互いに殺しあう。どんなに綺麗事をいっても、それが「戦争」の現実です。
(市島保男 1945年4月29日 特別攻撃隊員として沖縄東海上にて戦死 23歳)
昭和十八年十月二十五日
僕は文部省の壮行会に実のところ行きたい気持ちだった。感激にひたり涙を流したかった。確かにあの中に入ったら僕みたいな単純な男は泣く。しかし僕は行けなかった。何故学生のみがかくまで騒がれるのだ。同年輩の者は既に征き、妻子ある者も続々征っている。我々が今征くのは当然だ。悲壮だと言うのか、では妻子ある者はなおさらだ。学生に期待する故と言うのか、では今まで不当な圧迫を加え、冷視し、今に居たりて一変するとは。素直でない考えかも知れぬ。しかし通り過ごせぬ。……大部分の学生は征くことの当然を知っていよう。世間が、時には冷視し、時には優遇し、一人芝居をやっているのだ。壮行会には行かなかった。しかし、行けばよかったとも、今考える。あの雰囲気に浸れば誰でも純一な感激を味わえたに違いない。ここでも煩悩はたち切れない。
……
昭和二十年四月二十日
心静かな一日であった。家の者とは会わなかったが、懐かしき人々とは存分語り合い、心楽しき時を過し得た。
今日去れば再び相会う事は出来ぬ身なれど、すこしも悲しみや感傷にとらわれる事なく談笑の中に別れる事が出来たのは、我ながら不思議なくらいである。
俺にとっても自分がここ一週間の中に死ぬ身であるという気は少しもせぬ。興奮や感傷も更に起らぬ。
ただ静かに我が最後の一瞬を想像する時、すべてが夢のごとき気がする。死する瞬間までかく心静かに居られるかどうかは自分にも判らぬが、案外易い事のようにも思われる。……
四月二十三日
明日出撃になるかも知れぬゆえに田舎道をブラツキながらバス(入浴)に行く。
我が二十五年の人生もいよいよ最後が近づいたのだが、自分が明日死んで行く者のような感がせぬ。今や南国の果てに来たり、明日は激烈なる対空砲火を冒し、また戦闘機の目をくらましつつ敵艦に突入するのだとは思えない。……
四月二十四日
ただ命(めい)を待つだけの軽い気持である。……隣の室では酒を飲んで騒いでいるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持ちでいたい。……私は自己の人生は人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じている。精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは神の大いなる愛と私を囲んでいた人々の美しい愛情の御蔭であった。今限りなく美しい祖国に我が清き生命を捧げ得る事に大きな誇りと喜びを感ずる。……
(『きけ わだつみのこえ』より)
ここ最近、会社から雇用契約について「更新可」と言われたかと思えば「いや、やはり契約終了」と言われたり、「最長6年まで可」「いや、やはり3年」などという気まぐれで不安定な状況に精神的・身体的にかなり参っていました。家族や友人たちにまで嫌な思いをさせてしまったりもしました。
でもこの特攻隊員達が経験した思いは、そんな生易しいレベルではないのですよね…。「今日出撃だ」「いや、敵艦がいないから明日に延期だ」「いや、やはり今夜」というような状況とは一体どんなものなのか、想像を超えています…。そんな状態でも、最期の最期まで遺される家族の心配をしている。
比べられる種類のものではないことはわかっていますが(レベル云々じゃなく中身が全然違うので)、ふとそんなことを考えて、最近の自分が恥ずかしくなりました。
(大塚あき夫 1945年4月28日特別攻撃隊員として沖縄嘉手納沖にて戦死 23歳)
昭和二十年四月二十一日
はっきり言うが俺は好きで死ぬんじゃない。何の心に残る所なく死ぬんじゃない。国の前途が心配でたまらない。いやそれよりも父上、母上、そして君達の前途が心配だ。心配で心配でたまらない。……俺は君たちの胸の中に生きている。会いたくば我が名を呼び給え。
四月二十五日
人間の幸福なんてものはその人の考え一つで捉えることが出来るものだ。俺が消えたとて何も悲しむ事はない。俺がもし生きていて、家の者の誰かが死んでも俺はかえって家のために尽くそうと努力するだろう。
四月二十八日
今日は午前六時に起きて清々しい山頂の空気を吸った。朝気の吸い納めである。今日やる事は何もかもやり納めである。
書きたいことがあるようでないようで変だ。
どうも死ぬような気がしない。ちょっと旅行に行くような軽い気だ。鏡を見たって死相などどこにも表われていない。……泣きっぽい母上ですからちょっと心配ですが泣かないで下さい。私は笑って死にますよ。「人が笑えば自分も笑う」って父上によく言われたでしょう。私が笑いますから母上も笑って下さい。……
午前十一時
これから昼食をとって飛行場へ行く。
飛行場の整備でもう書く暇ない。
これでおさらばする。
皆元気でゆこう。
大東亜戦争の必勝を信じ、君たちの多幸を祈り、今までの不幸をお詫びし、さて俺はニッコリ笑って出撃する。
(『きけ わだつみのこえ』より)
死んでいった人達はもちろんだけれど、こんな形で愛する者が死んでゆくのを見送るしかなかった人達の辛さはいかばかりだろうと思う。特に母親は……。お腹を痛めて産み、色々な思いをしながら23歳まで育てた息子からこんな手紙を受け取り、しかもそれを読むときには息子はすでにこの世にいないだなんて……。
戦争は悲劇しか生み出さない。
戦争を起こしていい正当な理由など、決してない。
(林 市造 1945年4月12日 特攻隊員として沖縄沖で戦死 23歳)
昭和二十年三月三十一日
……母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることが出来ずに、安心させることもできず死んでゆくのがつらいのです。私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、ということは、立派に死んだと喜んでください、と言うことはとてもできません。けど余りこんなことは言いますまい。母チャンは私の気持をよく知っておられるのですから。……
この手紙は出撃を明後日にひかえてかいています。ひょっとすると博多の上をとおるかもしれないのでたのしみにしています。かげながらお別れしようと思って。……
母チャン、母チャンが私にこうせよと言われた事に反対して、とうとうここまで来てしまいました。私として希望どおりで嬉しいと思いたいのですが、母チャンのいわれるようにした方がよかったかなあと思います。……
千代子姉さん博子姉さんもおられます。たのもしい孫もいるではありませんか。私もいつも傍にいますから、楽しく送って下さい。お母さんが楽しまれることは私が楽しむことです。お母さんが悲しまれると私も悲しくなります。みんなと一緒にたのしく暮らしてください。…… ともすればずるい考えに、お母さんの傍にかえりたいという考えにさそわれるのですけど、これはいけない事なのです。……
お母さんだけは、また私の兄弟たちは、そして友達は私を知ってくれるので私は安心して征けます。…… もうすぐ死ぬということが何だか人ごとのように感じられます。いつでもまたお母さんにあえる気がするのです。あえないなんて考えるとほんとに悲しいですから。……
出撃前日
(『きけ わだつみのこえ』より)