俺は歩いているがそれがどうしたと言うのだ
歩いているならどう歩いているか言葉にせよと
お前は内心そう思っているのか
俺は黙ってただ歩くのが好みなのに
俺の持ちものはコトバだけ
だからコトバにはケチケチするのだ
持ち重りするのは身に余る
風景並みに無口なコトバが道連れだ
どこへ行くのか気になるのか
あの世に決まっているだろう
別に用事はないんだが
歩いていればグーグルマップなど見なくても
自然にそこに落ち着くはずだ
お喋りしながらお前もおいで
書き下ろし『歩いているだけ』より。
一部引用するつもりが思わず全部載せてしまった。。
――現代詩に制約を感じたことはありませんか。
谷川:いや、制約はないですよ。どんなことでも自由に書けます。月々連作で長く書くことも可能だし。
僕にとって、詩は自己表現ではないってことです、簡単に言うと。だから、自己表現がしたいなら詩じゃ不満だから小説に行こうとなったと思うんだけど、僕にはこれはぜひ言いたいなんてこと、ないんですよ。
たしかに少なくとも谷川さんの詩には”自己表現”という言葉は似合わないですよね。外に向かって自己の内面を表現しているようには感じられないから。谷川さんはきっと、ただ自分や他人や世界の姿を書いているのだと思う。自分が書きたいように。それに最も適しているのが、谷川さんにとっては詩という形式なのでしょう。
では散文と詩の違いってなんだろう、と考えるのだけど。
それは文章の”純度”の違いではなかろうか、と。
純度というと語弊があるかもしれないけど、他に合う言葉が見つからないので。
これはもちろん純粋という意味ではないけれど、それでも詩のそういうところが佐野さんには「アクを掬いとった人生の上澄み」に感じられたのだろうと思うし、それはある意味では正しいのだと思う。
一方で、その純度こそが詩の命なのではないかしら。私はそういう詩というものが好きだ。
――などとえらそうに書いている私ですが、谷川さんの詩は読んだことがあるものより読んだことのないものの方が遥かに多いのですよ実は。詩集もその時々の気分で適当に開いて読むという読み方ですし。そもそも谷川さんの作品数は2016年時点で詩だけで「三千くらい」なのだそうで(一日一作読んでも8年…!)、最近は紙媒体だけじゃなくネットや色んなところでも活動されているから、とても追いつけないです。まあ本気で追いつこうと思えば追いつけるのですけど、やらないだけでもある。私にとって詩は散文と違って慌ただしく読むものではないですし。
本当のことってみんなにわかるはずなんですよ。最終的には。本当のことは偽善よりも絶対強いですよ。どんなにきつい言葉であっても――というふうに僕は思ってますけどね。
(谷川俊太郎 『考える人 2016年夏号』より)