人間の世界とは関わりのない
それ自身の存在のための自然。
アラスカのもつその意味のない広がりに
ずっと魅かれてきた。
ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。
日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。
自然はいつも、強さの裏に脆さを秘めています。
そしてぼくが魅かれるのは、自然や生命のもつその脆さの方です。
人間の気持ちとは可笑しなものですね。
どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。
人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。
きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。
上に載せた言葉はすべて、写真家の星野道夫さんの言葉です。
写真は、最初の3枚はデナリで出会った女の子がカトマイで撮ったもので、最後の1枚は私がフェアバンクスで撮ったもの。ともに一人旅で同年代、初めてのアラスカでした。私はアンカレジ→デナリ→フェアバンクスという旅程でしたが、彼女はデナリ→アンカレジ→カトマイという旅程でした。「一緒にカトマイも行こう!」と誘われたけど、さすがに初めての海外一人旅で現地で旅程を変更する勇気はなく、また星野さんが住んでいたフェアバンクスに行くことがその旅行の一番の目的だったので、デナリでお別れしたのでした。旅行後にカトマイで撮った写真を送ってくれたメールには、「アラスカに一人旅をするような女の子が私の他にもいると知って、とても嬉しかった」と書かれてありました。私からも彼女にフェアバンクスで見たオーロラの写真を送ってあげたかったのだけど(贅沢なことに毎晩飽きるほど見られた)、当時の私はオーロラを写真で撮るという技術がなく。彼女はめっちゃいいカメラを持っていたので、私がデナリでコンデジでカシャカシャ動物の写真を撮っていたら、「あなた、そんなカメラを持ってデナリに来るなんて…Oh My God!」的に嘆かれた(笑)。
このアラスカ旅行は、私の長年の夢を叶えたものでした。
18歳のときに龍村仁監督のNTTデータスペシャル「未来からの贈りもの」(1995年)の中で星野道夫という写真家の存在を知り、星野さんの場面ばかりVHSが擦り切れるほど何度も何度も繰り返し見ました。いつか必ずアラスカに行こう、もし手紙を書いたら星野さんは会ってくださるだろうか?とまで考え(笑)、星野さんの著作や写真集を買い、お守りのようにしていました。ですが翌年の1996年、星野さんはカムチャツカで亡くなられました。あの日、母親が「これ、あなたの好きな写真家の人じゃない?」と持って来た新聞を見たときの気持ちは、25年たった今でもはっきりと覚えています。
それから9年後、28歳のとき、夢を叶えてアラスカに行きました。初めての海外一人旅がアラスカで、ツアーではなく自由旅行。フェアバンクスの郊外では携帯電話も通じない。私自身はケロっとしていましたが(携帯が通じない場所にいる解放感といったら!)、母親はものすごく心配していたそうです。なのに一言も反対せず行かせてくれた親には、感謝しています。
なぜ急に星野さんの話をしたかというと、今日のヤフーニュースで、三浦春馬さんが2018年10月のインタビューで星野さんを大好きだと仰っていたこと、プライベートで行きたい国を尋ねられて「死ぬまでに一度はアラスカでオーロラを見てみたいです!」と目を輝かせていたということを知ったからです。調べたら昨年9月のインタビューでも、「人生を変えた本」として星野さんの『旅をする木』をあげていらっしゃいました。以下は、そのときのインタビューの春馬さんの言葉。
星野道夫さんは、アラスカの大自然と動物の写真を撮り続けた写真家・随筆家で、ヒグマに襲われて亡くなってしまったのですが、何冊も本を出されています。写真はもちろん、言葉もとても美しくて。自分の調子が悪かった時、彼の使う言葉に癒され元気づけられました。
なかでも印象深いのは、アラスカの住まいで窓を開けていたらベニヒワという頭とお腹が真っ赤な小鳥が部屋に入ってきて、妻とそれを見ながら幸せを感じるというお話。幸せを感じさせてくれるこの環境と妻の存在に感謝したいという星野さんの思いが、すごくきれいな言葉で綴られているんですよ。また、東京での暮らしを書いている章もあって、アラスカで書いている時の文章と、言葉の使い方や並び方が全然違うんです。人は環境に応じて選ぶ言葉が違うんだなと面白く感じました。
星野さんの本に出会ってから、いつかアラスカに行きたいと思うようになりました。彼が住んで感じた、自然と共存して生きていくなかで生まれるインスピレーションを自分も体感したい。きっと、すごく癒されるし、生きていく上で励みになる気がするんですよね。今はまだ叶っていませんが、いつか必ず行きたいなと思っています。
前回のブログ記事で私は「これまでの人生で私は自ら命を絶とうと思ったことはありません。なぜなら私にとってこの世界は自ら去るには美しすぎるのです」と書きましたが、そのときに頭に浮かんでいたのは、星野さんのことでした(春馬さんが星野さんをお好きなことは、このときは知りませんでした)。
星野さんが綴るこの世界の美しさは私が子供の頃からずっと肌で感じてきたもので、それを言葉という形にしてくださった人が星野さんでした。
ところで星野道夫という人について語られるとき、世間の関心を集めがちなのはその最期です。
私自身はそこに大きな意味があるとは思っていません。できるならアラスカで死なせてあげたかったな、とは思うけれど。
ただ、その最期について思うとき、いつも想像することがあるのです。
星野さんは21歳のときに親友を山で亡くされています。本の中では具体的な山の名前は書かれていませんが、1974年7月の新潟焼山の噴火のときのことであるとわかります。噴火が起きたとき、頂上付近にいた千葉大の学生3名が亡くなりました。このうちの一人が星野さんの親友でした。『旅をする木』の中で星野さんはこの出来事を振り返って、こんな風に書かれています。
中学生の頃から親友だったTとぼくは、いつもある共通の憧れを抱いていた。見知らぬ遥かな土地、そこに生きる私たちとは違う価値観を持った人々、人間の知恵をもってさえどうすることもできない自然の力……そんな世界をいつか見に行くのだという漠然とした夢だった。(中略)その夜、江戸時代からずっと眠り続けていたこの山が大噴火を起こすとは、一体誰が想像しただろう。Tは何という時の迷路に入り込んでいったのだ。けれども、それは私たちがいつも語り合った世界ではなかったか。最期の時、あいつは振り返って目の前で噴き上がる火山をじっと眺めただろうか。Tは帰って来なかったが、あの時の不思議な気持ちは今でも覚えている。気がつくと、やり場のない悲しみをふっと忘れ、あの夜一体何を見たのかぼくはTに問い続けているのである。
この感覚、私にはとてもよくわかるのです。
おそらく世間一般的には理解されがたい感覚なのではなかろうか、とも思います。
でも結局、亡くなった人が最期に何を思ったかは、その本人にしかわかりません。
星野さんが亡くなったのは43歳。今の私と同じ歳のとき。
春馬さんが「死ぬまでに一度はアラスカでオーロラを見てみたい」と言っていたのは、28歳のとき。私がアラスカに行ったのが、28歳のとき。その当時の私が何を思っていたかというと、「死ぬまでに絶対にやりたいと思っていることがあるなら、いつかではなく、今しよう」でした。昨年のインタビューで「きっと、すごく癒されるし、生きていく上で励みになる気がするんですよね。今はまだ叶っていませんが、いつか必ず行きたいなと思っています。」と仰っていた春馬さん。そうだよ、アラスカでの体験はあれから何年たっても私に生きていく力をくれているよ。だからあなたも全部を投げ出してアラスカにでもどこにでも行ってしまえばよかったのに、と強く思ってしまうけれど、彼が置かれていた立場は急に退職しても部署の数人にしか迷惑をかけない私とは違い、あまりにも多くの人やお金が関わっている立場だったものね…。俳優って大変な職業だな…。
最後にもうひとつ、星野さんの言葉を。『旅をする木』より。
結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。
アラスカ、またいつか行けるかな。
本当なら今年か来年に行く予定だったのだけれど…(今回こそカトマイに行こうと地球の歩き方も買ったのに)