Nelson Freire plays Schumann/Liszt 'Widmung' for Martha Argerich
......We are still living in the abnormal environment of having to keep social distance between one another, but this has also reminded us of the importance of spending time with other people.
......Now I feel it is a miracle to be able to share time with you in the same space.
I believe countinuing to do the things we can do now while cherishing every moment will lead us on the road to the future.
I hope we will value mutual tolerance, maintaining modesty and consideration amongst all of us living together on this planet.
I would be happy if you could share this thought with me.
Martha Argerich
・・・今も常に人との距離をとることが求められる特殊な環境を経験していますが、このことは私たちに人との交流の大切さを思い起こさせる機会にもなりました。
・・・皆さまとこうして、ひとつの空間のなかで時間を共有出来ることも、今や奇跡のようなことです。
ひとつひとつの瞬間を大切に、今出来ることを重ねていくことが、未来への道となることを信じたいと思います。
そしてこの地球に、共に生きている私たちが謙虚さと配慮を持ち、お互いに寛容でありたいと思います。
この思いを受けとめていただければ幸いです。
マルタ・アルゲリッチ
今年5月の別府アルゲリッチ音楽祭で配布されるはずだったパンフレットより、アルゲリッチからのメッセージの抜粋です。パンフレットは音楽祭事務局からいただきました。アルゲリッチは昨年今年と、来日が叶いませんでした(入国許可はおりていたけど、出発前日に大分県知事の判断で音楽祭が中止になった。私がチケットを持っていた東京公演も中止になりました)。
「この地球に、共に生きている私たちが謙虚さと配慮を持ち、お互いに寛容でありたい」。そうですね。本当にそうありたいと、ギスギスしがちな自分への自戒も込めて思います。
上の動画は、以前もご紹介した2003年のフレイレのドキュメンタリーより。シューマン/リストの『献呈』をアルゲリッチのために弾く(としか見えない)フレイレ。
この動画の中でフレイレが言っている「今まで弾いたことがないんだ」の意味がこれまでわからなかったのだけど、コメント欄に「フレイレは並外れた初見能力で知られている」と。つまりフレイレの言葉は本当にそのままの意味で、このとき初見で弾いたということ この曲自体は知っていただろうから彼ほどのピアニストなら不可能なことではないのかもしれないけど、それにしても初見でこうも華やかに愛情溢れる音で弾けるなんて、すごすぎる。。。でもフレイレはこの後もこの曲を自身のレパートリーにはしていないのですよね。この曲をこんな風に弾ける人は滅多にいないと思うのに、うーん、もったいない。
代わりにこの曲はアルゲリッチのレパートリーになったのでした。映像の二人の会話でも、もともとアルゲリッチの方がこの曲を気に入っている様子ですよね。
下の動画は、2019年のアンコール演奏より。こちらも素晴らしい。
どちらの演奏も、その華やかさと同時に根底にある静けさが好きだな。
フレイレとアルゲリッチの二つの温かな『献呈』に鬱々とした心を束の間柔らかく癒してもらえた、日曜夜のワタシでした。
皆さまにもお裾分け
これで世界が終わるわけではありません。
コロナ禍が落ち着けば再び会えます。
そのときを楽しみにしています。
(音楽祭中止の報を受けてのアルゲリッチのコメントより)
Martha Argerich plays Schumann/Liszt: Widmung (2019)
最近「プラネタリー・バウンダリー」というSDGsの基礎になった概念を提唱したスウェーデンの科学者の本を読んだのですが、「私達一人一人が何をすれば何が達成され、地球の何の数値がどうなり、それによって何がどう変わるか。それが達成されないと何がどうなる恐れがあるか」、その試算と理由が具体的な数値で示されているのがとてもいいと思いました。そして反対意見や懐疑的な意見に対しても真摯に向き合っているところにも感心しました。
今回のオリンピック・パラリンピックも、開催(あるいは中止)で想定されるメリットとデメリットを全て包み隠さず具体的に示し、不安な国民の声に誠実に耳を傾ける姿勢が政府にあれば、国民の気持ちもだいぶ違っていたろうと思う。それを「安心・安全」という何の科学的根拠もない神話のような言葉だけで強引に押し切ってしまった。こういう政府の姿勢は今に始まったことではない。
コロナ禍は未曾有の事態ですから予想外のこともあるでしょうし、間違うこともあるでしょう。それならそれで国民にきちんと事情を説明し、軌道修正すればいいだけのこと(科学だってこの軌道修正の積み重ねで成り立っている)。国民は理解し、協力するはずですよ。そういう誠実さが今の政府からは微塵も感じられないことが、決断力がないとか計画性がないとかいうことよりも、一番の問題だと思う。彼らから発せられる言葉は空虚なだけでなく、確信犯的に不誠実。
本当のことってみんなにわかるはずなんですよ。最終的には。本当のことは偽善よりも絶対強いですよ。どんなにきつい言葉であっても――というふうに僕は思ってますけどね。
(谷川俊太郎 『考える人 2016年夏号』より)
谷川さんのこの言葉、そのとおりだと思います。
私は、オリンピック自体は思いのほか楽しめました。実家に帰ったら親がテレビを見ていて、普段見ないような競技も見る機会を持てて、こんなルールなのか〜とか、国内外の選手達の色々なエピソードとか、普段知らない世界に触れられて楽しかったです。ですが先日のバレンボイムのリサイタルのときと同じく、感動したなら文句を言うな、は違うと思う。多くの人とお金が動いている以上総括はきちんとなされるべきで、このまま有耶無耶にされていいことではないと、私は思います。
コロナ禍のマスク生活になって1年半。
それによって改めて思い出させてもらったことの一つが、この世界は豊かな匂いで溢れている、ということでした。
この春に梅の花を「綺麗だなあ」と眺めていたときに、ふとマスクの隙間から艶やかな甘い匂いが薫ってきて、梅には匂いがあるということを忘れていた自分に驚いたことがありました。
そして、雨の匂い。
雨の日に散歩しているときの、カラッと晴れた日とは違う、湿気を含んだ空気の匂い。
そして、夜の匂い。
昼とは違う、夜の空気の匂い。
これも夜の街を散歩中にふとマスクを動かしたときに感じた匂いに、ああそういえば夜はこんな匂いだった、と新鮮でした。普段マスク生活で匂いから遮断されているせいで(私は二重マスクにしているので特に)、マスクを取ったときには嗅覚が敏感になってるのかも。
あの夜の匂いって不思議ですよね。どうして昼と夜とで空気の匂いが違うのだろう?日暮れすぐでも感じられるので、交通量の違いだけが理由ではないように思う。
夜は気温が下がって湿度が上がるから?でも夜にあまり気温が下がらない日でも、夜の匂いはあるような気がする。
植物の活動も関係してるのだろうか。植物は、夜は酸素を吸い二酸化炭素を吐いて、呼吸していると(正確には、昼も呼吸しているけど同時に光合成もしているので、二酸化炭素を吸って酸素を吐く量の方が多い)。
中学の理科って結構面白いことを教えてくれていたのだな、と大人になって気付く
私はご存じのとおりの性格なので(笑)、どちらかというと昼や晴れの日の匂いよりも、夜や雨の日の匂いの中にいる方が心が落ち着きます。不安な夜の後でほっとする早朝の匂いも好きですが。
こんなにも色々な匂いに溢れているこの世界は、やっぱり美しいな、と改めて感じるのでした。
コロナ禍で気づかせてもらえたものの一つです。