©大和和紀/講談社
先ほどヤフーで見つけたこちらの記事↓
「あさきゆめみし」雑誌黄金時代だから描けた光源氏の〝罪〟
「あさきゆめみし」に隠された…同業者も気づかなかったトリック
へ~~~~~と思うことがいっぱいで、とても良い記事でした。
受験生必読の書と名高いこの漫画ですが、私はなぜか社会人になってから読んだんです。
傑作ですよね。原作を超えてる!とも、いやあの原作があってこそ!とも思う。
私が初めて原作を全編読んだのは瀬戸内寂聴さん訳で、読みやすくはあったものの少々好みと違う表現もあったので、次に谷崎潤一郎訳を買ったのだけど、そのまま本棚の積読に
大和和紀さんというと私は『はいからさんが通る』のイメージが強いのだけど、素敵な漫画をいっぱい書いていらっしゃいますよね。
そして上記のトークを読んで、大和さんの漫画家としての素晴らしさを改めて感じました。
たられば:大和源氏(「あさきゆめみし」)では、女性がより自立的に描かれていて、そして自立しているからこそより悩みが深い、なるほど。
おかざき:女性にも感情はある、大和先生の中では普通のこととして描いているのかもしれませんけど。それが光源氏の行いをちょっとマイルドにしているのかもしれません。
なるほどなあ。
原作も少女漫画的なキラキラした雰囲気が後半になるにつれて仏教的な儚さを感じさせるようになるけれど、『あさきゆめみし』は「光源氏ってめっちゃ腹立つ男だけど、この人はこの人で色々な想いや哀しみを背負って生きてきたのだよな」という感覚をより強く感じるように思う。それは原作よりも光源氏の感情が細やかに描写されているからというよりも、彼を愛した女性達の自立した感情が細やかに描かれていることで彼の罪の印象が緩和され、その結果、原作にはない「あさきゆめみし」という言葉がより素直に私達の心に響くのかもしれない。
この「あさきゆめみし」という言葉は”いろは歌”の一節ですが、漫画では光源氏が亡くなって第一部が終了する場面で登場します。そこでの表記は「あさき夢みし」。
いろは歌の解釈としては「浅き夢見し」だと「儚い(浅はかな)夢を見ていた」という意味になるけれど、言語学的に正しいのは「浅き夢見じ」で、その場合は「浅はかな夢を見ることはすまい」という意味になるそうです。しかしこれに対しても、いやいや言語学的にも「浅き夢見し」で問題はないとする意見もあるそうで(言語学出版社フォーラム)。言葉も千年経つと、同じ日本人でもその真の意味が誰にも分からなくなってしまうものなんですね。
※追記:「浅き夢見じ」を無常偈に繋げて解釈すると「(暗闇を抜けて安らかな悟りの世界に至った今は)もう浅はかな夢を見ることはない」という意味になるそうです。漫画はこの解釈が近いようにも思うけれど、その場合は「あさき夢みじ」と否定形である必要があるのよね
私が源氏物語を楽しむ理由の一つは、自然描写。その美しさに興奮してしまう。そんな私にピッタリっぽい本を見つけました。
「平安の気象予報士 紫式部-『源氏物語』に隠された天気の科学」
今度図書館で借りてみよう。こうしてまた谷崎源氏が遠のいてゆく
あと源氏物語といえば、京都の宇治にある「源氏物語ミュージアム」はおすすめですよ 滋賀の石山寺も
★★★オマケ★★★
冒頭でご紹介したトークシリーズで、おかざき真里さんと高野山の飛鷹全法和尚が行ったトークセッションの中の「慈悲」についてのお話が興味深かったので、その一部を最後にご紹介。
おかざき:受け手はどういう気持ち、心持ちでいるべきというか……。私がなんとなく考えていたのは、「幸せとセットにしないことが大事かな」ということです。
たられば:慈悲を受けるときに?
おかざき:慈悲を受けるときに。「その慈悲を受けたら、自分が幸せになれる」と思わないようにしようということです。
たられば:おぉー。
おかざき:なんだか、「慈悲を受けられたら宝くじに当たる」という問題じゃないんだという話です。
たられば:すげぇ。話のギアが上がった(笑)。なるほど。
おかざき:それで医療で言えば病気が治る、病気が治らないという過程を教えてもらうことは、「治ったら幸せになる」とか、「治ったら金持ちになる」とか、「治ったらモテモテになる」という幸せとは切り離すべきなんじゃないかなと、最近ちょっと考えています。
たられば:わかりやすい。
おかざき:そういう「一般の人間は、こういうふうにすると慈悲を受けやすくなるよ」というものって、ありますかね?
たられば:すごい剛速球が来た感じですけど、飛鷹和尚、いかがですか?
おかざき:変な方向ですけど(笑)。
飛鷹全法氏(以下、飛鷹):そうですね、なんだか……(笑)。きちんとお答えができるかわからないですけど、その「慈悲」というのは、仏教においても非常に大事な言葉ですね。「悲」とは、もともとインドの言葉で「カルナー」と言って、他者の苦しみに対する共感を意味するのですが、それに「大」という字をつけて「大悲」(たいひ)と言う言い方をします。
弘法大師が密教の修行に進むきっかけになったと言われている、『大日経』というお経の中に、「三句の法門」という密教の修行者の一番の原点である3つの言葉があるんですね。「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟(くきょう)とす」という言葉です。
まず最初に、私たちの命が私たちの個体性を超えたものだという気づきがある。我々は自分の1つの身体を持っていて、生命を維持するためにご飯を食べて、けがをしたら自分の個体が治るように、まずは生物学的な「自分の身を守る」ということを第一義的に考える仕組みになっています。
だけど、自分のこの命が、個体を超えて先祖から代々つながれて、またこの次につながっていく、といった命そのものの大きな根源性に気づいて、その命から自分を超えた他者に対して、気持ちを向け直していく。そこにまず「菩提心」というものが宿るわけです。
そこから、命においてつながっている他者に「大悲」という「絶対的な共感」を持つことにつながる。この「大悲」の「大」というのは、「比較や相対ではない」というニュアンスです。
「慈悲が成立しない」とか、「こういう慈悲があればこういう効能があるだろう」というものはある種の相対的な関係性にあるわけですけれど、私たちが「仏」と呼ぶ存在の、本当の慈悲的なものは、相対的なものを超えて絶対性を帯びているわけですね。
「慈悲が成立するか成立しないか」ということは、もはや関係がない。ただひたすら自分および、自分を包摂するすべての生きとし生けるものに対する共感を「大悲」というふうに観念するわけです。その「大悲」をもとに、自分自身を磨いて修行を成就するための努力をしていくということで、「方便を究竟とす」ということになります。
これはある種の宗教性の目覚めから、自分を超えた命への気づき、さらに他者性への共感、そして自らが道に入っていくという、大きな普遍的なプロセスを描き出している3つの言葉なんじゃないかなと思うんですね。ですから、我々だけが受け手じゃないんですね。
たられば:あー、なるほど。
飛鷹:実は我々も与える存在であるし……。これは弘法大師も言っていますけど、すべての生きとし生けるものが、自分の「四恩」なんです。
「四恩」というのは、自分を支えたり生かす存在のことを言いますけれども、そういった存在があればこそ自分は生かされている。だから自分は、そういった人たちのために供養もするし、尽力もするというかたちになっています。
ですから、仏の慈悲は絶対的なものなんだけど、その仏も我々、すなわち「衆生」(注:人間をはじめ生命のあるすべてのもの)がいるから、そういった施しをするという、1つの大きなダイナミズムの中に関係性があると思うんですね。
だからおそらく、私やヤンデル先生が送り手で、おかざき先生が受け手という構図だけではなくて、実はそこには非常に大きなダイナミズムがあるのだと思います。ちょっと話が長くなりますけど、先ほどおかざき先生がおっしゃった田中雅博先生のシンポジウムは「臨床宗教」がテーマだったんですね。
つまり「宗教者がいかに臨床の現場に入っていくのか」ということが大きなテーマだったわけなんですけど、そこで宗教者がやることはもはや説法ではなくて、「相手の人生の物語をいかに聞くか」という「傾聴」することが大事なんです。
そうすると、もはや我々が何かを与えるのではなく、我々自身がその人の生きた物語を与えられているとも言えるわけです。ですから、そうやって与えて与えられるという1つの大きな円環的な関係の中に、おそらく「慈悲」というものの1つの運動があるんじゃないかと思います。
おかざき:なるほど。
飛鷹:だから「慈悲」というのは、ベクトルがAからBに行くというように、起点と終点があるものではなくて、ある種の止まらない1つの運動体と考えたらいいんじゃないかなと思いますね。つまり、命そのものの動きに「慈悲」という1つの形容詞がついていると考えたらいいのかなと思います。
(お互いが与え合う関係の中に「慈悲」がある 医療と和尚と命の話)