君は隊商の車の轍を教えてくれます。市城の外にひろがっている美しい草原を教えてくれます。雪白の駒を駆って道に花を散らして行く可愛い子供の一隊を教えてくれます。耶輸陀羅姫が象に乗って通る道の人間の息、獣の息、汗の匂、被具の匂、踏躙られる葉や花の匂を教えてくれます。我々はそれを読んでいる内に実際に生きて動いている古代印度に接するのです。
…
第一に私はこの題材が正面から取扱われていることを嬉しく思いました。逆説的な奇矯な題材の捕え方は、うまく罠にはめられて喜ぶ読者には一時の快感を与えるでしょうが、芸術に尽きざる生の泉を求める我々には、神経だけを緊張させる活動写真と同じく、何の生も美しさも感じられないのです。提婆達多は仏陀との対照の故に、この危険の多い題材と思います。しかし君は逆説的な概念に陥らず、この対照の内に普遍人間的な永遠な問題を認めました。それは二千数百年来多くの人間がそこに認めたと同じものです。しかも君はその同じ見方から君自身の特異な、深い、提婆達多を描き出したのです。
(和辻哲郎 岩波文庫『提婆達多』解説より)
『銀の匙』って漱石の『坊っちゃん』に似てると思うのだけれど(坊っちゃんの方が温かみはあるが)、『提婆達多』は『こころ』に似てるなぁと思う。
提婆達多/先生のエゴとか、耶輸陀羅姫/奥さんの存在感の薄さとか(和辻哲郎は反対の印象のようだけど)、提婆達多/先生の悉達多/Kに対するそれって恋じゃね?レベルの執着とか、悉達多/Kがストイックで求道的な人間であるところとか(悉達多は仏陀になり、Kは道に挫折し自殺するが)。
まあ勘助は漱石の作品をほとんど読んでいないようなので(一応先生なのに^^;)、影響云々はないのだろうけれど。
悉達多やKや先生はもちろんですけど、提婆達多もつまるところすごく純粋で真面目ですよね。こういう純粋さは作者の反映なのか書かれた時代の反映なのか。今の時代を生きる私からみると眩しくさえ感じます。
そして毎度ながら勘助の「まるで自身が体験しているかのような」表現力は物凄いですね。壮絶なくらい。
「提婆達多」は幾多の欠点をもっているけれども私が魂をもって書いたものである。(『蜜蜂』)
提婆達多は最後、救われたのだろうか。
この作品の最後の一文を読むと、宗教というものについても考えさせられる。
少なくともキリスト教的には彼は絶対に救われませんよね。永遠に地獄、ですよねたぶん。仏教的には、どうなのだろう。
※追記
で、調べました、提婆達多のその後(wikiっただけだが)。
通説では「三逆罪を犯したため、生きながら無間地獄に落ちる」そうですが、法華経では成仏して天王如来になるそうです。この小説ではどちらとも書かれていないけれど(だからこそ心に余韻を残す終わり方となっている)、勘助にはこれとは別に『提婆達多』というタイトルの詩があって(S11.5.6)、そこでは「成仏して天王如来とよばれ遍く衆生を度す」とあります。救われる、あるいは、救われるべきである、というのが勘助の思いだったのでしょうか。