風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

鳳凰祭四月大歌舞伎 @歌舞伎座(4月13日)

2014-04-13 23:52:56 | 歌舞伎






歌舞伎座タワー5階の庭園も新緑真っ盛り

って、なんでまた歌舞伎座にいるのかと申しますと、また行っちゃったからです^^;
昨夜チケット松竹を覗いたら昼の部にとっても良席(6列中央)が戻っておりまして。。。思わずポチッと。。。
まさか私が仁左さまも玉さまも吉右衛門さんも菊五郎さんも出ていない舞台に18000円を払う日がくるとは、人生わからないものです。
でも行ってよかった!
やっぱり一階席はいいな~。オペラグラス越しでなく役者さんの表情が見られるこの至福!

ついでに昼の部が終わって外に出たら一條大蔵譚の幕見がまだ座れたので、こちらも再見してまいりました。


【歌舞伎座新開場一周年記念 壽春鳳凰祭(いわうはるこびきのにぎわい)】

新悟くんのブログで「ことぶきはるのほうおうさい」でないことを知った^^;
ちょうど一年前の『鶴寿千歳』を思い出しながら、楽しく鑑賞。
平安衣装のデザインと色彩は、眺めているだけでワクワクしちゃいます(源氏物語ファンなもので)。
時蔵さん、美しかった~~~~~ 華やかで色っぽくてウットリです。髪のピンクのリボンが何気にカワユ。
時蔵さん、錦之助さん、梅枝、萬太郎が並んでいる姿は、まぎれもなく母・叔父・姉・弟でございます。父・叔父・兄・弟だなんて認めません。
扇雀さん&橋之助さんは、今年正月の『乗合船~』と同じく、やっぱり表情が固いのはなぜなのか。。
我當さんの帝、ご立派でした~。進之介さんの従者との踊りに、ほっこりいたしました。お二人ともいい表情^^


【鎌倉三代記】

こちらも一年前の『盛綱陣屋』を思い出しながら、楽しく鑑賞。

梅玉さんの三浦之助。
この役の梅玉さん、好き!冷静、爽やか、ちょっとイジワル、品がある~。

魁春さんの時姫。
許婚に断りなくお母さんの看病に押しかけたり、気を失った許婚に戸惑いなく口移しで薬を飲ませたり(初Hもまだなのに・・)、歌舞伎の赤姫様は本当に肉食系女子ですね~。田舎家に真っ赤な振袖が場違いなこと、笑。
冗談はさておき、梅玉さん&魁春さんのお二人、演技にあざとさがなく、深みと品と情もあって、観ていて気持ちがよかったです。美しかった。

幸四郎さんの高綱。
感情たっぷりめな泣きの演技があまり“智将”に見えませんでしたが、ニンなお役だったようには思いました(たとえば吉右衛門さんや菊五郎さんよりはずっとこの役に合っているような気がする)。
でも後半の長台詞は、ごめんなさい、キツかった。。。。幸四郎さん、決して嫌いではないのだけどなぁ。演技が苦手なときが多いだけで。。

ところで三浦之助の扇子の表裏が太陽と月で、高綱(一條大蔵譚の鬼次郎も)は北斗七星で、お洒落だわ~と観ていたのですが、これって軍扇なのですね。かっこいい。

義太夫狂言はやっぱり重厚で楽しいですね。
ラストで遠くから戦の音が聞こえてくるところとか、悲しい場面なのだけれどワクワクしました。この演目、好きです。


【壽靱猿】

先日につづき、堪能させていただきました。
三津五郎さんの踊り、やっぱりいいなあ!
一階席で観られてよかった。
でもやっぱり今回も笑いながら泣きそうになってしまった。
だって三津五郎さん、「せめて今度は人間に~」のところとか、情感たっっっぷりなんだもん。
今回は三津五郎さんの踊りを見ているみっくんじゃなくて、みっくんや小猿や又五郎さんの踊りを楽しそうに見てる三津五郎さんにウルウルしてしまった(もしかしたら心の中でめっちゃダメ出ししてたりするのかもですけど、笑)。
みっくん、先週よりさらに余裕が出ていたように見えました。
又五郎さんの踊りも、やっぱりいいな~。
この演目を観るのは初めてですが、私的に理想的な配役です。
そしてお芝居よりも実は舞踊こそ一階席で観るべきだと感じた次第。
今日観られて幸せでした。
三津五郎さん、八月、待ってますよ~~~~~!


【曽根崎心中】

藤十郎さんのお初ちゃんは近くで見てもやっぱりカワユイ! すっごいカワユイ! めちゃくちゃカワユイ! 翫雀さんも「父のお初はかわいい」ってインタビューで言ってた!
藤十郎さんのお初は歌舞伎の奇跡
以上!

と、まとめたいところですが――。
舞台破壊しまくりチャリ掛け大向こうに、本気で殺意を覚えましたyo
今日の客席は私語もビニール音も殆どなく、珍しいくらい気持ちよく観ることができたのですが、大向うがヒドかった・・・・・。というかちゃんとした人もいたけど、ヒドいのが一人or若干名いた。しかも一人は一階席前方。
靭猿でも「待ってました!」「大和屋!」の掛け過ぎにいくらなんでもヲイヲイと思ったのに(しかも待ってました!は超フライング…)、曽根崎心中においては私の鑑賞史上最悪の大向こうをやってくださいましたよ(大物浦のラストの弁慶への「大きい!」も殺意をおぼえたけど)。
以下、本日の大向こうワースト3。

床几でお初ちゃん&徳兵衛がじゃらじゃらする場面:「かわいい!」(たしかにモノスゴク可愛かったが・・・)
曽根崎の森で徳兵衛がお初に短刀を向けると:「ひといきに!」とかそんなの(・・・・・・・・)
最後の幕切れのポーズで:「まだまだできます!(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

客席から失笑とも何ともつかない笑いが漏れる曽根崎心中の幕切れって、一体ナニ・・・・・?
たった一つだけ良かったと思えることは、これほどのチャリにも顔色を全く変えず視線さえ揺れなかった藤十郎さん&翫雀さんのプロ根性を目の前で見られたことでございます。まぁ籐十郎さんほどになると大抵のことには動じないでしょうけれど(てか幕が下りた後に笑っていそうだ)。しかし客はたまったもんじゃないですわ。。
あ、そうそう翫雀さん、鴈治郎襲名おめでとうございます(*^_^*)


~4/14追記~
上記のチャリについて、扇乃丞さんのFBでこんな記述が(無断転載sorry)↓

昨日は師匠のお父様二代目鴈治郎さんの祥月命日でした。そして中日の本日、翫雀さんが四代目中村 鴈治郎襲名の記者発表をなさいますo(*⌒―⌒*)o
 昨日は『曽根崎心中』の道行の幕切れにちょっとしたハプニングがありました!というのは徳兵衛が悩んだ末に脇差しを振り上げて刃先をお初の喉元に突き付けた時に、客席から『やめんといてや!』と声が掛かり、緞帳がまさに降りようとするときにまた『まだまだやれまっせ!』と第二声が掛かりました(^○^)
 本来ならしっとりとした浄瑠璃の音色のみで静かに幕が降りる時に、思わず掛かった大向こうに歌舞伎座のお客さまも、クスッと計らず微笑んでしまうような笑い声が起こりました(⌒‐⌒)
 一瞬、此処は道頓堀の中座か京都の南座かなという雰囲気で、師匠も"嬉しいねぇ"と言いながら楽屋へ小走りに戻って行かれました(^○^)


掛け声は関西弁ではなかった気もするけれど(そして客席の笑いは明らかに失笑も含んでいたと思うけれど)、やはり流石だ藤十郎さん^^;
しかし万が一にもヤツが調子に乗ることがないよう切に祈ります。役者は許しても、客が許しませんよ。チャリは演目を選べって話です(怒)  


【一條大蔵譚】

私が吉右衛門さんの前半の阿呆を単純に笑って観られない理由は、頭の足りない人間をリアルに演じすぎているからかな?と前回は思ったのだけれど、ちがった!その逆で、吉右衛門さんの阿呆、全然阿呆に見えないんだ!
一見阿呆でも目が理性的なので、阿呆に見えないのです。ある意味、リアルな大蔵卿と言えるのかもですが。
吉右衛門さんが狙ってやっているのか、結果的にそうなっているのかは、今回もわからなかったなぁ。どっちなのだろう。
いずれにしてもやっぱり、前半の大蔵卿にそういうリアルさは私は求めていないのでございます。。。理由は先日書いたとおりで。

でもクスリと笑っちゃうところは何カ所もあるし、後半は今日もとってもよかった。大蔵卿の複雑さの表現が絶妙で、なのに小さく纏まることなく大きい。
播磨屋!


4月7日の感想

中村魁春インタビュー:鎌倉三代記

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鳳凰祭四月大歌舞伎 @歌舞伎座(4月7日)

2014-04-08 23:02:38 | 歌舞伎






歌舞伎座が開場して一年がたったんですねぇ。今年も新緑が綺麗^^
早いような、遅いような、でもやっぱり早いような。
杮落しも終わったので、今月からはよりマイペースにのんびりと歌舞伎を楽しんでいけたらいいなと思っています。

ということで今月は、幕見を3本行ってまいりました。
計3600円でこんなに素晴らしいものを見せていただいちゃっていいのかと申し訳なくなるくらい、どれも大変充実した内容でした。


【壽靱猿(ことぶきうつぼざる)】

待ってましたよ~~~~~三津五郎さん!
三津五郎さんの踊り、ほんとうに好き。見ていて幸せな気分になる。
でも今回は、小猿の可愛さと又五郎さんのお茶目さにも救われました。でないとたぶん泣いてた。。
だってみっくんがとても真剣な表情で三津五郎さんの踊りを見つめているんだもの。。。
みっくんの初舞台がこの小猿だったのだなぁと思うと、三津五郎さんが小猿に見せる愛情がみっくんへのそれと重なって……もう駄目……泣。みっくんと三津五郎さんの色んなことがあった親子関係を思うとなおさら……泣。
しかしみっくん、男前に成長しましたねぇ。化粧のせいもあるのかもですが、ものすごくカッコよかった。声も多少細いところはあるけど、今回はとてもいい声でした。

本当に三津五郎さんの踊りが大好きなので、どうかどうかじっくりしっかりと治療なさってください。
そして次回八月納涼歌舞伎でお会いするのを楽しみにしています!!


【曽根崎心中】

お初の最後は心中です。「お初が"うれしい"気持ちになったら幕を閉めてと言っています。一緒に死ねるからうれしいというより、また次の人生が始まる、新しく生きるからうれしい。"愛の永遠"じゃないかと思ってやっています」。お初のその情熱、愛の強さが、演じる藤十郎を最後に、「清々しい、晴れ晴れとした気持ち」にさせるのでしょう。・・・お客様にお初をご覧いただくのではなく、「お初の幸せの生涯をやりますので、お客様もその時間をどうぞご一緒に」と呼びかけた藤十郎。「ぜひ、歌舞伎座にお越しください」と、笑顔で会見を締めくくりました。
歌舞伎美人~藤十郎が語る『曽根崎心中』のお初

先月に引き続き、、、、山城屋!!ブラボーです!!
忠兵衛のときもそうだったけど、扇雀さんよりも翫雀さんよりもお若いなんて…すごすぎる藤十郎さん。。。19歳に見えるよ!
しかも若いだけじゃない。もんのすごく可愛らしい!これぞ恋する乙女の初々しさ(先月の扇雀さんになかったモノ)!
最初の場面で徳兵衛を見つけて徳さま~~~!と駆け寄っていくところ、徳兵衛から嫁をとる話が出ていると聞かされたときの「えっ」っていう驚き方、でも断ったと聞いて両手をパチパチ叩いて喜ぶ無邪気さ、徳兵衛と九平次が借金の件で言い争っているところを遠くから見ているときの心配そうな様子。歩き方も、階段の上り下りも、本当の少女のよう。
そこに作られた不自然さは全くなく。
台詞のあるときもないときも舞台の上にいるのはお初で。全身、手足の先までお初以外の何者でもなくて。
曽根崎の森で、徳兵衛が刃物を手にゆっくりと近づいてくるのを待つところ。全てを受け入れるようなあの表情。聖母のような慈悲深さと、徳兵衛に対する愛情と、少女のような透明感と、しなやかな強さと、微かな哀しみと。
こんなものが観られてしまうのですから、歌舞伎って観つづけるものですねぇ。

翫雀さんの徳兵衛も、よかった。
特に九平次に騙されたと気付いた後、衆人に囲まれたときの演技、素晴らしかったです。
ただお初→徳兵衛ほどには、徳兵衛→お初への愛情は感じられなかった気もしましたが(あくまでお初ちゃん比)。
そういえばここの部分の演出(スポットライト的な照明とか、周囲を群衆が囲む様子とか)がとても現代的に感じられたのですが、チラシによるとこの作品は近松の原作をもとに宇野信夫が脚色したのだとか。
なるほど、そういう風に見るとラストの森も、暁のライティングなどどこか現代的な美しさですね。

橋之助さんの九平次。
もう少し良い人っぽくなってしまうのかなと思いきや、嫌な奴を好演されていました。

東蔵さんの惣兵衛も、左團次さんの久右衛門も、安心の出来。
ただ左團次さん、ときどき声が出にくそうでしたが、お体悪いってことないですよね。大丈夫かなぁ(俳優祭の噂ではお元気そうですが・・・^^;)

靱猿とともに、千穐楽までにもう一回観られたらいいなぁ。たぶん行けないと思うけど。。


【一條大蔵譚】

ああ、いいですねぇ。とってもいい。
大蔵卿は私の中では仁左衛門さんがダントツでそれに変わりはないのだけれど、演じる人で、あるいは型の違いでこんなに雰囲気が変わるものなのですねぇ!
松嶋屋型は最後は阿呆に戻りませんが、今回は戻って幕。大蔵卿の生き様の切なさが一層際立ちます。
とはいえこのお話、元々は大蔵卿の「つくり阿呆⇔素」を単純に楽しむ演目だったのではなかろうか、とも思うわけです。そういう他愛ない演目が、次第に演者によって後半のシリアス要素が強調されていったのではないかな、と。つまり前半は理屈抜きに役者のつくり阿呆を楽しめばよく、それ以上でも以下でもないように私は思うのです。
そういう意味では、私はやっぱり仁左衛門さんの大蔵卿がこれ以上なく観ていて楽しかった。無類の可愛さ、京の公家らしい品のよさ、心底ほんわぁ~~~~な空気。
そんな春の夢のような仁左衛門さんの阿呆に比べると、吉右衛門さんの阿呆は“ちょっと頭の足りない人間”の感じがどうもリアルで、その姿を単純に“笑って楽しむ”気分にはなりきれなかったのが正直なところ(吉右衛門さんが狙ってそうしたのか、結果的にそうなってしまったのかはわかりませぬが)。。。 ※これについては後日の4月13日の感想も参照くださいまし。
おそらく吉右衛門さんの大蔵卿は、前半は後半への伏線といった感じなのだと思います。

で、後半。
これはもうThe吉右衛門さん!大きくて重厚なお芝居をたっぷりと見せてくださいました。
台詞まわしの心地よさもさることながら、とくに一番最後に再び阿呆に戻るところ、ぞくっとするほど良かった。
生首を両手で転がしながらの笑い顔の、笑い声の、見事なこと。華やかな大きさと、その裏に感じられる悲しみ。
こんな複雑な演技、どうやったらできるんだろう。しかもそれが4階席まで届くなんて、すごいよ吉右衛門さん!
生首はボールで遊ぶようにポンポンはせず、幕の閉じ際に一回だけポーンとされていました。これもよかった。いくらつくり阿呆でも、何度も生首ポンポンは人間的にどうかと思いますもの。
しかし吉右衛門さん、昨年秋から“熱演”が続くなぁ(身替座禅は別として。あれはあれがいいのです、笑)。お孫さんができたからかな?
あまり無理されず、お体を大事にしていただきたいです。

梅玉さんの鬼次郎。
梅玉さんっていつも思いますが、歩き方が綺麗ですねぇ。
のんびり貴公子然とした梅玉さんも大好物だけど、キリっと系の梅玉さんもとても好き。
魁春さんとご兄弟で並んでいる姿は、観ていて楽しいです。弓で叩いていても、とても優しそう(ってダメじゃん、笑。いいの、好きだから!)

魁春さんの常盤御前。
常盤の悲劇的な運命と気品、凛とした芯の強さを兼ね備えていて、とてもよかったと思います。

芝雀さんのお京。
ちょっと存在感が薄めでしたが、こういうキリっと系の芝雀さんは好み。

歌女之丞さんの鳴瀬
凛として情のある鳴瀬でした。よかった。

以下、仁左衛門さんとの違いの覚書。
前半: 女子の脂云々のエロ台詞がある。靴を落とさない。傘持ちさんにお辞儀をしない。鬼次郎に気付いたときに、客席から顔を扇で完全に隠す。
後半: ぶっかえりの衣装が白地に花柄(仁左衛門さんはオレンジと白の格子柄)。勘解由の首を斬った後、首は転がってこないで、陰で布に包む。最後は阿呆に戻って生首で遊ぶ(松嶋屋型は阿呆に戻らずに、カッコよく爽やかに終了。これは仁左衛門さんに合っていました)
他にもあると思いますが、なにせ両方とも一回しか観ていないので。。
ちなみに昨年仁左衛門さんが演じられたのは純粋な松嶋屋型ではなく「松嶋屋型+播磨屋型」とのことです。


こちらは本日楽座で購入した先月の舞台写真。


私のアルバムは98%が仁左さまと玉さまでして。
はじめて買った吉右衛門さんと菊五郎さんの写真がコレて・・・^^; かなりお気に入りです、笑。
そしてまさか私が藤十郎さんの写真を買う日がこようとは。それぐらいこの忠さんは衝撃的だったのであります。昨年10月の吉野山の静、先月の封印切の忠さん、今月のお初ちゃん。こういうタイプ(ってどんなタイプ?)の藤十郎さんが私は大好きでございます。



そして最後に。

仁左衛門さん、6月歌舞伎座復帰おめでとうございます

(福助さんも、早くお会いしたいですー・・・。昨年の松竹座の自分の感想を読んでいて、福助さんの舞台が無性に懐かしくなりました。。。)


4月13日の感想

藤十郎が語る『曽根崎心中』のお初
坂田藤十郎、一世一代の『曽根崎心中』お初役に挑む(ぴあ)
藤十郎「一世一代」のお初(東京新聞)
三津五郎 感謝の春 7カ月ぶり歌舞伎復帰(東京新聞)

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第22回 奉納 靖国神社 夜桜能 @新宿文化センター(4月3日) 

2014-04-04 23:03:31 | その他観劇、コンサートetc




昨夜は、夜桜能に行ってきました。といっても雨天のため会場は新宿文化センターに変更でございましたが・・・。名前から想像していたよりはきちんとした会場で、立派な桜が舞台左右に置かれていました。こちら↑は舞台右側の桜。
しかしこれほど観ていてストレスの溜まった公演は初めてでした。。。
ジャンパーを着た運営スタッフの人たち(バイトくん?)のマナーが酷すぎ。。。
後方のお席(五千円也)でしたが、お能の最中にパタパタと通常の足音で歩き回る、普通の大きさの声で話す、幾度も出入りしてその度に扉を思い切りバタンッと閉める・・・。
歌舞伎座のスタッフさん達がいかにマナーが宜しいかを痛感いたしました。

まぁそれはいいとして(よくないけど)。
今回改めて感じたのは、やっぱり能というのは屋外の芸能なのだなぁ、ということ。
そもそもお能を観たのは人生2度目で、1度目は昨年秋の鎌倉薪能。
そのときに強く感じたのが、自然が能舞台にいかに大きな効果をもたらすかということでした。
風や木々のざわめき、薪のはぜる音、それ自体が極上の音楽で。
同時に、ほんの時折聞こえる車のエンジン音など現代の人工音がいかに美しくない音であるかを実感させられました。
同じ人工音でも、鼓や笛は自然の音と対立しません。どころか、まるで自然の一部のように感じられました。鼓や笛と自然の音のアンサンブルの素晴らしかったこと――。
照明もまた同様で、絶えず色と姿を変える薪の炎の美しさ。対する、人工のライティングの風情のなさ。
私達は文明の発達とともに、自分たちが思っている以上に貴重なものを失ってしまったのだなぁ、と感じたものです。

今回は屋内会場でしたので、そういう自然からの効果が当然ながら一切ありませんでした。
防音壁による不自然な静けさと無粋な人工音(上の非常識スタッフの音ですよ)の中で、客は座席からじっと舞台を見つめる。
何かが違う違和感。
歌舞伎でこの違和感を殆ど覚えないのは、歌舞伎が元々芝居小屋で行われてきた屋内の芸能だからではないかと思います(出雲阿国まで遡れば別ですが)。
でも能は違う。能は自然とともにあることが大前提にある芸能なのだと思います。
花や木や風とともにある。それは能のアイデンティティといっても過言ではないように思うのです。

昨年の薪能で演じられた演目は『高砂』(シテは金春安明さん)でしたが、その地謡の中にこんな詞がありました。

有情(うじょう)非情のその声、みな歌に漏るることなし。草木土砂、風声水音まで、万物の籠もる心あり。春の林の東風に動き、秋の虫の北路に鳴くも、みな和歌の姿ならずや

自然の風を肌で感じ、木々や虫の奏でる声を聴き、薪の炎と月の光に照らされた舞台を観ながら、私は閑吟集の序文を思い出しました。

小歌の作りたる、独り人の物にあらざるや明らけし。風行き雨施すは、天地の小歌なり。流水の淙々たる、落葉の索々たる、万物の小歌なり

人と自然がこんな風に付き合うことが当たり前であった時代の感覚が、今も能の中には息づいているのではないでしょうか。だからそうではない人工的な環境で能を観ると、体が本能的に違和感を覚えてしまうのではないか、と。

前置きが長くなってしまいましたが、昨夜観た『二人静』は大変に美しい演目でした。
後シテは梅若玄祥さん。体格のいい方なので観る前は「ちゃんと二人の静に見えるのかしら…」と不安でしたが笑、見えました!すごい!
玄祥さん、お声が素晴らしいですね~。ちょっと独特で、この世にあらざるモノの凄みを感じました。

シテが橋掛かりで気配なく佇んでいるところ、二人の静が向かい合って立ち尽くすところ、ゾクっとするような空気感だった。そこだけがこの世ではないような、何か無限の静寂のような。
そして、静の面のなんと表情豊かなこと。笑っているようにも、泣いているようにも、怒っているようにも見える不思議な美しさ。私は能に関する知識は皆無ですが、能ってこの面の存在だけでも世界遺産になる理由は十分なのではないかしら。
うーん、つくづく満開の桜の下で観たかった。


★舞囃子 「安宅」  
 シテ 梅若紀彰
 笛 松田弘之  小鼓 大倉源次郎  大鼓 大倉慶乃助
 地頭 松山隆之 副地頭 谷本健吾
 地謡 川口晃平 土田英貴
★狂言 「蚊相撲」
 シテ 野村萬 アド 野村万蔵  アド 野村太一郎
★能   「二人静」   
 シテ 梅若玄祥  ツレ 角当直隆
 ワキ 宝生閑
 笛 松田弘之 小鼓 大倉源次郎 大鼓 大倉慶之助
 後見 梅若紀彰  山中迓晶 
 地頭 山崎正道  副地頭 小田切康陽
 地謡 谷本健吾  松山隆之   川口晃平  土田英貴

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夏目漱石 『虞美人草』

2014-04-02 23:33:05 | 



古い京をいやが上に寂びよと降る糠雨が、赤い腹を空に見せて衝いと行く乙鳥(つばくら)の背に応えるほど繁くなったとき、下京も上京もしめやかに濡れて、三十六峰の翠りの底に、音は友禅の紅を溶いて、菜の花に注ぐ流のみである。「御前(おまえ)川上、わしゃ川下で……」と芹を洗う門口に、眉をかくす手拭の重きを脱げば、「大文字」が見える。「松虫」も「鈴虫」も幾代の春を苔蒸して、鶯の鳴くべき藪に、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り毀たれた。綱が捥ぎとった腕の行末は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。

(夏目漱石 『虞美人草』)

漱石の職業作家としてのデビュー作にして偉大なる失敗作、『虞美人草』。
あまりにも装飾過多な文体に、力任せとしか言いようのないラストの収束。色々とメチャクチャ、笑。
そして吾輩な猫を未練なく殺してしまうように、ヒロインもさくっと殺してしまう漱石先生でありました。


「君は本当の母でないから僕が僻んでいると思っているんだろう。それならそれで好いさ」
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。理由(わけ)が分っているよ。そうして僕の方が母より善人だよ」

ここの甲野さんと宗近君の会話、好き^^
甲野さんの話し方が好き。
親友同士なのに「さん」付けで呼び合っているところも好き。


「こう云う危うい時に、生れつきを敲き直して置かないと、生涯不安で仕舞うよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」
 小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。(中略)僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存(げんそん)していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」

ラスト数ページで突如京極堂(キャラ的に榎さんか?)のような大活躍をみせた宗近君。
しかし小野さんは救えても、藤尾を救うことはできませんでした。てか救う気も大してなさそう^^;
最後は外交官になって倫敦へ。

漱石自身が後に“芸術的失敗”と呼び書棚から消してしまいたいとまで言った本作ですが、私は嫌いじゃないです。
というか漱石の作品で嫌いなものは一つもないのです。

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