恋人が いるかと聞かれ 「はい いります」
「課長いる?」 返ったこたえは 「いりません!」
腰かけの つもりが今じゃ 命がけ
みんな、がんばろうね(笑)!
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「多分、私は今生まれたばかりで、何もかも怖いのだと思います。こうして生きていることが。一人の人間のことを昼も夜も考えていることが。人間は、最後は独りだということが……」
(高村薫『レディ・ジョーカー』より)
以下ネタバレご注意。
警察という一組織に対する合田の憤りや諦め、そしてそれが次第に自分へと向かい、遂には生きること自体に興味を失ってゆく過程は、嫌でも共感してしまい、辛いです。
だから、このラストは本当に嬉しかった。
半田を刺した時点では、加納は合田の中でその死にストップをかけるほどの存在ではなかった。でも、合田が最後の最後に呟いたのは、加納の名前で。その意味は、きっととても大きい。そして奇跡的に助かった合田に生きる意味を与えたのは、間違いなく加納の存在なのです。
いままで「人を人とも思わなかった」合田が、部下の結婚を心から嬉しく感じたり、人の言葉一つ一つに困惑したり、そんな自分に戸惑いながらも喜びを感じるようになった。 それって、とても素敵だ。きっとそれが「生きる」ということなんだよね。
一人でいると、とても気が楽です。
人といると疲れるし、傷ついたり不愉快な思いをしたり嫌なことも沢山あって、寂しさと引き換えにしてもその面倒な繋がりを断ってしまいたいと思うことは実はしょっちゅうなのだけれど。
この本を読むと思うのです。
私達にはどうしても、他者の存在をもってしか解決できないものがあるのだと。
自分ひとりでは決して得ることのできないもの。
そしてそれは、人間が生きていくために絶対的に必要なものなのです、きっと。
加納さんがいてくれて本当によかったね、合田さん。そして加納さんも。
ちなみに『レディ・ジョーカー』を映画化するなら主題歌はぜひ中島みゆきさんの「たかが愛」で!
・・・・・・と、思っていたんだけどなぁ。。めちゃくちゃ合ってると思いません?私の中ではこの本とこの歌はもうワンセットですよ。
合田は深呼吸をし、最近あまり見ることもなかった夜空を仰いだ。星のない曇天だったが、人間一名を包み込む天空の大きさにかわりはなく、この空の下で人間は独りだ、自分の声を聞くのも独りなら、己の理性も感情も、種々の価値観も独りだという、いつもの単純な思いをもった。
(下巻p221)
自分の腹のどこかに収めなければならないのは、一人の人間の生身を包んだ炎であり、想像もつかない苦痛であり、その苦痛を超える人間の意思であり、その意思を受け止めるすべのない組織の現実であり、その組織に嫌悪を覚えつつ、辞職する決断をしかねている自分自身だった。
(下巻p353)
こうして合田さんは着々と壊れてゆく…。
それにしても、高村さんの書く日本語にはほんとほれぼれします。。
組織という論理がどんなものか、長年漠然と感じてきたことではあったが、そのほんとうの正体は、善良な魂には推し量れないような、何ものかであるに違いなかった。組織とはきっと、それを構成する人間の欲望の集合体で、憤懣や羨望や嫉妬や恨みをうちに抱えた非合理こそ、その本質であるに違いなかった。
(高村薫『レディ・ジョーカー』より)
組織が個人の夢や優れた技術の集合体として存在するとき、それは個人ではなしえないより大きな夢を実現させる力となるのでしょう。
けれど私は、それでもやはり組織というものの「本質」は、この文章が示しているようなものであろうと感じずにはいられません。
個人ではなく集合体であるがゆえに、それは時に個人ではもちえない残虐性をもちます。善良な一個人を容赦なく裏切り切り捨てることは、個人レベルでは躊躇されても、組織という責任の所在が曖昧な集合体にはいとも簡単なことなのです。
そんな「組織」に対して私が薄気味悪さそして嫌悪感をはじめて感じたのは、やはり社会へ出てからでした。小学校~大学までの私は学校という組織にただ通っていただけで、本当の意味で「属して」いたわけではなかったのだということを思い知ったのです。
というわけで、大好きなんです、『レディ・ジョーカー』。
初めて読んだのはかなり昔ですが、組織の中で働いてゆかざるをえない身としては、色々な意味で元気づけられる本です。そして高村さんの文章がたまらなく格好いい。
とても好きな本なので、この話題つづけさせてくださいね。
6434人の犠牲者を出した阪神大震災から、今日で11年。
最高裁で今日死刑が確定した宮崎勤被告による連続幼女殺害事件から、今年で17年。
間違っても短い年月とはいえないし、その間私にも色々なことが確かにあったのに、すごくあっという間だったように感じる自分に、愕然としてしまった。
そうか…。あれから、11年、17年もたったんだ……。
人生ってきっと、こんな風にあっという間に過ぎてしまうんだろうな…。
11年後。17年後。
私は一体、どうしているだろう。
なんだか無性に寂しくなってしまった…。よくないなぁ、未来をこんな風にしか想像できないなんて。
今日仕事で色々あって、ちょっと参っているせいかな…。
こういう日も、ある。
最後に。
亡くなった方々のご冥福を心からお祈りするとともに、
愛する人を亡くされた方々の心の痛みが少しでも和らいでゆきますように、祈っています。
「ぼくの人生、これでよかったのかな・・・」
「もちろんよ。だって自分で決めた道じゃない!」
(TVドラマ 『すいか』 より)
大好きだったテレビドラマより。
人生って、結局最後はここに行き着くのではないだろうか。
私の人生は私だけのものなのに、なぜか時々それを忘れそうになる。
遠慮する必要のないことまで、遠慮してしまう自分がいる。
ちゃんと見つめなければ。
私の人生の責任をとれるのは、私だけなのだ。
家族でも、友達でも、世間でも、ましてやマスコミでもない。
誰かのせいにできるようなものではない。
後から後悔しても、遅いのだから。
たとえどんな結果になったとしても、自分が納得できる生き方をしよう。
あの坂を登れば、海が見える
中学校(かな?)の教科書に載っていたお話の一節。
海を見てみたい少年は、「あの坂を登れば、海が見える」と信じて山を登る。けれどそこに海はなく、また山があるだけ。いくつも山を越えるうちに、体も疲れ果ててしまった。けれど少年は決して戻ろうとはせず、「あの坂を登れば、海が見える」と信じてまた山を登る、というようなお話だった、、、はず(気が遠くなるほど昔すぎて、記憶が曖昧)。
最近になってもう一度読んでみたくなり、ネットで調べてみた。私と同じで「今でもこの話を時々思い出す」という人は沢山いたけれど、作者等に関する情報は残念ながら皆無。かくいう私も、当時は「なんか良い話だなぁ」という程度で、さほど心動かされはしなかった。当時の私には、色々な意味で教育的すぎるように感じたのだ。
けれどあれから20年近くたった今、人生って確かにそんな感じだよなぁ、と思ってしまったりするのである。
実は海なんてどこにもないのかもしれない。あるいは、そこへ辿りつく前に倒れてしまうかもしれない。けれど一つだけ確かなことは、登ることをやめてしまったら決して海を見ることはない、ということ。
そして人生の幸せって、いつか彼が海を目にするその時と同じくらいに、少年の“今”の中にあるのではないだろうか。「絶対に海を見てみせる」という“希望”を胸に前へと歩いている、その今に。若い彼はそうとは気付いていないけれど。
ちなみにラストも思い出せないのですよ。少年は結局海を見られたのかなぁ。
今思うと、教科書って意外と侮れないんですよね。大好きな谷川俊太郎さんとの出会いも、小学校の教科書でした。
※2015.08.07追記
わかりました。
杉みき子さんの「あの坂を登れば」というお話で、偕成社の「小さな町の風景」(佐藤 忠良・杉 みき子)という本に掲載されているそうです。
インターネットってすごい・・・