谷川 俊太郎(詩人)
長島 有里枝(写真家)
すこし前になりますが、谷川俊太郎さんと写真家の長島有里枝さんの対談を聞きにいってきました。先日ここに谷川さんについての記事を書いた際に改めて「そうなのだよなあ、私はまだ一度も谷川さんにお会いしたことがなかったんだ」という事実に思い至り、そして谷川さんが現在87歳でいらっしゃるという事実も思い、「行くのは今でしょ!」と。
初めてお会いした谷川さんは想像していたとおりの、でも想像以上の方でした。想像以上に人間的で、想像以上に自然体な方だった。自分をよく見せようというような気負った空気が皆無で、たった今生まれたばかりの赤ん坊のようなまっさらさといいますか。人ってどうしても自分を取り繕おうとしてしまう部分があるものだと思うのだけど、谷川さんは「自分を取り繕う」ことの意味がわからない方なのではなかろうか、と。世の中にこんな人がいるんだねえ。
お相手の長島さんとは今回が初対談とのことで、「谷川さんの詩に子供の頃から親しんでいるし大好きだけど、マニアレベルほど詳しいわけではない」という感じがちょうど私と似ていて、質問してくださる内容も私が知りたいと感じる部分を聞いてくださったので、私にとってはとても充実した内容の対談でした。
以下は、自分用の備忘録です。記憶に曖昧な部分もあるので、誤りがあったらゴメンナサイ。
谷:僕の詩は自分の内側から湧いてきているものだけど、具体的じゃなく抽象的、概念的とよく言われます。
長:普遍的・・・っていうのとは少しちがうのかな(←言葉の意味をいい加減に使わない長島さんのこういうところ、いいなと感じました^^)、でもそういうところが谷川さんの詩が多くの方に読まれている理由だと思います。
長:谷川さんは、「意味」がお嫌いでしょう。
谷:うん、嫌い(即答)
長:私も「意味」が嫌いで、でも大人になるとどうしても意味を考えるようになってしまうじゃないですか。例えば誰かにぶつかったとき、若い頃はただぶつかった!としか思わなかったのに、今は「私のことが嫌いなんじゃないか」とか色々意味を考えてしまったり。そういうのがすごく嫌で。(谷川さんに縋るように)こういうの、どうしたらいいんですか??
谷:それが普通なんじゃないですか?人間は意味を考えてしまう生きものでしょう。
谷川さんのこの言葉、こうして文字にしてしまうと伝わらないかもしれないけど、谷川さんがサラリと仰ると自分の中のモヤモヤしたものが一瞬で浄化された感じがして、すぅと心が楽になったんです。驚くほど。
このときの声、中島みゆきさんとの対談で「生きていることは罪を重ねていることのように感じる」と仰ったみゆきさんに「それは誰だってそうだよ。」と返したときの声とおそらく同じなのではないか、とそんな風に感じました。
これ、谷川さんは決して一般論で「誰だってそうだよ」と流したわけではないと思うんですよね。「自分は人もたくさん傷つけてきた」と谷川さんはよく仰っていて、「人間という生き物は、生きていれば人を傷つけてしまうものだ」というのが谷川さんの感覚なのでしょう。みゆきさんと違い谷川さんはそのことであまり罪悪感は感じておられないようだけれど、それも「人間とはそういうもの」という感覚がおありだからでしょう(※ここは私自身はみゆきさんの感覚の方に近いです)。
そういう人から出ている言葉だから、その声に不思議なほど邪気がなく透きとおった響きで相手の心に届くのだろう、と。なのでみゆきさんが「不思議ねえ。そう言われると、なんか元気が出ちゃうわ。」と仰ったのも社交辞令でもなんでもなく、谷川さんの言葉にある透明なものを受け取った彼女の本心だったろうと思うのです。「人間ってそういうものでしょう」ということをこんなふうに言える人って、稀有ではなかろうか。この感じばかりは言葉で説明できなくてもどかしいのですが、ちょうどみゆきさんがこの感覚をうまく言葉にしてくださっている文章があるので、引用しちゃいます。上記対談の十数年後、みゆきさんは当時のことを振り返って、こんな風に書かれています(対談の中で谷川さんがみゆきさんにした「あなたは子供を持たないの?」という質問に対するご自身の返答と、それへの谷川さんの返答に関して)。
谷川さんの声はあくまでも穏やかで、ただ、透きとおっていた。出まかせな自己顕示欲を即座に見抜かれてしまった私はといえば、その声を真水のシャワーのように呆然と浴びていた。(中略)私はその真水のシャワーが優しく温かいシャワーであったことを感じていた。この人に会えてよかった、と思った。
(谷川俊太郎詩集 角川文庫 1998年)
この感じ、すごくよくわかる。
谷川さんの声って「透きとおって」いるんですよね。それはきっと谷川さんという人が稀に見る「透きとおった」人だからで、それは谷川さんが「人間」という存在に対して独特の距離感を持っていることと関係しているのだと思う(そういうところが「宇宙人」と呼ばれる所以でもあるのでしょう)。でも谷川さんのそういう透明な部分に反応してしまう人というのは、おそらく”同種の”人間だけなのではなかろうか、とも。反応しない人はおそらく全く反応しないのではないか、と。それが良い悪いということではなく。
ちなみにみゆきさんが谷川さんの詩がお好きで卒論のテーマにもされていたことは、今回の対談に行く直前に初めて知りました。世界や言葉が似ているなあとは常々思っていたけれど、私が知っていたのは学生時代のみゆきさんのオーディションのエピソードだけでした(課題詩が谷川さんだったというアレ)。
話を戻して。
そんな宇宙人のような谷川さんだけど、この世界で「何の問題もなく」生きてこられたわけでは決してないだろう、と私は思う。特に「社会内存在」としての谷川さんは。
谷:僕は人間は二重の存在からなっていると思っていて。それは僕がよく言う「社会内存在」と「宇宙内存在」というもので、社会内存在は”ないと生きていけないもの”、宇宙内存在は”宇宙から突然地球に降り立ってこの世界を見ているような感覚”。この関係に僕はずっと興味があって。詩は宇宙内存在のときにできるんですけど。それは人間ではない部分。一度目の結婚ではまだ人間な部分があったから衝突した。一番喧嘩した。二度目の結婚は一般の人で(※女優をしていたけど結婚を機にやめたから一般の人とのこと)、忍耐を覚えたから我慢した。でも我慢しすぎた。子供が生まれたり一番現実で忙しかったから男だ女だというのはなかった。三度目は相手が特殊な人だったから。彼女はとにかく人を一瞬で見抜く、批評がうまい人で。僕が知らない面を沢山教えてくれた。でもそれがいい経験となって自分を変えたとかいうのとは、、、違う気がする。自分の中にはずっと宇宙内存在としての人間じゃない部分がある…。人間関係が苦手なんです。このままでいいのかな?とは思うんだけど。
長:そういう相手に出会っていないからでは?違うタイプの女性を選ぼうとかは思われないんですか?
谷:全然笑(即答)。僕は潜在意識が空っぽなんです。若い頃からドロドロしたものがない。恵まれて育ったから。
長:でも裕福な家で育ってもドロドロしたものがある人もいると思うから、それだけではないと思う。
谷:歳をとるに従ってどんどん”自分”がなくなっていくように感じている。もう少し自我をもつ必要があるんじゃないかなと最近思うんですけどね。この歳でもう無理かもしれないけど笑。
長:谷川さんは、詩をひとのために書くのか自分のために書くのか、どちらですか。
谷:ひとのため(即答)。詩は相手との関係でできる。
長:批評家という人達についてはどうですか。私は”図星を書かれてくそ~”というのならいいんですけど、”批評以前”の全く作品を理解されていないようなことを書かれたりしたこともあって、批評にあまり良い印象がないんです。
谷:僕は、若い頃は自分の作品を正面から批評してもらいたいと思ってた。今はもう違うけど笑。批評されて、結構それで変えて作品が良くなったりするし。
長:そうなんですか!?
谷:そう笑
長島さんがお好きだという詩集『バウムクーヘン』の『すききらい』の詩の話から。
長:谷川さんは矛盾がお好きですよね。
谷:うん、好き。
長:私もです。今の世の中はみんな「すき」と「きらい」だけ。両方混ざっているのが普通なのに。
谷:僕は、矛盾があるからリアルなんだと思っています。
アーティストについて。
長:アーティストだからお金はいらないでしょ?と言われる。アーティストがお金のことを言うなんておかしいって。
谷:今でもそうなの?
長:今の方がそうです。今は経済がよくないから昔よりも言われる。私はまだいいですが、若い人達は気の毒です。
谷:僕はお金をもらうことが社会と繋がっているとずっと思ってきたから。中国に行けば?(←唐突な提案に会場から笑い)この前僕の読者だという人が訪ねてきて、上海からプライベートジェットで来たっていうの。まあいつまでも上向きじゃないかもしれないけど、日本と違って国が大きいから、単純計算で読む人の数も多い。
書き方のスタイルについて。
長:谷川さんは色んなスタイルを試したくなるタイプですか?
谷:僕は飽きやすいんです。色んなスタイルを試したくなる。
長:私もそうなんです。
※ここ、谷川さんと糸井さんとのこの対談を思い出しました。自分の詩は「歴史的ではなく地理的」であると仰っていた対談。
『バウムクーヘン』より長島さんがお好きだという詩『かぞく』を朗読。長島さん、朗読がお上手!谷川さんも嬉しそう。
谷:僕の詩は感情をいれて読んでほしくないからとてもいい。
この詩の最後の3行について。
谷:僕はそういうパンチラインを書きたくなる癖があるんです。
それから谷川さんが百部くらいしか作らなかったという写真が貼られた古い詩集(何かのインタビューでこの本のことを読んだ記憶があります)の中からもっと昔に書かれたもう一つの『家族』の詩を探して、谷川さんが朗読。選集などによく掲載されている「お姉さん 誰が来るの 屋根裏に」で始まる詩です。谷川さんご自身はおそらくこちらの詩の方をより気に入っておられるのではないかなと感じました。
ていうか谷川さん、、、朗読がものすごく上手い・・・!!!
吃驚しました。自身が書いた詩を詩人自ら朗読しているのだから当然かもしれないけど、それにしても素晴らしかった。なんというか、淡々と読んでいるんですよ。淡々と読んでいるんですけど、”詩のもつ原始的な力”のようなものを感じた朗読でした。ああ、谷川さんの朗読をもっと聞きたい!
長:実際に感じる感覚はとても大事だと思う。素材の手触りとか。
谷:僕もそう。kindleも読むけど、紙をめくる感じが好き。
長:本当に表現したいものは写真では出せない。
谷:その距離は詩も同じです。
長:私は自分の写真をうんこと呼んでるんです。いいものは全部自分の中に栄養として吸収されてしまうから。
谷:佐野洋子は義理の息子をうんこと呼んでたけど笑、ぼくにもうんこに関する詩が沢山あって息子が曲をつけてくれた。オペラみたいなので、文字で読むより伝わってくるんです。よかったら送ります。住所は?スタッフの方が知ってるのかな?
長:住所?え、ここで?あ、あとでお教えします。(※戸惑う長島さん笑)
ひらがなと漢字について。
谷:漢字はそのものが意味になってしまう。ひらがなはアルファベットと同じで音そのものの楽しみ方ができる。
そして最後の質疑応答。
女性:私は谷川さんの学校の後輩でずっとお会いしたいと思っていました。今回の講演のタイトルは「いま」についてですが、「いま」の話と写真の話が全くなかったので、その話をしてほしい。
今ず~っとその話をしてたでしょ~が!あんたはなにを聞いてたの!とおそらく私だけでなく会場の誰もが思ったと思いますが、確かに私は谷川さんの詩の世界に比較的慣れてはいるから今日の話と「いまここ」が繋がっていることがわかったけど、そうではない人には「?」な部分もあったかもしれない。なかったかもしれない。
長:すみません。私はずっとその話をしていたつもりだったんですけど・・・。
割とはっきりと不機嫌そうな谷川さんと長島さんのお二人
こういう谷川さんのとんがった部分が見られたことだけはこのオバハンのおかげだわ(本当にそれだけね)。
ところで最近知ってものすごく吃驚したんですけど、谷川さんは『六十二のソネット』を21歳のときに書かれているんですね。あの詩を21のときに、、、、、、、、、、、、、、、。谷川さんってやっぱりすごい人だ、、、、、。大好きな詩集です。
ちなみに明日も再び谷川さんにお会いしてきます