先月、ブロック割を利用して湯ヶ島に行ってきました
皆さま、湯ヶ島ってどこにあるかご存じですか?
静岡県伊豆市の天城にあります。
現在静岡の県民割を利用できるのは、静岡、新潟、富山、石川、福井、長野、岐阜、愛知、三重、神奈川、山梨の在住者。
中部地方の県が並ぶ中に一つだけ関東地方の我が県が混ざりめっちゃ違和感を放っておりますが、実は神奈川が隣接しているのは東京、山梨、静岡なんですね~。箱根の山を越えるとそこは静岡!
ずーと自粛していたので、関東の外に出るのは2年半ぶりです。
お隣の県なので鈍行でも行けますが、今回はちょっと贅沢して踊り子号で。
友人が空いている車両を予約してくれたので、乗客も一車両に数人だけでした。新車両で快適
ランチは道の駅「天城越え」の名物、猪丼
天城は地域をあげてのジビエ推しです。
肝心のお味は、、、やはりケモノ臭い
以前湯ヶ島で買ったコロッケはそうでもなかったのだが。
お新香がのってるワサビ型の器が天城ぽいですね。
湯ヶ島はお気に入りの旅先で何度も訪れていますが、今回の旅の目的の一つは井上靖ゆかりの地巡り
井上靖は湯ヶ島の出身で、彼の作品に登場する風景が今もあちこちに残っています。
といっても私は彼の作品はこれまで『天平の甍』しか読んだことがなく(感想はこちら)、作家自身に興味を持ったのは役所広司さん&樹木希林さん主演の映画『わが母の記』を観てから。
今回の旅行にあたって彼の自伝的小説『しろばんば』と映画の原作となった随筆『わが母の記 ~花の下・月の光・雪の面』を初めて読んだのですが、『しろばんば』は子供時代の鮮やかな情景描写や繊細な心理描写が中勘助の『銀の匙』と似ていて驚いた。ああいうタイプの小説が他にもあったとは。『銀の匙』+米映画『スタンド・バイ・ミー』÷2=『しろばんば』という印象
同時に『しろばんば』も『わが母の記 ~花の下・月の光・雪の面』も、客観的で冷静な筆致が新聞記者出身の人が書くような文章だな、とも(全く悪い意味ではなく)。司馬遼太郎さんのような。と感じてから思い出した。この人は新聞記者出身なのだった。毎日新聞社で山崎豊子さんの上司だったんですよね。彼女に「橋は焼かれた」と言ったのが井上さん。
道の駅「天城越え」の中にある伊豆近代文学博物館では伊豆に関係する作家の資料が展示されていて、そのメインが井上靖です。
子供時代に”おぬい婆さん”と住んでいた土蔵の模型。
同じく、土蔵の二階の部屋の再現。
博物館の中庭には、湯ヶ島から移築された旧邸(医者に貸していた母屋)があります。明治23年築。
今回この家の前で蛇に遭遇し、友人が写真を撮ってネットで調べたところ、ヤマカガシという毒蛇でした。日本のヘビの中でも最も強い毒をもっていて、天城全域に生息しているそうなので、行かれる方はご注意を。
内部は、映画で八重(樹木希林さん)が住んでいた家とよく似ていました。二階は見学不可。
それからバスで湯ヶ島に移動し、天城会館の前で下車。天城会館は、井上靖が通っていた湯ヶ島小学校の跡地にあります。小学校は場所を変えて最近まで存続していましたが、2013年に閉校になりました。
湯ヶ島は、町全体が『しろばんば』の舞台。とても小さな町なので、天城会館の観光案内所でいただいた「しろばんばの里散策マップ」を見ながら徒歩で周れます。
「すのこ橋」は修善寺から来るときにバスで通ったので、まず「馬車の駐車場跡」に行き、旧道入口から「旧道」に入り、「旧邸跡」へ。今は道がアスファルトに変わり当時の風景がそのまま残っているわけではありませんが、自分の足で歩いて距離感と空気感を感じられるのが何より楽しい
旧邸跡(先ほど道の駅で見学した建物の移築前の場所)。土蔵のあった場所もちゃんとわかるようになっています。
しかしあの建物はここに残しておいた方が絶対にいいのにな。取り壊されるよりは移築の方が百倍マシだけど、家というのはやはり町も含めてその家なのだと思う。
写真左手の布で補強された木は、いわゆる「あすなろの木」。
母屋と土蔵の位置関係は、こちらのマップがわかりやすいです。以下は抜粋。
旧邸から「上の家」へ。
こちらは、今も当時の場所に残されています。実際に歩くと旧邸の目と鼻の先で、距離の近さに驚く。
その途中の右手にある角地(写真中央)が、「雑貨屋(幸夫の家)」の跡地。
この交差点は、子供達の遊び場だった「四つ辻」。
「上の家」(母八重の実家。本家)。明治6(1873)年築。
公開は不定期(月4日程度)なので、事前確認必須です。
内部は、『しろばんば』を読んだ人ならとても楽しい。
靴を脱いで上がると、小説の中で本家の人達が食事をしていた居間。その奥の縁側から外を見ると、随筆『わが母の記』に登場する「アメリカさんの家」が向かいにあります。マップには載っていないけれど、スタッフの方が教えてくださいました。また、昔のアルバムも見せてくださいました(アメリカさんの写真や当時の建物など)。
急な階段を二階に上がると、肺病のさき子が寝ていた部屋、襖越しに会話をした場所、おしな婆さんの嫁入り道具、おぬい婆さんの葬列を見送った窓、子供達がさき子を覗こうとした柿の木などが見られます。窓からうっすら富士山も。
見学後は、談話室で梅ジュースと小麦饅頭をご馳走になりました
梅ジュースは冷たく、小麦饅頭は熱々で、どちらもとっても美味しい
とお伝えしたら、お饅頭は朝から皆さんで作ってくださった手作りとのこと
朝に家を出て、この頃にはだいぶ疲れていたので、ほっと一息つくことができました。
「上の家」で思いのほか長い時間を過ごした後は、スタッフの方に教えていただいた「光一の家(本屋)」と「営林署跡地(しろばんばの里公園として近々完成予定)」を見てから、廃校となった湯ヶ島小学校のグラウンドを突っ切って(敷地内には井上靖の詩碑や、洪作とおぬい婆さんの像や資料室があります)、「弘道寺」へ。
「弘道寺」と向かいの蓮。
弘道寺は、安政4年(1857)、初代アメリカ総領事のハリスが日米修好通商条約を締結するため江戸に向かう途中で宿泊した寺。その旅程については、こちらのブログ様が詳しいです。
その隣の「天城神社」。さき子と中川先生のデート場所。ユーモラスな表情をした狛犬がいます。
予定時間をだいぶ過ぎてしまっていたので、一旦湯ヶ島温泉にある宿に行き(ここから徒歩数分)、チェックインを済ませました。それから「湯道(ゆみち)」へ。
狩野川沿いの「湯道」。
今は散策路として整備されていますが、洪作達が「西平の湯」に向かった道もこのあたりかな。
男橋から狩野川の下流方面を望む。奥にかかっているのは、落合楼村上(営業中)と眠雲閣落合(閉館)を繋ぐ橋。
眠雲閣落合は廃墟がまだ残っているので、昼間でも薄気味悪いです。窓に人影が見えちゃったらどうしようとか。
映画『わが母の記』のロケでも使われた吊り橋。
手前の赤い屋根は、落合楼村上の我楽多亭。
森を抜けたところにある、「湯本館」。
「湯本館」正面。
川端康成が『伊豆の踊子』を執筆した宿で、趣のある建物です。
ちなみに川端は井上靖の祖父と囲碁を打つため、「上の家」をしばしば訪れていたそうです。
「湯本館」のすぐ隣は、共同温泉「河鹿の湯」。
「河鹿の湯」は、『しろばんば』では「西平の湯」として登場します。小説に登場する場所には必ずこの形の案内板があるので、わかりやすかったです。
「河鹿の湯」の裏を流れる狩野川。
狩野川を渡って、宿のある出会い橋の方へ戻ります。
水が綺麗で、気持ちいい
女橋。その奥は男橋。
猫越川と本谷川がここで合流して狩野川になります。それぞれの川にかかる女橋と男橋が一つに繋がっているので、「出会い橋」。
猫越川を挟んで眺める今夜の宿。
ここの川床が好きで、いつもこちらに泊まります。
これは冬の季節に行ったときの写真ですが、夜の川床。
宿の温泉で汗を流し、夕食処へ。
こんな感じで猫越川を間近に眺められます。
川のせせらぎと風に、日常の鬱憤が消えていく。。。命の洗濯って絶対必要。。。この宿は一人旅の方もウェルカムで、この日も中年の男性がお一人でのんびり川床を楽しんでおられました。半屋外なのでコロナを気にせず食事ができるのもいいところ。
ここはご飯も美味しい(コロナ禍で少々レベルダウンした感も無くもないが)。
天城のアマゴの刺身、わさび鍋、鹿肉などのジビエ料理もいただけます。
今の季節は天然鮎の塩焼きと鮎ご飯も
ところで、天城の特産の一つに椎茸があります。江戸時代に全国で初めて椎茸栽培を成功させたと云われる天城の石渡清助は、井上靖の父方の先祖。石渡家の椎茸栽培は靖の祖父の代まで続いて、『しろばんば』にも石守林太郎として登場しています。
食後は、蛍を見に出会い橋へ
宿のすぐ裏なので、浴衣のままでOK。
蛍は色々な所で見たことがありますが、天城の蛍が一番数が多くて元気もいい。
ピークを過ぎた6月下旬でしたが、雨上がりの暑い夜、新月近くという好条件だったため、今回も沢山の蛍が飛び交うのを見ることができました。
一時間ほどすると蛍達はおうちに帰っていき、空も曇ってきたので我々も部屋に戻り、宿からのお夜食のおにぎりとお持ち帰りにした夕食のデザートをおつまみにして、しばし酒盛り(お酒は友人が自宅から持ってきてくれました。瓶なんて重いのに、いつも有難う)。
そうこうしているうちに日付が変わる頃になり、窓から外を見るとすっかり雲が晴れて、満点の星空が
慌てて友人と外に出ると、久しぶりに見る天の川
もうすぐ七夕のこの日、天の川を挟んで向かい合う織姫(ベガ)と彦星(アルタイル)もはっきりと見ることができました。
と偉そうに書いてますが、私は織姫がベガで彦星がアルタイルであることを知らず、友人が教えてくれました。重ね重ね感謝。。。
星を見ているとき、名残りのホタル一匹とタヌキの姿がありました。
翌朝の部屋からの眺め。
下を流れるのが猫越川。奥に見える山は井上家のお墓がある熊野山かな。
朝食も川床で。
アマゴの干物や、わさび丼など。
わさび丼は、摺りおろした山葵と鰹節をご飯にのせて醤油をかけて食べる食べ方で、安曇野の大王わさび園でもいただいたことがありますが、これが美味しい!生の山葵さえあれば、自宅でも作れます。
朝の川床も気持ちいい
チェックアウト後は、世古橋を渡る南側の湯道(ちなみにここは梶井基次郎が散歩した道)から熊野山の西側を北上し、市山まで歩きました。
市山にある、東京ラスクの伊豆ファクトリー。
私はラスクは買いませんでしたが、建物内の朝市で、新鮮な山葵の茎とズッキーニと地元の方が作った山葵漬けを購入。「今から月ヶ瀬の道の駅に行くので、どうしようかな」と私が迷っていると、おばちゃん曰く「あそこはここの2~3倍の値段よ!」と。本当にそのとおりでした。
道の駅「月ヶ瀬」の近くでは、『しろばんば』の田んぼアートを見ることができました(これも友人が教えてくれた。感謝)。洪作少年とおぬい婆さんと富士山ですね。
帰りは鈍行で。乗り換えの修善寺駅にて、三島行きの電車をパチリ。レトロな色合いが可愛い
三島駅では、乗り換え時間にご当地グルメ「みしまコロッケ」を食べてみました。意外と売っている店が少なく、駅前のヴィドフランスで購入。玉葱の風味がしっかりあって美味でした。
久しぶりの関東圏外への旅行、心からリフレッシュすることができました。
第7波がくる前に行けたのもよかった。
やっぱり旅はいい
湯ヶ島、観光客が少なくのんびりできてオススメです
◆◆◆オマケ◆◆◆
ピンクで囲った家が「アメリカさんの家」。表札は今も井上さん。個人宅なのでもちろん見学不可です。画像はgoogleストリートより拝借。わかりやすく「洋館」には見えないけど、「上の家」と比べると確かに明らかに洋館ですね。
講談社文庫『わが母の記』巻末より。
この写真でお二人がいるのは、土蔵の裏の一段高くなっている部分(昔は「田んぼ」で、今は芝生になっている部分)かなと。この写真の頃には土蔵はなくなっていて、母屋だけがありますね。
最後に、『しろばんば』より抜粋を。
ここ数年ず~っと鬱々している私なので、自然とこういう部分の抜粋になります
洪作は言われるままに土蔵を出た。洪作にも、おぬい婆さんはもうそう長くは生きないのではないかと思われた。洪作は暫く庭を歩き廻りながら、この世は憂(う)きことが多いというような試験問題の文章があったことを思い出し、実際に人生というものは憂きことが多いと思った。犬飼が狂ったことも憂きことであったし、おぬい婆さんに老衰がやって来つつあることもまた憂きことであるに違いなかった。洪作は久しぶりで若くして他界した叔母のさき子のことを思い出した。さき子もまた憂きことの一つであった。人生というものが複雑な物悲しい顔をしてその夜の洪作の前に現れて来た。
(『しろばんば』より)
※井上靖年譜(井上靖記念館)
※湯ヶ島のマップ(かかりつけ湯協議会)
※湯道のマップ(伊豆市観光情報サイト)
※小説しろばんばの舞台・上の家(伊豆市観光情報サイト)
※天城 文学と旅(天城温泉郷観光ガイド)
※「上の家」パンフレット
先月、明月院の紫陽花を見に行こうと思い立ち、北鎌倉に行きました。
ほぼ地元と言っていい場所なので、午後にぶらりと。
多少の人混みは覚悟していったけれど、線路沿いの道を左折してすぐに『最後尾』のプラカードに出会うとは予想外であった
私は運がいいのかいつも比較的空いている中でここの紫陽花を見ることができていて、以前台風の後の夕方に訪れたときは貸し切り状態なこともあったので、長時間並んで人混みの中で見る気にはなれず。
そんなわけで回れ右して、近くの円覚寺へ。
昨年値上がりした拝観料(300→500って上がりすぎじゃない?)に「まったく世知辛いねえ」と思いながら境内へ入ると、空いていて気持ちがいい
ふと見ると、お、松嶺院が公開している
ここは公開しているときと、していないときがあって。
100円(お庭の整備料)を払うと拝観できるのだけど、山門脇の目立つ場所に位置しているのに何故か全く目立たず、観光客の殆どは素通りしていく。
入ると案の定、出張ビジネスマンらしき男性が一人だけ。
ここは「遍路みち」として一周できるようになっていて、季節の草花を楽しむことができます。
こんな風に塀越しに眺める山門や仏殿も、風情があっていいですよね。
足元には、可愛らしい紫陽花の鉢植えがいくつも
ここには何度か入ったことがあるけれど、もしかしたら紫陽花の季節に入るのは初めてだったろうか。
と、脇の扉から庭師の方が。
「紫陽花の鉢植え、色んな種類があって綺麗ですね~」とご挨拶すると、「育てた鉢を並べてみました」と。
そして「上の観音様の所からの眺めが一番いいんですよ。甍が見下ろせて」と。
なんか甍(いらか)って良い響きだな。
井上靖の『天平の甍』の浪漫が浮かぶ
なぜ「禁煙」の文字がこんなに大きいのだろう
この紫陽花も装飾花が八重桜みたいで素敵。
ここから上りの階段になります。
上りきったところにある観音様の辺りからの眺め。
写真右手の塀の内側の細い道が、今歩いてきた道です。
静かで、気持ちがいい
観音様の隣は、円覚寺の墓所。
ここには作家や女優さんなどのお墓とともに、オウム真理教事件の犠牲者である坂本弁護士一家のお墓もあります。
私が訪れるときにはいつもお花が供えられていて、この日もお花がありました。
墓誌には3人のあまりに若い年齢と全て同じ年月日が刻まれていて、改めてどのような事件であったのか、現実感をもって迫ってきます。
坂本弁護士は職場もご自宅も横浜でした。
その事件が起きたのは1989年、私が13歳のとき。
その後の教団の選挙活動や連日のテレビ出演、松本・地下鉄サリン事件、坂本弁護士のお母様の横浜駅前での署名活動など、私はあの頃の空気を今も鮮明に思い出すことができるけれど、今の若い世代はそれを知らないんですよね。
教団が「信教の自由だ」と主張すると、坂本弁護士は「人を不幸にする自由など許されない」と答えたそうです。私も完全に同意します。
と同時に、なぜあの教団があれほど多くの信者を生み出したのか、なぜ彼らは麻原のもとに集まり入信してしまったのか、その原因の一端は日本という国の社会にもあったのではと私は思っています。それを省みることなく自分達とは異なる異常者の起こした特殊な事件として片づけてしまうこと、そこから何も教訓を得ることなく事件を終わりにしてしまうことは、坂本弁護士も望んでいないだろうと思う。
坂本弁護士の遺体が発見された新潟県上越市にたつ慰霊碑の背面には、司法修習生だった頃に書かれた『一年生』という題の文章が刻まれているそうです。自閉症の青年の家庭教師をしていたときの経験を踏まえて書かれたもので、「『声なき彼らのような人々』の心を汲み取るような仕事がしたい」と。
遍路の道は、最初の入口の場所に戻ります。
先ほどの庭師の方がいらして、私が「こんなに素敵な所なのに、殆どの方が素通りしていてもったいないですね」と言ったら、「ご縁がある方が入られるんですよ」と。
「縁」って面白い言葉だな、と改めて感じました。
”いつかの人生”からの風が一瞬吹き抜けたような、ちょっと不思議で、ちょっと儚い、でも決して心地悪いものではない、そんな感覚を覚えたのでした。
※坂本弁護士の碑文の全文は、「救う会」の瀧澤弁護士のHPで読むことができます。
同じカツオが同じでない。「なぜ高知で食べるとおいしいの?」。県外の観光客が驚く。ごく身近なスーパーでも新鮮な刺し身やたたきに出会える。・・・捕る人、売る人、食べる人。3者の力がこれほど高いレベルで保たれているのは、世界を見渡しても、高知のほかにない。・・・「高知の人は子どもの頃から食べている。質の高い味覚が受け継がれ、品質も淘汰されていく」と説明。
(読売新聞:30年前は「安い魚」だったのに…高知のカツオが「特別な存在」になった「契機」)
「同じカツオが同じでない」。
私の経験から、これは本当
親戚がいるので子供の頃から食べているけれど、高知の鰹は関東のスーパーで売っている鰹とは完全に別物。高知で食べるのはもちろん美味しいけれど、真空パックの冷凍で送ってもらう鰹でも生臭さが全くない。
それと、タレに使う酢みかん。定番の柚子もいいですが、高知の日曜市で買えるぶしゅかんや直七の柑橘酢は本当に美味しいです。
”江戸の鰹”も浮世絵にも出てくるし歴史は古いはずだけど、やっぱり高知の鰹は特別に美味しいのだよなあ
東京でも土佐料理の店や、銀座にある高知のアンテナショップのレストランの鰹のたたきは美味ですよ。厚切りなのに臭みがないの😋 早くコロナ落ち着いてくれ~~~
家で食べるときは、私は醤油を使わずに鰹のたたき、みょうが、細葱、玉葱の薄切り、にんにくの薄切り、穀物酢、柑橘酢、水、塩、砂糖を和えて食べるのが好きなんですが、、、ちゃんとしたレシピを探そうと思ってネットで検索しても一件もヒットしない。あれ~・・・?敢えて言うなら酢〆と塩たたきの間な感じ?こんな食べ方してるのは私だけなのだろうか。
高知はお酒も美味しいよ
佐川町で作られている純米酒「司牡丹」は吉田茂が愛飲していた酒で、先日行った大磯の邸宅の棚にも酒瓶が展示されていました。
戦後日本復興の立役者、「ワンマン宰相」吉田茂首相もまた、土佐が生んだ偉人でありますが、彼の著書「世界と日本」の中には「味のお国自慢」として以下の文章があります。『先年、はじめて選挙に出ることになって高知へ渡った際、「土佐の酒はまずいから、よい酒を東京から持っていこう」と語ったことがある。これを伝え聞いた選挙区の有志たちから「土佐には自慢の酒がある」と叱られた。なるほど、土佐に着いて飲まされた酒は上等だった。「司牡丹」という名の酒で、以来その酒を愛用している。』昭和35年、遊説のために来高した吉田元首相は、司牡丹酒造を訪ね、当時取締役会長であった竹村源十郎と快談しました。この時、現会長の竹村維早夫が撮った記念写真と吉田元首相揮毫の色紙は、今も社宝として司牡丹酒造に所蔵されています。
(司牡丹酒造公式ページ)
実父が土佐出身で自身も高知県から立候補したけれど、吉田茂自身は東京で生まれて横浜の貿易商の養父のもとで神奈川で育ったので「高知が生んだ偉人」は少々言い過ぎな気がするけども
佐川は昔行ったことがありますが、酒蔵の白壁が趣があって素敵な町でした。宮尾登美子さんが小説『蔵』を書いたきっかけも、司牡丹の酒蔵の雰囲気に憧れたからだそうです。
4月の歌舞伎座の感想とか色々書きたいことはあるけれど、仕事が忙しく余裕がなくて、なんとなく日々が過ぎてしまっています。
先日TVをつけたら、サバンナのチーターの番組をやっていたんです。群れの元リーダーだったオスが色々あって群れの下位に落ちるんですよ。で、昔は弱かったチーターから情けをかけられて優しくされたりもするのだけど、彼には昔のプライドが残っているのか、せっかく優しくしてくれる仲間のチーターに嚙みついたりしちゃうんです。そして現リーダーから怒られてしまう。その場面しか観ていないので、その後どうなったかは不明なのですけど。
動物にもプライドというものがあるのだなあ、と。それは人間の持つプライドと同じものなのだろうか。
人間という生き物が持つ感情の中で最も厄介なものの一つは、「誇り」というものではなかろうか、と思うことがあります。
自分自身のことだけではなく、様々な人達を見ていてそう思う。
どんなにのろまであったり、あるいは世間的に底辺と呼ばれる生活をしている人であっても、いつも顔を上げていたい、人から笑われたり恥ずかしい思いはしたくない、何かに怯えることなく生きていたい、という感情は必ずあるはずで。それは自分で捨てようと思って捨てられるものではないと思うし、捨てる必要もないものだけれど、でも、とても厄介な感情だ。捨てることができればどんなに楽か。
自殺をしてしまったり心が病んでしまう人は、自分で自分自身のことがどうしようもなく嫌いになって、自信を失くして、他の人と同じように生きられない自分が辛くて、消えてしまいたくなって、死を選んでしまう、あるいは心が病んでしまう、そういう人も多いのではないだろうか。
私たちは春の中で 遅れることに怯えていた
中島みゆきさんの「私たちは春の中で」。
もしも1人だったならば
もしも孤独だったならば
もしも虚ろだったならば
もしも自由だったならば
(こんな風に苦しまずに済んだのに)、そんな言葉が後に続いて聞こえる気がします。
そうではないから、そうなれないから、なりたくはないから、人は苦しむ。
でももしそうであることができたとして、私達は幸福なのだろうか。
京極夏彦さんの『魍魎の匣』や『嗤う伊右衛門』のあのラストシーン。「人」であることをやめて、「幸福」になった人達。ずっと終わることも巡ることもない永遠の春の中で生きる人達。
だからどうというわけではないし、答えなんて出ないのだけれど。
私たちは春の中で 失くさないものまで失くしかけている
「私たちは春の中で」が主題歌の『大いなる完』は田中角栄元首相をモデルにした映画だそうですが(私は未見)、この写真は大磯にある吉田茂元首相の邸宅です。GWに地元の魅力再発見ということで行ってきました。同じ県内でも江の島や鎌倉は大混雑だったようですが、大磯はガラガラでした
近代の大磯は軍医・松本順によって海水浴場が開かれ、政財界や華族、文士など様々な人々が集う別荘地として発展してきました。
吉田と大磯とのつながりも明治までさかのぼります。茂の養父であった健三が、明治17年(1884)大磯町の西小磯に土地を購入し、別荘を構えたのがはじまりです。健三亡きあと、吉田家唯一の継子であった茂は健三の財産を受け継ぎました。
吉田は養父が築いた莫大な財産を外交官時代に使い果たしたといわれていますが、それでもこの大磯の邸宅は手放すことがありませんでした。
総理大臣時代、激務だった吉田の気分転換は、週末を大磯で過ごすことだったといいます。吉田自身が言うように、大磯の開かれた海、明るさ、暖かさは、戦後日本のかじ取りという大きな使命を担った吉田を癒しました。
昭和20年(1945)頃より、吉田茂は大磯を本宅として暮らすようになりました。
昭和29年(1954)内閣総理大臣を辞任し大磯に隠棲したのちも、吉田のもとには政財界の要人を筆頭に様々な人々が訪れました。吉田邸を訪れる人が絶えないために「大磯詣(もうで)」という言葉ができたほどです。
また、吉田は自身の邸宅を海外の賓客を迎えるための迎賓館として改築し、世界各国からの賓客を多く受け入れました。
(公式サイトより)
母屋は2009年に火事で焼け2017年に再建されたものですが、サンルーム(写真右奥)は焼失を免れたためオリジナルだそうです。
「金の間」(賓客のための応接室)からの眺め。
右を向けば雪を頂く富士が見え(写真右奥の雪山が富士山。少し雲がかかっていますが。)、
左を向けばキラキラと光る相模湾。
吉田茂はこの部屋から見える富士山を大層気に入っていて、毎日のように眺めていたそうです。
そりゃあこんな眺望の部屋が自分の家にあったら最高だよねえ。
でも一緒に行った友人はこういう家は好みじゃないそうで、住むなら同じ大磯にある質素な島崎藤村邸の方がいいそうです(笑)。とはいえ藤村も当時のサラリーマンの約30年分の給料の値段であの家を買ったそうですが。
上の写真に写っている礎石部分は、再建されていない部分(全体の3分の2が再建されているそうです)。
ダイヤルのない首相官邸直通の黒電話が置かれたプライベートの書斎(掘り炬燵の和室)や、大磯の船大工が作ったという舟形の風呂、広い庭園には吉田茂が飼っていたワンコ達のお墓などもあり、何気に見所は多いです。
吉田茂は1945年頃から20年以上この家を本宅として暮らし、1967年にここで亡くなりました。その寝室も見学できます。
死去前日の10月19日に「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である。
(wikipedia「吉田茂」)
邸内では、ただいまこんな↑パネル展が開催中。このデレデレな表情
吉田茂は大のワンコ好きだったそうで、周囲からはワンマン宰相ならぬワンワン宰相と呼ばれていたとか。
展示では、自作の「ワンちゃんのアルバム」(←本当にそういう名前。可愛いつき)などを見ることができます。
サンフランシスコ講和会議の際にはケアーン・テリアという珍しい犬種のつがいを連れ帰り、つけた名前は「サン」(♂)と「フラン」(♀)。二匹の間に生まれた仔は「シスコ」。他に「ブランデー」、「ウィスキー」、「シェリー」なんていう名前の仔も
吉田茂邸の近くには伊藤博文、大隈重信、西園寺公望、陸奥宗光、山縣有朋などの邸宅やその跡地が一ヶ所に集中して残っていて、「明治記念大磯邸園」として整備が進められています。
大磯は空気が開放的で時間がゆっくりと流れるとてもいい町なので、ご興味のある方はコロナが落ち着いた頃にぜひ
今回訪れた場所の中で唯一密だった(といってもこの程度ですが)のが、こちらのパン屋さん。大磯駅からすぐ近くにある、アメリカ人女性がオーナーの人気のパン屋さんです。
自分用に買って帰りましたが、良い意味で個性的な味で、とっても美味しかったです
※吉田茂と旧吉田茂邸について
※邸内各部屋のご案内
旧吉田茂邸 邸内紹介編
皆さま覚えていらっしゃいますでしょうか。
私が数年前のアムステルダム旅行でどえらい感動した、ニシンの塩漬け。
行ったのは6月上旬で漁解禁日にわずかに届かず新ニシンは食せなかったけれど、それでも人生で初めて食べる種類の味になんじゃこりゃあと衝撃を受けたニシンの塩漬け。
それまで私の中でニシンといえば昆布巻きとか、菜の花漬けとか、蕎麦にのってる身欠き鰊の甘露煮とか、ヘルシンキで出会った甘酸っぱい酢漬けでございました。嫌いではないけれど、独特のクセがあり、特に好きとも言えなかったこの魚
それがアムステルダムで塩漬けに出会ってから忘れられない味となり、これを食べるためにまたオランダに行こうかと本気で思ったほど
正確には私が感動したのは、ニシンの塩漬けそのものよりも、ニシンの塩漬けパン
屋台で売っているオニオンとピクルスとニシンの塩味だけのシンプルなサンドイッチ。これ以上足しても引いてもいけない完璧なバランスのあのサンドイッチ。
しかしこの「ニシンの塩漬け」、帰国してからあちこち探してみるも、どこにも売っていない。酢漬けならコストコやイケアで売っているけれど、あのパンは酢漬けではダメなの。絶対に塩漬けじゃないと。
なんとかもう一度食べられないものかのぅ・・・・
と思いながら数ヶ月がたったある日。
いつものように鎌倉を散歩していた私が立ち寄ったのは、鶴岡八幡宮の真ん前というThe観光地にある『山安』さん。小田原に本店がある干物屋さんです。それまでも何度か干物を買ったことがあったので、その日も何か買って帰ろうとふと冷凍ケースに目をやると、
こ、これは・・・!!!!
こんな地元で出会えるなんて
しかもお値段432円(税込)。アムステルダムで€3.50で食べたことを思うと、全然高くない。
もちろんお買い上げ~。
しかし問題はお味である。
本当にアレと同じ味なのだろうか・・・。
ドキドキしながら、ニシンをホットドック用のパン🌭に挟み、玉葱の微塵切りとピクルスをたっぷりのせて、いただきま~~~~す。
!!!!!
アムステルダムで食べたのとまったく同じ味
この再現度の高さにはビックリしました。
ポイントは、ニシンの尾近くの大きな骨だけは摘まんで取ること(小骨は食べられます)。玉葱の微塵切りとピクルスはたっっっぷり。他の野菜を足したり、塩胡椒したりしてはいけません。バターやオリーブオイルも不要。
そしてパンはこれで↓↓↓
高価なパンなど不要です。これで十分。ていうかこれでなきゃダメ。
食パンなど色々試しましたが、これが一番美味しかったです。バターの風味がニシンの塩気(といってもしょっぱくはなくほぼ刺身)と絶妙に合う。
ご興味をもたれた方は、鎌倉や小田原に行かれた際に是非
県外の方はコロナが落ち着いた頃か、オンラインショップもあるようです。
※脂のった塩漬けニシン オランダの夏は「ハーリング」(日経トラベル旅グルメ)
前回からの続きです。
改めて地図を眺めてみて、「飛行機って思っていた以上に北を飛んでいるのだな」と感じた私。
これまでどの国の上を飛んでいるかは意識しても、緯度までは意識していなかったんです。
そしてふと思ったのである。
私が今までに行った中で最も北の地点って、どのあたりなのだろう?
地上では間違いなくフェアバンクスですが、飛行機で通った上空を含めるとどうなのだろう?と。
ワタシ、北の方角に惹かれる人間なので、ちょっとワクワクしてきました(←北極にペンギンはいません)
以下は、google earthで作成した2011年12月の成田→ロンドンの飛行ルートです。
その中で最北の地点を確認すると、ちょうどそこにディクソンという名前の町があることがわかりました。
どんな町だろうとワクワクしながら、google mapで「ディクソン」と入れてみたところ。
出てきたのが、この画面↓
・・・・・・なんというか・・・・・予想を遥かに超えた最果ての地のような画像が出てきてしまった。。。
wikipediaによると、
ディクソンもしくはジクソン(ロシア語:Диксон)とは、ロシア連邦クラスノヤルスク地方の閉鎖都市である。
・・・・・・・・・「閉鎖都市」って・・・なに・・・?
閉鎖都市は、核兵器開発や化学兵器開発などといった国家秘密にかかわるような、特定の目的のための都市であり、その住民は、主として核兵器製造や化学兵器製造、あるいは何らかの軍事活動に従事している者やその家族である。通常、都市というのは出入りが自由であるが、閉鎖都市は多くがフェンスや壁など、出入りの障壁になるもので囲まれており、検問所や何らかのゲートのようなものが設置され、立ち入ることが厳しく制限されており、一般人は立ち入ることができない。立ち入ることができるのは、極めて限られた者だけである。
現在のロシア、現在のCIS諸国には多数の閉鎖都市がある。
(wikipedia「閉鎖都市」)
・・・なんだか生臭い話になってきてしまった。
ググってみると、南アフリカのメディアNews24の記事では"8 Cities in Russia you can't visit"(あなたが訪れることができないロシアの8つの都市)の一つとして紹介されていて、最後に次のように書かれてあります。
Today it is an isolated part of the world you can't go to nor would you likely want to unless complete, Arctic isolation is what you're looking for.
(今日ではそこは世界から孤立した、訪れることができない、また訪れたいとも思わないであろう場所である。あなたが完全な北極の孤独を求めているのでなければ。)
一方ロシアのメディアRussia Beyondは、"the edge of the Earth"(地球の果て)と呼ばれるこの町について、「10 facts about Russia’s northernmost settlement"」(ロシア最北の町に関する10の事実)という記事でこんな風に紹介しています。
1) A territory the size of Great Britain with a population of just 548(たった548人の人口に対して英国と同サイズの領地)
2) You need a special permit to enter(訪れるには特別な許可が必要)
3) You can only buy gas once a year(ガスを買えるのは年に1回だけ)
4) The winter lasts 9 months(冬は9ヶ月間続く)
5) There are no trees(木はない)
6) The police is there to keep you safe… from bears(警察はあなたを守るためにいる・・・熊から)
7) No one watches YouTube videos in Dikson(ディクソンでは誰もyoutubeを見ない)
8) There are no hospitals(病院はない)
9) It costs 100 million rubles ($1.2 mln) a year to run the settlement(町の運営には年に1憶ルーブルかかる)
10) It’s the former capital of the Arctic(かつての北極の首都である)
各詳細は記事にありますが、面白いですよ。
ところでこのRussia Beyondというメディア、『ロシアのもっとも辺鄙な場所での狂気の生活』とか『世界の終末みたいな場所TOP7』とか『ソ連史上最悪の産業・交通事故5選』とかいうタイトルの記事がわんさか出てくるので反ロシア系メディアかと思いきや、なんとロシア国営。欧米諸国からは「プロパガンダ的」という批判があるそうですが、政府系メディアなのでそれはそうだろうとは推察しますが、これがプロパガンダだとしたら、そのセンスはシュールというかなんというか、ものすごく独特。ニュータイプのプロパガンダなんだろうか・・・
また『プーチン大統領のタイガで過ごす休日(写真特集)』や『銀座にオープンしたロシア食品専門店 。「アレクサンドロフ」のスィロクも買える!』なんて呑気な記事があるかと思うと、『カラシニコフ製の新型アサルトライフル3選』というような物騒な記事が無邪気に唐突に現れたりする。ロシアは一体どこを目指しているのだろう・・・と困惑させられるが、それも含めてある意味とてもロシア的。狙っているのか天然なのか。ロシア・ビヨンドは欧米をターゲットにしているそうで、最大の読者は米国人だそうです。
そんなロシアのイメージ戦略について、こんな記事を見つけました。記事によると、ロシアは開かれたロシア、親しみやすいロシアのイメージを持ってもらおうと頑張っているようだが、欧米諸国のロシア嫌いは根強く、あまり功を奏していない、と。「そもそも、民主主義国家とは政治体制が異なるため、欧米の価値観に基づくパブリック・ディプロマシーとは相容れないことは、当然かもしれない。かといって、パブリック・ディプロマシーを諦め、政治宣伝やサイバー空間を利用した世論工作や、政治・軍事介入といった手段に出れば、民主主義国家は自国に対する直接の脅威だと認識し、決して野放しにできないだろう。ロシアはそのことを理解すべきである。あらゆる「脅威」がはびこり、イメージをめぐる国家間の対立が激化する今日の国際社会だからこそ、真の意味でソフトパワーに関連したパブリック・ディプロマシーに価値が見出されることに期待される。」とのこと。
話を戻して、ロシア・ビヨンドはディクソン推しのようで、サイト内検索をするとこの町に関する記事が沢山出てきます。以下は抜粋。
タイミル半島のまさに端にあるこの村は、北極の砂漠と呼ばれている。永久凍土、永遠の冬、永遠の風の王国がここにある。雪は9月から降り、5月まで続く!ディクソンでは、極夜は11月10、11日に始まり、2月の初めまで続く。
(ロシア・ビヨンド「ロシアで最も長い極夜はどこか」)
ディクソンはロシア最北の村。クラスノヤルスク地方に属し、カラ海に面している。ソ連時代はロシア最大の港があり、「雪極の都」と呼ばれていた。夏はエニセイ川から船でディクソンまで行くこともできる。
ここの気候はノリリスクよりも厳しい。極夜の時期は真っ暗で、9月から氷点下になり、雪は6月までとけない。時に、雪解けはもう少し遅くなる。通常、5月にスキー大会が実施される。
「黒吹雪」もある。風速40メートルの強風の吹雪は大嵐に変わる。地元住民によると、大嵐の時には犬や海岸にたくさんある空の燃料のドラム缶が空中に飛ぶという。
ディクソンはとても美しい。北極の端に立ち、カラ海のエネルギーを感じながら、シロイルカ、セイウチ、オーロラを見ることができる。
(ロシア・ビヨンド「ロシア北部の極寒の街5選」)
— There are no cinemas or mobile Internet, buses, coffee shops, supermarkets, or outdoor advertising. Every single person here has seen polar night and the green iridescence of the Northern Lights, knows what to do if they encounter a polar bear or how to react to a storm warning, and anticipates Arctic poppies and a scheduled flight. This is Dikson, the northernmost settlement of Russia.
Dikson is habitually called ‘the edge of the world’: it is located in the north of Krasnoyarsk Krai, in the Yenisei Gulf on the Kara Sea, the outskirts of the Arctic Ocean. The distance between Dikson and the nearest big cities, Dudinka and Norilsk, is 500 kilometers of uncivilized tundra. Access to the settlement is restricted, and you can get there only with a special pass, and only on an old AN-26 plane, which flies from Alykel Airport once a week, if there is no blizzard or fog. For the locals, everything that is not Dikson is the ‘mainland’. The ‘mainland’ has Siberia, wild taiga, roads, the usual change of day and night. ‘On the edge of the world’ there are stilt houses, “Have you seen the Arctic Fox chase the dog in the yard?”, wild tundra, open to all the winds, and endless ice, the Arctic.
(Russia Beyond "On the Edge of the Snow: Life in the Northernmost Settlement in Russia")
ロシア・ビヨンド以外では、これらの記事が町の写真が多いです↓。独特な雰囲気の美しい写真が見られますよ。
※On the Edge of the Snow: Life in the Northernmost Settlement in Russia(BIRD IN FLIGHT)
※Dikson - Russia's Arctic "capital"(The Barents Observer)
※白く凍てつく、からっぽの辺境地で(swissinfo.ch)
ディクソンの町は西のディクソン島と東の本土の二ヶ所から成っていて、写真に出てくる教科書が置かれたままの廃校などはディクソン島のもののようです。この廃墟のような風景が、この町の一種の魅力となっているのでしょう。
以下、再びwikipediaより。
ディクソン島はカラ海のエニセイ湾の北東部、北極海に面した湾口にある岩がちな島である。本土から1.5 km、北極点から飛行機で2時間ほどの距離にある。
ディクソン島の気候はツンドラ気候であり、木本類は育たず、1年の内9ヶ月以上が雪に覆われる。最も暖かい月は8月で平均5.5℃である。0℃を上回る気温は平均的には6月下旬から9月下旬まで観測される。・・・
島の北東部にはディクソンの町の西半分が立地する。急激な人口減少により2010年に島は閉村され、今ではほとんど無人と化しているが、島には空港があり、週に1度飛行機が発着する。ディクソン島とディクソン本土の2つの集落は1.5km離れており、夏には1日2便の船が往復する。冬にはアイスロードの上を車で往来する。春と秋には、2つの集落はヘリコプターによってしか行き来できなくなる。・・・
戦後、ソ連の開発戦略の下でディクソンは北極圏の主要な交通ハブとなり、軍事基地が置かれ、数々の学術調査が行われた。最盛期であった1985年~1991年ごろにはディクソンの人口は5,000人を数えたが、ソビエト連邦の崩壊後、経済的需要が低下するにしたがって急速に人口が流出し、2019年現在では500人前後にまで減少している。・・・島側の集落は2010年に本土側に移転されてインフラ設備は停止しており、現在では空港と水文気象観測所が稼働しているのみである。
(wikipedia「ディクソン島」)
ところで英語版wikipediaの「Dikson island」の記事には、次のような一文があるのです。
Dikson island was one of the transfer destinations for 1949 march deportation from Latvia.
(ディクソン島は、1949年3月のラトビアからの強制移住の移住先の一つだった。)
「1949年3月のラトビアからの強制移住」とは?
調べました。
Operation Priboi was the code name for the Soviet mass deportation from the Baltic states on 25–28 March 1949. More than 90,000 Estonians, Latvians and Lithuanians, labeled as "enemies of the people", were deported to forced settlements in inhospitable areas of the Soviet Union. Over 70% of the deportees were women and children under the age of 16.
プリボイ作戦は、1949年3月25〜28日に行われたバルト三国からソビエトへの大量強制移住のコードネームである。「人民の敵」と名付けられた9万人以上のエストニア人、ラトビア人、リトアニア人が、ソビエト連邦の住みにくい地域の強制入植地に強制移住させられた。被移送者の70%以上は、女性と16歳未満の子供だった。
(wikipedia "Operation Priboi")
※なぜスターリンは多数の民族を強制移住させたのか(ロシア・ビヨンド)
ソヴィエト時代にこんな出来事があったこと、恥ずかしながら今まで知りませんでした。
写真にある強制移住に使われた列車は、以前写真で見た祖父が満州からシベリアへ運ばれた貨車と同じだな…。
これらのスターリンによる強制移住は、現在でもクリミア問題などに影を落としているそうです。
さて、そんな町の歴史や閉鎖都市という性質に似合わず、ディクソン市のマークはとっても可愛らしいのです↓
かつて「北極の首都」と呼ばれ、シロクマが頻繁に出没するという町の特徴がよく出ていますね。
ディクソンの緯度は、北緯73度。
へぇ、バロー(北緯71度)よりも高いのか。バローは北極海に面したアメリカ合衆国最北端の町で、いつか行きたいと思っている町なんです。フェアバンクスの空港で私が乗ったシアトル行きの飛行機がちょうどバロー行きと同じ搭乗口で、乗客の殆どがエスキモーの方達でした。
というわけで、世界一寒い村オイミャコンへはパッケージツアーで行くことができますが、一般人が閉鎖都市ディクソンへ行くことは現在のところ不可能のようです。おそらく北極点へ行く方が遥かに容易です(「海外旅行が初めてのお客様でも安心 添乗員同行 北極への船旅」)。
こういう町の上空を飛行機で通っていたとは、やっぱり海外旅行は面白いね。
ちなみにディクソン港は、ソ連の国家をあげての「北極海航路」開拓の主要な拠点でした。
船がアジアからヨーロッパへ行く場合、一般的な航路はスエズ運河を通る「南回り航路」ですが、北極海沿岸を通って移動する「北極海航路」は、南回り航路に比べて航行距離が30~40%ほど短く、時間と燃料を大幅に節約でき、海賊に遭うリスクも低いため、夢の航路なのだそうです。しかしそれを阻んでいたのは、北極の分厚い”氷”でした。ソ連は軍事的な重要性から、北極海に面した国土の北側に多くの軍需産業を配置し、原子力砕氷船により北極海航路を切り拓いてきましたが、やがてソ連が崩壊し、北極海航路も本格的な実用に至ることのないまま衰退しました。
ですが近年、地球温暖化に伴い北極の氷が急速に溶け始めていることから、「北極海航路」の存在が再び注目を集めています。ロシアは2019年、ディクソン港を外国船に開くことを決定しました。ディクソンは温暖化の影響が最も顕著な町の一つだそうです。北極海航路は経済的な観点からは夢の航路といえますが、その実現が地球温暖化の裏返しであることを考えると、単純に喜んでいい話ではありません。また、北極の脆弱な自然環境への影響も強く懸念されています。
※北極海航路とは?南回り航路との違いや今後の課題について(POLEWARDS)
※商用利用が始まった北極海航路(マネクリ)
※ソ連が北極圏で成し遂げようとした壮大なプロジェクト(ロシア・ビヨンド)
更に、こんな記事も。『氷が解ける北極圏、新たな覇権争いの場に』(ナショナル・ジオグラフィック)。
「各国政府と企業が虎視眈々と狙っているのは、金、ダイヤモンド、レアメタル(希少金属)などの鉱物、石油、天然ガス、さらには漁業資源など、膨大な価値のある未開発の資源と、海上輸送コストの大幅削減が見込める新航路だ。」
北極の重要性は、北極海航路だけでなく、氷の下に眠る豊富な天然資源にもあるんですね。減少する一方だったロシアの閉鎖都市が近年再び増え始めているそうだけど、こういうことも関係しているのかな。日本の一室で私が呑気に生活している間にも、世界は色々動いているんですね…。
※ロシアが目指す「エネルギー大国」の野望を、極寒のシベリアに見た:その本気度を物語る16枚の写真(wired)
なお今回のブログ記事につけたタイトル『北の果てで見る夢』は、ナショナル・ジオグラフィック日本版の特集からとりました。
「ロシアの極北地方には、長い極夜に育まれ、凍りついて時間が止まったかのような昔ながらの暮らしと伝説が息づいている。」
ロシアの最果ての地に敢えて暮らす人々の特集です。"生活の豊かさ”ってなんだろう、と改めて考えさせられる記事でした。
最後に、トリビアを二つご紹介。
世界最北端の町はどこ?
ノルウェーのロングイェールビーンという人口2000人超の町だそうです(北緯78度)。
北緯約80度という位置のため、一年の大部分が白夜か極夜になる。白夜は4月20日から8月23日まで、暗期(Mørketiden, 太陽が昇らない、いわゆる極夜)は10月26日から2月15日までであり、このうち11月11日から1月30日までは薄明にもならないためずっと夜が続く(ノルウェー語ではこちらをpolarnatt「極夜」と呼ぶ)。暗期には晴れていれば頻繁にオーロラを観測できる。
(wikipedia)
ロングイェールビーンの位置は、冒頭のgoogle earthの画像にピンで示しました。北極点までの距離は1200kmとのことなので、東京から長崎くらいですね。観光にも力を入れているそうなので、割と容易に行くことができるようです。ネットにも日本人の旅行記が多くありますよ。
ちなみに世界最南端の町はアルゼンチンのウスアイアで、南極点までの距離は1000kmとのこと(人が住む地球最北端と最南端の町へ!アルゼンチンとノルウェーの旅)。
「北極」と「南極」の違い
オーロラが北極と南極で同時に発生するということ、初めて知りました!
私がアラスカでオーロラを見ていたのと全く同じ時間に、地球の反対側でもオーロラが発生していたということか。私達が宇宙の法則の中にあるということを改めて感じますね。
ちなみにオーロラは極地に近いほど見やすいというわけではなく、オーロラベルト(北半球の場合は北緯65度付近)と呼ばれるドーナツ状の地域で観測されます。フェアバンクスは北緯64度なのでちょうどオーロラベルトにあたり、街中でもはっきりとしたオーロラを長時間見ることができました。郊外の暗い森に囲まれて見たオーロラも神秘的で素敵でしたが、人間達が普通に生活している街中で見たオーロラもとても印象に残っています。なお英語ではauroraではなくnorthern lightsという言い方が一般的です。
先日妄想旅行の記事をアップしましたが、その中でメインで使ったポーランド航空(ワルシャワ行き)の写真は6月の旅行のもの、ヴァージン・アトランティック航空(ロンドン行き)の写真は12月の旅行のものでした。
上の写真は、記事でも載せた、成田→ロンドン線の成田を出発してから3時間半後のロシア上空の写真です。2011年12月12日撮影。この後すぐに窓の外は暗くなり、夜が明けたのは北欧を過ぎた頃でした。
記事を書きながら、ふと不思議に思ったんですよね。
成田を出たのは昼の12:00で、西に向かって太陽を追いかけて飛んでいたはずなのに、どうして途中で夜になったのだろう?と。
ヨーロッパ線には何度も乗っているのに、恥ずかしながら、これまで深く考えたことがなく・・・
で、理解いたしました。
12月のフライトだからだ
たとえ12月でも緯線に沿って真西に飛んでいたらずっと昼間だったはずですが、飛行機はできるだけ最短距離をとって北西に向かって飛ぶので(大圏航路)、ロンドンへの飛行ルートの3分の1は北極圏になります。
これは6月にワルシャワに行った際のフライトインフォメーションの画面ですが、6月は夏至の季節なので、北極圏が白夜で、南極圏が極夜になっています。
12月はちょうどこの真逆になるので、北極圏は極夜だったんですね。
※トリビア
北半球の「夏至」の日は、南半球では「冬至」になるのか?
→No。天文学の定義では、「春分」の地球と太陽の位置関係を基準にして、公転の結果、地球から見た太陽の位置が90度進んだ瞬間を「夏至」(それを含む日を「夏至日」)というため、真冬の南極でも、天文学的には「冬至」ではなく「夏至」なのだそうです。
(国立極地研究所)
改めて2011年12月のロンドン行きの飛行ルートを当時の写真をもとに確認してみたところ、おおよそ以下の青線のようになりました。グレーの線は北極線(北緯66度)で、それより以北が北極圏です。
©aflo.com
冒頭に載せた写真は成田を離陸してから3時間半後、東京時間15:40のもの。この少し後にヤクーツクという都市(地図の★印)の付近を通過しています。ヤクーツクと東京は同じタイムゾーンで(つまりこの辺りまではほぼ真北に飛んでいたことになる)、12月中旬のヤクーツクの日没時刻は15:00頃なので、夕方の写真と合致しますね。
ロシア連邦の中ではさほど北に位置しているようには見えないヤクーツクですが、緯度はサンクトペテルブルグやヘルシンキよりも高く、アンカレッジとデナリの間くらい(北緯62度)。都市名をgoogle mapに入力してみると、こんな画面が出ました↓
「永久凍土研究所」なんていうものがありますね
以下は、wikipediaの説明。
ヤクーツクはロシア連邦に属するサハ共和国の首都。レナ川に面する河港を持つ。人口は約32万人。
冬の気温は世界の都市の中で最も低い。盆地である為、冬の寒さが非常に厳しく、1月の平均気温は-40.9℃で厳寒期には最低気温が-50℃以下になることがある。一方で、夏には緯度にもかかわらず比較的高温となり、7月を中心に30℃以上にもなることがあり、寒暖の差がきわめて大きい典型的な大陸性気候である(夏季は、昼の暑さと比べて朝晩は相当冷え込むので日較差も大きい)。
・・・都市と呼べるまでに拡大するのは、1880年代から1890年代にかけて金やその他金属の鉱床が発見されてからである。これらの鉱山にはヨシフ・スターリンの時代、グラグ(強制収容所)が作られて多くの政治犯や戦争捕虜が送り込まれ、開発がすすめられた。グラグの急速な増設と強制労働者たちによるシベリアの急速な開発は、ヤクーツクを大きな街にした。
2008年には、「永久凍土の王国」という観光施設が郊外に開設された。
へ~~~
何気なく飛行機で飛んでいた雲の下には、こんな街があったのだなあ。
「永久凍土の王国」という観光施設が気になるっ!とググったら、普通にイマドキなテーマパークだった
そして私の祖父はイルクーツクの付近の収容所を転々としたそうですが、戦争捕虜は本当にシベリア全土に散らばっていたのだな…。
ちなみに北半球の”寒極”(最も低い気温が観測された地点)はオイミャコン(地図の★印)とベルホヤンスク(★印)の二つで、ヤクーツクと同じサハ共和国内にあります。意外なことにオイミャコンは北極圏内ではないんですね。
オイミャコンってどんな場所?と気になり、調べてみました。
共同通信「世界一寒い村に行ってみた 氷点下59度、オイミャコン」によると、
「世界一寒い村」とされるロシア極東サハ共和国・オイミャコンを1月中旬に訪れた。・・・村には、1926年に観測した氷点下71・2度を記念するモニュメントが立つ。ただこの記録は非公式で、33年の氷点下67・7度が公認の最低気温。リリア・スタルコワ副村長は「今年は暖冬かと心配したが、やっと寒くなった。この気候は村の誇り」と胸を張った。
村の主産業は畜産で、寒さに強いヤクート馬や牛を育てている。午前7時半、ビノクロワ・エブドキアさん(57)が牛舎を開けると、毛むくじゃらの牛がのそりと出てきて干し草をはんだ。10分で手先が動かなくなりシャッターが押せなくなった記者と違い、牛は食後に水を飲み周囲をぶらぶら。寒くないのだろうか。「別の品種を育てたこともあるが寒さに耐えられなかった」そうだ。
馬は放し飼いで、生後7カ月までに食肉となり、レバーは村の食生活で不足しがちな貴重なビタミン源となる。生肉をかみしめると、けもの臭さが広がった。馬刺しとは違いねっとりとした脂が舌に残る。好き嫌いが分かれるかもしれない。
村の売店を訪れた。野菜や果物などは月に数回、ヤクーツクから運ばれる。板チョコは100ルーブル(約170円)でウラジオストクより2~3割高いが、村人は「昔と比べて買える物が増えて便利」と口をそろえる。
またTravel Book「世界一寒い村!ロシアオイミャコンの暮らしとは?」によると、
オイミャコンの村には、標高740mの永久凍土に、人口約500人(大人300人と子供200人)が住んでいます。年平均気温が-15.5℃のオイミャコンでは、水が凍結してしまうため、水道はなく、かつては住民が馬や牛にタンクを引かせて川まで水を汲みに行っていましたが、現在は、給水車により各家庭に給水が行われています。
オイミャコンの人々は、主に、魚や馬肉、乳製品を食べて暮らしています。果物不足は野イチゴで補っています。近くの川で魚が釣れますが、気温が低い時は、釣りあげた魚は、外気に触れたそばから凍りつくということもしばしば。一気に冷凍保存されて、鮮度をキープできます。凍った魚をそのままスライスして、塩をかけたら「ストロガリーナ」という郷土料理のできあがりです。
オイミャコンは、ギネスにも認定された、世界一寒い村ということで、関心を持つ人も多いようです。しかし、オイミャコンは、観光地ではないためホテルはありません。唯一、宿泊できるのは、元教師で郷土史研究家のタマーラ・ワシリエワさんのゲストハウス。タマーラさんは自宅の一部を改装して、旅人達を迎え入れ、エクスカーションなどを提供、この村の窓口的存在です。
へ~~~
世界は知らないことだらけ。
なお南半球の寒極はボストーク基地で-89.2℃が観測されていますが、定住地ではないので、「世界一寒い村」というと北半球の寒極になるとのこと。
オイミャコンやベルホヤンスクに行ってみたいけど個人で行くのはハードルが高いという方は、日本からのパッケージツアーもあるようですよ
続きます。
世界一寒い村・オイミャコンへ
「世界最高気温」と「世界最低気温」
【ANA's Sky Kitchen】おうちで旅気分!!ANA国際線エコノミークラス機内食 メインデイッシュ まんぷく3種詰め合わせ 12個入り
ANA国際線エコノミークラスで実際にお客様にご提供実績のあるお食事です。機内では、客室乗務員がお食事の時間に合わせてギャレー(厨房)のスチームオーブンで加熱調理し、お客様にお届けしています。
鶏もも唐揚げ油淋風ソース ×【4個】
シーフードドリア ×【4個】
ビーフハンバーグステーキ ×【4個】
機内食を製造・販売する株式会社ANAケータリングサービスがお届けいたします。
というものを、頼んでみたのです。
ニュースで見たときは「わざわざ地上で機内食を食べたいとは思わないなあ・・・」と思ったのだけど、次はいつ海外に行けるかわからない家族に食べさせてあげたかったのと、一度くらい試してみるのも楽しいかも、と。
お値段も手頃で、クール便の送料込みで9,000円(税込)。
早速今日のお昼にハンバーグステーキを食べてみたのですが、これは、、、予想よりずっと美味しい
機内食と同じサイズなので大きくはないですが、ランチのメインとしては十分。近所のテイクアウトも同じくらいの値段でそれほど美味しくないことを思えば、これはアリ
私は海外に行く時は海外の航空会社を使う方が良くも悪くも異文化を体験できて好きなのですが、単純にサービス面だけでいうとANAがベストだと思っています。コロナ禍で大変だと思いますが、踏ん張ってほしいですね。
さて。
ランチの写真をただ載せるだけでは芸がないので、妄想旅行風にしてみました。現地空港に到着するまでの片道ヴァーチャルフライトをお楽しみください 写真は複数のフライトをミックスさせてますが、記載のないものはポーランド航空です。
地元駅5:43発の成田エクスプレスでしゅっぱ~つ
車内は空いていて快適
成田空港第一ターミナルの出発ロビーに着きました。
まずは電車の事故や遅延なく到着できて一安心。
案内板でチェックインカウンターと搭乗ゲートを確認し、チェックイン。
現金も少し両替しておきます。
出国審査を済ませ、免税店を覗いたりしながら、搭乗口へ。
定刻どおり離陸することを、再度確認
しかしこの出発便の過密状態はすごいですよね
ヨーロッパ方面だけでも、チューリッヒ便とワルシャワ便が5分違いだし、その後も10:50ブリュッセル、11:00デュッセルドルフ、11:10コペンハーゲンと続く。第二ターミナルや関空からも同時刻に沢山飛んでるはずだし、空の上は飛行機の網の目状態なのだろうな。
搭乗口に着きました。
自分が乗る飛行機をパチリ
ワタクシ、飛行機が大大大の苦手なので、このときはいつも「頼んだよ。君に全てがかかってるんだ。お願いだから無事に私を現地まで運んでおくれよ」と心の中で飛行機に話しかけています(マジです)。
離陸
このときの私はいつも時計を睨みつけて、”魔の11分”(=最も墜落事故の多いといわれる離陸後3分と着陸前8分)をはかっています(マジです)。時間が過ぎるのが永遠のように長く感じられます。正確には、飛行機がメイン滑走路に入ってエンジン音が変わった瞬間から、手に汗握って神に祈っています。
ちなみに乱気流のときは『天空の城ラピュタ』のシータの「人は土から離れては生きられないのよ!」という声が聞こえてきて、飛行機に乗ってしまったことを毎回後悔します(マジです)。
※ヴァージン・アトランティック航空
水平飛行に入ってシートベルト着用サインが消えると、ようやく少しだけホッとします。
離陸前からぐーすか寝ていられる人達が羨ましいかぎりです。
ヨーロッパまでの飛行時間は約12時間。先は長い。
まずは、飲み物とスナックのサービス。
※ヴァージン・アトランティック航空
離陸後1時間半くらいすると、美味しそうな匂いが漂ってきて、食事のサービスが始まります。
私にとって機内食は、長時間のフライトの中の一番の楽しみです。
じゃ~~~~~ん
お待たせいたしました。ようやく「おうち機内食」の登場です
ANAの「おうち機内食」をメインディッシュに、国際線エコノミークラスの機内食の雰囲気を再現してみました。
食器とか色々ツメが甘いですが、これが限界。紫のカトラリーは、ヴァージン・アトランティック航空を意識しました。
ちなみに右上にあるのは「きゅうりとホヤの酢の物」です。機内食では絶対に出ないメニューです。前夜にホヤを解凍しちゃったので(冷凍ホヤは銀座にある岩手のアンテナショップで購入しました。新鮮で美味しくてオススメです)
グラスの中身はスプリッツァー、と書くとお洒落だけど、白ワインの炭酸水割りです
蓋を取ってもソースがぐちゃっとなっておらず、美しいまま さすがはANA。
お肉も、ソースも、ライスも、付け合わせのお野菜も、パーフェクトな美味しさでした
数年前に日本から撤退してしまったヴァージンエアは食事はイマイチだったけど、軽食は充実していた記憶が。これは食後に配られたフルーツのパンナコッタみたいなデザート。
※ヴァージン・アトランティック航空
成田を出てから、3時間半。
ロシア上空。
次第に夜の帳が下りはじめます。
※ヴァージン・アトランティック航空
ワタクシは飛行機が苦手なのと、あの常に聞こえているゴォォォォォという音で、フライト中に熟睡できることはまずありません。
※ニュージーランド航空
乱気流のたびにドキッとしてしまうので、映画を観ていてもストーリーが頭に入ってこない
※ニュージーランド航空
なので基本的にディスプレイはフライトインフォメーションの画面にしておいて(好きなんです)、ウォークマンで音楽を聴いたり、旅行先のガイドブックを読んだりしながら、ダラダラと過ごします。
成田を出てから、5時間半。
ようやく半分近くが過ぎました。
まだまだロシアの上ですね。
この照明を落とした時間に静かに配られるお水が好きです。「water? water?」っていうアレ。
CAさんのところに行ってドリンクと夜食をもらうのも、私のマスト
飛行機は大嫌いだけど、この時間は好きです。
夜中に誰かが起きている気配を感じる安心感、みたいな。わかりますかね?
そして真っ暗な中でゴォォォォという音を聞いていると、「いま地球の上を移動してるんだなあ」と感じます。
ヴァージン・アトランティック航空の軽食。
成田を出てから、10時間弱。
窓からそっと外を見てみると、一面の雪山。道路や町(というか村?)の灯りも少し見えます。『雪の女王』の物語みたいな景色。
こんなところにも人が住んでいるのだなあ。
地図を確認すると、北欧の上空あたりでした(これはロンドン行きの写真なので、ワルシャワ行きよりも北を飛んでいます)。
※ヴァージン・アトランティック航空
夜が明けました。
窓のシェードって、到着の結構間際(2時間前くらい?)まで上がりませんよね。いつも、もうすぐ着いちゃうのにと心配になります。なんとなくCAさん達が動き始めて、いい匂いがしてきて、「朝食の準備をしてるんだなあ」と感じて、それからようやくシェードが上がる。
ここから着陸までの時間は、食事をして、入国カードの記入もして、と意外と慌ただしいんですよね。
※ヴァージン・アトランティック航空
成田からこんなに飛んできました。
※フィンランド航空
朝ごはんです
飛行機の中では体を動かしてないしお腹は空いていないはずなんだけど、ペロリと平らげてしまう。
※ブリティッシュ・エアウェイズ
着陸態勢に入りました。
高度が下がって、、、窓の外になにやら山が見えてきました。
※ノースウエスト航空
皆さま、12時間のフライト、お疲れさまでした!
無事、ポートランド国際空港に到着しました~~~~~
ってポーランドじゃなくポートランドかい
ええ、妄想旅行なので、成田からヨーロッパを目指してユーラシア大陸を飛んで、北米大陸に到着です(さっきの山はポートランド富士)
こんな風に心置きなく機内食を楽しめるフライトが戻ってくるのは、いつになるのかな。
でもこの記事を書きながら、久しぶりに国際線に乗った気分になれて楽しかったです
【番外編】
これは今はなきノースウエスト航空のシアトル→成田線の機内食の写真なんですが、これまで経験したエコノミーの機内食の中で、このときの機内食が一番美味しかったんです。往路のポートランド行きではスモークサーモンが出て、復路ではシュリンプカクテルが出て。このとき現地(アラスカ)滞在中に、ノースウエスト航空が倒産したんですよ。往路は破産法申請前、復路は破産法申請後。なのにこのときの機内食が最も美味しかったとは、この頃のノースウエストはヤケになっていたのだろうか(笑)
アラスカ航空は国内線でしたが、早朝便だったせいか朝ごはんが出ました(フェアバンクス→シアトルの4時間弱)。
温かいサンドイッチとコーヒー。海外だと、サンドイッチが温かいだけで嬉しくなりますよね
先週末、1年以上ぶりに会った友人と近場のハイキングコースに行ってきました。
昨年はコロナ禍で一度も会えず。
このハイキングも昨年秋から計画していて、延ばし延ばしになっていたものです。
メジャーなコースではないのでハイカーも少なく(途中で江戸時代の旧道も歩けるなかなか楽しいコースなんですが)、久しぶりの山歩きにストレスが解消されました。やっぱり自然からもらえるパワーは大きいですね
今回は、休憩を入れて、片道2時間半くらい
途中で視界が開けて水仙が沢山咲いている一画にベンチがあったので、ここでランチをとることに
トンビが来ない場所であることをチェック。
友人とのソーシャルディスタンスもちゃんと取ったよ
突然ですが、高村薫さんの小説『レディ・ジョーカー』の中で、合田さんと加納さんが多摩川の土手でワインボトルをらっぱ飲みして花見をする場面があるんですが。
私と友人のブームは、ハイキングでワイン、なのです
街のお洒落なテラス席でのワインも素敵ですが、自然の中でのワインは「ああ大人って最高」と心底感じることができますよ。
注意点は、ハイキングコースであるということ。
つまり、どんなに低い山だとしても、頂上付近でボトルを一本空けて解放感いっぱいの昼食を楽しんだ後は、下山しなければならないのです
しかしそれも面白いんですよ、ほろ酔い気分でフワフワしながらの下山。今回はマスクをしていたので少々息苦しかったけども。
そんなわけで日帰りハイキングコースでのワイン花見、最高に気持ちよくてめちゃオススメなんですが、大人の皆さまはどうぞ自己責任でお願いいたします。転んで骨折しても責任はとれませぬ。お酒に弱い人は絶対にやってはいけません。ワインのアルコール度を侮ってはいけない。
また大人数での”宴会”も、コロナ禍でなくても、もちろんですよ。あくまでピクニックの一環、です。
クロッカスやスミレも咲いていました。春ですねー。
コースは続きますが、私達は途中で逸れて、自然公園&動物園へ。
菜の花が満開でした(このページの最初の写真も自然公園です)。遠くに見えるのは東京湾。
満開のミモザの花と、カンガルー。
ところでミモザとアカシアが同じものだってご存じでした?
ミモザは「黄色い房状の花を咲かせるマメ科アカシア属の総称」で、ミモザという名前の植物はないのだそうです。
私は最近知って驚きました
オカピ。
オカピがいる動物園は、日本で3か所だけとのこと。これも先ほど知りました。
オカピが日本に初上陸したのは私が大学生の時で、ニュースになったので私も見に行ったのですが、あれからン十年。今も変わらず希少動物なのだな。
オカピが発見されたのは、1901年のこと。野生の個体数が少なく、また警戒心が強いため人間の前に滅多に姿を現さないことから、その生態は謎に包まれています。生息地のコンゴ民主共和国では内戦や環境破壊が進み、オカピの生息数は減少の一途を辿っています。
(ANA Travel & Life)
そうなのか・・・。
ジャイアントパンダ、コビトカバと並んで世界三大珍獣と言われているそうです。
ちなみにシマウマに似ていますが、キリン科です。
昨年4月に誕生して11月に出袋した、コアラの赤ちゃん。可愛い
後ろのグレーのモコモコは、赤ちゃんの体ではなくお母さんコアラです。
帰宅したら、ベランダの鉢植えにムスカリが
昔植えていたときの球根が土の中に残っているらしく、存在さえ忘れて放ってあるのに、毎年必ず春になると土の中から出てきて花を咲かせます。
たくましいですね。私も見習わないと。
在宅勤務をしていると体がなまってしまうので、できるだけ意識的に近場を散歩するようにしています
写真は、先日訪れた横浜市保土ヶ谷区にある英連邦戦死者墓地の敷地内に咲いていた梅の花。
梅の花はふくよかで色っぽい香りがいいですよね。
桜と同じくらい、梅や桃の花も好きです。
少しずつ春が近づいてきているのだなあ。
横浜の外国人墓地というと中区山手にある墓地が観光地として有名ですが、この保土ヶ谷にある英連邦戦死者墓地もとても大規模なもので、かつてはエリザベス女王やダイアナ妃やチャールズ皇太子が、最近では2015年にウィリアム王子が訪問しています。
今はどうかわかりませんが、私の頃(ン十年前)は小学校(中学だったかな?)の遠足で訪れました。
また私は子供の頃にこの近所に住んでいたので、墓地の隣にある児童遊園地はお散歩コースでした。
先日訪れた週末の午後はほとんど人がおらずひっそりとしていましたが、敷地内は昔訪れたときと変わらず綺麗に整備されていました。
ゲートを入ってすぐにある記帳所。その奥が、墓地の入口です。
イギリス兵の墓地
「ここは日本で唯一の英連邦の墓地です。第二次世界大戦中に亡くなった2000名以上の連合国軍要員が、ここに埋葬または慰霊されています。大部分はオーストラリア、カナダ、統一インド、ニュージーランドおよび英国から英連邦軍に所属していましたが、80名は米国とオランダ軍からでした。
第二次世界大戦(1939年-1945年)中、何万人もの連合軍兵士と女性が日本軍の捕虜(POW)になりました。35,000人以上の捕虜が、労働力として日本に連行され、鉱山や造船から農業や軍需品製造まで、さまざまな産業で働かされました。福岡、広島、大阪、名古屋、東京、仙台、函館の七か所には、主要な捕虜収容所が設けられました。収容所の状態は苛酷だったので、何千人もの人々が捕虜の身のまま死亡しました。
1945年の日本の降伏後、この墓地は第38オーストラリア戦争墓地ユニットによって始められました。収容所で亡くなった人々の遺骨は埋葬のためここに運ばれました。」
(案内板より)
イギリス兵の墓地の片隅(写真左奥)には、火葬された335名の英連邦の兵士、オランダ兵およびアメリカ兵を追悼する納骨堂があります。
オーストラリア兵の墓地。
この先には、ニュージーランドとカナダ兵の墓地もありました。
インド兵の墓地
第二次世界大戦後の墓地
個人のお墓の写真を撮るのは少しためらいましたが、例えばこちらは1945年2月に25歳で亡くなった兵士の墓。
TO THE WORLD, HE IS ONE OF MANY
TO US, HE IS ALL THE WORLD
(世界にとって彼は大勢のうちの一人にすぎないが、私達にとって彼は世界のすべてである)
とあります。
20代で亡くなっている方が多く、母親や父親が言葉を寄せているものも多くあります。
日本兵もそうですが、若い人達が故郷から遠く離れた異国で亡くなるということは、辛いことですね…。
墓地に隣接する横浜市こども植物園にいたニャンコ
※「英連邦横浜戦死者墓地」はどうして横浜につくられた?(はまれぽ.com)