僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。
(芥川龍之介『或阿呆の一生』より)
「ただぼんやりとした不安」を理由に35歳で服毒自殺した芥川龍之介。
これは死後にみつかった『或阿呆の一生』冒頭の、友人(久米正雄)へ宛てた文章の一節。
私は「死んでもいいかな……」と思うことは数えきれないくらいあるけれど、積極的に「自殺したい」と思ったことは実は一度もありません。
人生が楽しくて仕方がないわけではありません。でも、世の中には苦痛なものも沢山あるけれど、捨てたもんじゃない素敵なもの(家族、友人、本、音楽、映画、自然、歴史etc)も沢山存在することを今の私は知っているので、それらに二度と出会えなくなることがちょっと惜しいのです。「どうせ二度と戻ることのない世界だし、今急いで楽になることもないかな。生きたところであとせいぜい50年か長くて80年。大好きな桜や梅の花を見られるのもあと50回。そう思うと意外に少ない。それに案外明日交通事故であっさり死んじゃうかもしれない。そう遠くない将来必ずその時はやってくるのだから、そのときまで、この世界がどんなものか見てやるのも悪くないかもしれない。せっかく生まれてきたのだし」という風に思って、乗り越えてきました。そしてまだこうして生きています。
でも、こんな私が万が一自ら死を選ぶときがくるとしたら、その心境はたぶん次のような感じなんじゃないかな、と、思います。
「この世界のいいものも沢山見てきた。それについては本当に満足しているし、生きたことに後悔もしていない。でも、なんだか疲れた。死ぬほど耐え難いかと聞かれればそれほどでもないかもしれないけれど、この状態を乗り越えねばならないことがひどく面倒くさい。こんなに億劫なら、今死んで楽になるのもいいような気がする」。
そしてそんな時に私は「もっとも不幸な幸福」を感じるのではないかと思います。
こういう風に死を選ぶことが果たして本当に悪いことなのかどうか、間違ったことなのかどうか、正直いって私にはわからない。そもそも殺人に善し悪しはあっても、自殺の原因に善し悪しはあっても、自殺行為そのものに善し悪しなんてあるのか。それを決められる者がいるとしたら、それは本人だけなんじゃないだろうか。遺していく、私を愛してくれた人達に対してほんとうに申し訳ないとは思うけれど…。それに、「本当に本当に耐えられなくなったら、その時は死ねばいい」そう思えば生きることが少し楽になる。もし自殺という最後の選択肢が許されないならば、私のような人間にとってこの世界を生きることはどんなに辛いだろう。
死を思わない人間などいない。人間だからこそ死を思う。
「そもそも人間は明るくなければならないわけではないし、人生は楽しくなければならないわけでもない。もがき苦しみ死を思うのは全然おかしなことでもないし、それどころかそれが普通の人間の姿なんだ」という認識がもっとあたり前になれば、もう少し世の中生きやすくなって、かえって自殺者の数も減るのではないかと思うのですが、楽観的すぎますかねぇ。