風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『ドン・キホーテ』 K-BALLET COMPANY @オーチャードホール(10月20日)

2012-10-23 01:08:51 | バレエ

 

先週末、人生3度目のバレエ鑑賞に行ってまいりました。
1度目がン十年前の森下洋子さん、2度目が4年前の吉田都さん、そして今回が熊川哲也さん。

で、感想はというと。
めちゃめちゃ楽しかったです。

まず、演目がよかった。
ドン・キホーテってすごく楽しい演目なんですね。知らなかったです。
派手な音楽、舞台を彩る赤と黒の情熱的なカラーにテンションは否応なく上がる上がる。
そしてなにより、熊川さん。
すごいの観た・・・って感じでした。
力強くて、伸びやかで、キレがあって、男性ダンサーの中でも際立っているのが実際の舞台を見るとよくわかる。

今年40歳とのことで、以前のようなジャンプ力は今はないと聞いています。
でも、そんなのは全然問題じゃないと思わせる魅力がその踊りにはありました。
むしろ、若い頃よりも今の方がいいようにさえ思えました。
というのも私、若い頃の熊川さんは実はあまり好きになれなかったんです。
バレエを踊っていても何をしていても「俺ってすごいでしょ?」という感じが前面に出てしまっているように見えて、それって表現者としてどうなのだ?と思っていたわけです(テレビで見ていた限りですが)。
その点、昨日のはよかった。
そもそもバジルという役が、彼にぴったりなんですよね。
この人は、王子様のような役よりも、こういうちょっとやんちゃな役の方が絶対に似合うと思う。
youtubeで色んな方のバジルを観ましたが、熊川さんのバジルが一番魅力的に感じました。一般的なプレイボーイっぽいバジルより、熊川バジルは誠実そうでよい。

そういうわけでミュージカルにしろバレエにしろ「その役に見える」というのは私にとってすごく重要なことなんですが、そういう意味では、キトリ役の佐々部佳代さんもなかなか良かったです。
1幕は緊張されていたのか動きがぎこちなくて正直このまま3幕までいったらどうしよう・・・と心配してしまいましたが、2幕の最初で熊川さんと森の中でいちゃいちゃ(笑)してるシーンがすごく可愛らしくて、それ以降は結構楽しそうに踊られていて、殆ど気にならなくなりました。
またそんな佐々部さんを熊川さんが常に気にかけてリードしている感じが妙な「恋人キトリを見守る頼れるバジル」効果を生み出して、なんだかとってもいい雰囲気に見えてしまったんですよ(本人たちにそんなつもりは全くなかったでしょうが)^^;
もちろんもっと彼女のテクニックが安定して、+この雰囲気も出せればそれがベストですし、この先ずっとああでは困るのですけど、今回の二人については偶然に美味しいものを見させてもらった気分でした。
こういうのは生の舞台の面白いところですね。
それとこのお二人は体形もとても合っていてよかったです。
「その役に見える」ということが重要な私にとっては、テクニックと同じくらい体形や容姿も重要要素なので。

体形といえば、エスパーダ役の宮尾俊太郎さんもスラリとしていて、なかなかカッコいいエスパーダでした。彼は長身でルックスがいいので、こういう役が似合いますね。
それでも熊川さんのバジルと比べてしまうと、さすがにオーラの点で、物足りない感じは否めませんでした。
彼は、もっともっと主役を食っちゃうくらい大胆にはじけちゃってもいいんじゃないかなぁ。
そうすれば、さらにカッコいい色男エスパーダになりそうな気がします。
あとこれは宮尾さんとは関係ありませんが、闘牛士のあのショッキングピンクの布とショッキングピンクの長靴みたいなブーツ・・・・、勘弁してください・・・泣
熊川さんはあれが斬新でいいとか思っているんでしょうか。思っているんでしょうね・・・・・。
布は素直に赤の方が情熱的で素敵です!
そしてショッキングピンクのブーツなんて、何かの冗談にしか見えません!
安っぽすぎ&ダサすぎです!!!
はぁはぁ・・・・。

えーと、あとは。
メルセデス役の浅野さんは、宮尾さんと同じくもっと個性的でもよかったようにも思いますが、踊りはとても綺麗でした。
キューピッド役の日向さんと、もう一人、森の女王役(なのかな?あれは)の松岡さん?もとてもお上手で素敵でした。
クラシカルジェンツのお二人もよかった(秋元さんと西野さん)。どちらがどちらかはわかりませんでしたが^^;
あと、ガマーシュ役のビャンバ・バットボルトさんがダンスも綺麗でユーモアもあって、とてもよかったです。
・・・なんか自分用の備忘録であることがバレバレな文章ですね。

やっぱり生の舞台はいいですねー。
この世知辛い世の中でまったく異世界の数時間を体験させてくれるんだからチケット代も高くない!
と、言いたいところですが。。。
やっぱり高すぎます~・・・・。
今回私が払った金額、4年前にロンドンで観たロイヤルバレエの10倍です。。。
その名残でいまだにロイヤルオペラハウスから案内メールがくるのですが、先日届いたウィンターシーズンのバレエなんて、一番安い席が4ポンド(約500円)!ワンコインですよ(イギリスではツーコインですが)。
それで会場はあのロイヤルオペラハウスなのだから、かなしくなります。。。
貧乏人は良質の芸術を楽しめない国、日本。。。

ではでは最後に、若き日の熊川さんのバジル・ソロをご紹介。
ロイヤルバレエ団の頃ですかね?
やんちゃなバジルの超絶カッコいい第3幕のソロの見せ場です。このギャップが素晴らしすぎる。
ただ若き熊哲なだけに、どうよ、すごいでしょ?感が全開ですが、笑。
ジャンプは確かに超人的ですがなんかアクロバティックな体操を観ているみたいで、私はやっぱり先日観た熊哲バジルの方が優しさと包容力が滲み出ていて好きです。
そしてこのキトリもすごく上手ですね。こちらも超人的。
映像が不鮮明でよくわからないけど、吉田都さんかな?
このお二人も、体格のバランスがいいですね。

Don Quijote - Tetsuya Kumakawa [ Variacion & Coda ]


☆今回のドン・キホーテについての熊川さんのR25インタビュー

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中原淳一 『しあわせの花束』 3

2012-10-20 01:04:31 | 




思い出とは、過ぎ去ったある日のことを、何かの折にふっと思い出すだけのことだとしても、それは、皆あなたの過ぎ去った日の生活なのだということを考えてみたことがありますか?あなたの過ぎ去った日の生活が、そのまま胸によみがえって来るのが思い出なのです。ですから、今あなたたちが何気なく過ごしている毎日の生活も、やがてこれから幾年、幾十年過ぎた日に、思い出となって返ってくることにもなるのです。


(中原淳一 「ジュニアそれいゆ 1956年5月号」より)



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中原淳一 『しあわせの花束』 2

2012-10-19 00:14:22 | 

 


朝、会った人には「お早う」と声をかけましょう。明るい、さわやかな声で、心から愛情をこめて「お早うございます」と挨拶をして下さい。そうしたら、それをきいた相手は一日中、幸せな心で暮らせるかもしれません。私たちのまわりには、そう幸せなことばかりが、ころがっているわけではありません。お互いが、ちょっとした心づかいで小さな幸せが生まれて、その積み重なりがあってこそ、私たちの暮らしの幸せは生まれるのではないでしょうか。


(中原淳一 『しあわせの花束』より)


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中原淳一 『しあわせの花束』 

2012-10-18 03:38:42 | 

   


 しあわせは心の中にあるもの、つまり自分がしあわせと感じることです。どんなに身のまわりにしあわせになることが沢山あっても、もし自分で「ああ、私にはこんなしあわせがある」と感じなかったら、それは結局どうにもならないこと、その人は決してしあわせになることは出来ないのです。しあわせになりたかったら、自分の身のまわりのしあわせを自分で感じるような人になることが一番大切だということを知って下さい。自分にはしあわせになることが沢山あるのに、他の人にあって自分にないものを見て不満に感じたり、五つのしあわせがあるのに八つ持っている人のことを羨んでみたり、また、自分がしあわせになるものを持てた時に「あの人は私よりずっと前からこんなしあわせを持っていた」とか「こんなしあわせは誰だって持っているのだから、私が持てるのだって当り前だ」などと感じたりしていては一生しあわせにはなれません。…
 しあわせはまた、自分がしあわせだと感じた瞬間にあるものです。何にでもしあわせを感じる人はその瞬間が沢山ある人、本当にしあわせな人と言えます。同じ状態にいてもそれをしあわせと感じる瞬間を持てなかったらその人はふしあわせな人なのです。瞬間にあるそのしあわせは一度掴んだらそれでいい、それでずっとしあわせというのではなくいつもしあわせを感じるように努力することが大切なことです。

(中原淳一 「ジュニアそれいゆ 1956年11月号」より)


中原さんの絵は、色合いやセンスが今みてもまったく古さを感じさせず、素敵だなぁと思います。
本の中の女の子達が来ている洋服も、こんな服着たいって思うようなものがたくさん。

ちなみに以前美輪さんの『ああ正負の法則』をご紹介したときに私が引用した文章は、美輪さんが中原さんの本について書かれていた部分からの引用です。

     

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夏目漱石 『行人』

2012-10-04 12:15:00 | 



私は天下にありとあらゆる芸術品、高山大河、もしくは美人、何でも構わないから、兄さんの心を悉皆(しっかい)奪い尽して、少しの研究的態度も萌(きざ)し得ないほどなものを、兄さんに与えたいのです。そうして約一年ばかり、寸時の間断なく、その全勢力の支配を受けさせたいのです。兄さんのいわゆる物を所有するという言葉は、必竟物に所有されるという意味ではありませんか。だから絶対に物から所有される事、すなわち絶対に物を所有する事になるのだろうと思います。神を信じない兄さんは、そこに至って始めて世の中に落ちつけるのでしょう。




 私は私の親愛するあなたの兄さんのために、この手紙を書きます。それから同じく兄さんを親愛するあなたのためにこの手紙を書きます。最後には慈愛に充ちた御年寄、あなたと兄さんの御父さんや御母さんのためにもこの手紙をかきます。私の見た兄さんはおそらくあなた方の見た兄さんと違っているでしょう。私の理解する兄さんもまたあなた方の理解する兄さんではありますまい。もしこの手紙がこの努力に価するならば、その価は全くそこにあると考えて下さい。違った角度から、同じ人を見て別様の反射を受けたところにあると思って御参考になさい。
 あなた方は兄さんの将来について、とくに明瞭な知識を得たいと御望みになるかも知れませんが、予言者でない私は、未来に喙を挟さむ資格を持っておりません。雲が空に薄暗く被さった時、雨になる事もありますし、また雨にならずにすむ事もあります。ただ雲が空にある間、日の目の拝まれないのは事実です。あなた方は兄さんが傍のものを不愉快にすると云って、気の毒な兄さんに多少非難の意味を持たせているようですが、自分が幸福でないものに、他を幸福にする力があるはずがありません。雲で包まれている太陽に、なぜ暖かい光を与えないかと逼(せま)るのは、逼る方が無理でしょう。私はこうしていっしょにいる間、できるだけ兄さんのためにこの雲を払おうとしています。あなた方も兄さんから暖かな光を望む前に、まず兄さんの頭を取り巻いている雲を散らしてあげたらいいでしょう。もしそれが散らせないなら、家族のあなた方には悲しい事ができるかも知れません。兄さん自身にとっても悲しい結果になるでしょう。こういう私も悲しゅうございます。
 私は過去十日間の兄さんを、書きました。この十日間の兄さんが、未来の十日間にどうなるかが問題で、その問題には誰も答えられないのです。よし次の十日間を私が受け合うにしたところで、次の一カ月、次の半年の兄さんを誰が受け合えましょう。私はただ過去十日間の兄さんを忠実に書いただけです。頭の鋭くない私が、読み直すひまもなくただ書き流したものだから、そのうちには定めて矛盾があるでしょう。頭の鋭い兄さんの言行にも気のつかないところに矛盾があるかも知れません。けれども私は断言します。兄さんは真面目です。けっして私をごまかそうとしてはいません。私も忠実です。あなたを欺く気は毛頭ないのです。
 私がこの手紙を書き始めた時、兄さんはぐうぐう寝ていました。この手紙を書き終る今もまたぐうぐう寝ています。私は偶然兄さんの寝ている時に書き出して、偶然兄さんの寝ている時に書き終る私を妙に考えます。兄さんがこの眠から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします。

(夏目漱石 『行人』)

『行人』を読んでつくづく思うに、漱石の文章ってほんとーに色っぽいですね。。
色っぽいことなんか殆ど書かれていないのに、どうしてこんなに色っぽいんだろう。
以前TVで誰かが漱石を「どこか同性愛的な感覚で惹かれる」と言っていたけれど、そういう人は漱石の内面に対してはもちろんだけれど、こういう文章にも惹かれてしまうのではないかしら。
それに、人物描写も色っぽいのよね。
この“兄さん(一郎)”なんか、嫁の直さんよりよっぽど色気がある。
気が強くて、プライドが高くて、人の表裏が我慢できなくて、頑固なくせに脆くて……、あぁもう!なんなのこのツンデレ(>_<)!
そしてそれは言うまでもなく作者自身の投影なのだから、漱石に同性愛に似たものを感じる男性読者が一人や二人や百人いても全く不思議はないと思うわけですよ(もちろん作家としての漱石に対してであり、日常の付き合いとなるとまた別でしょうが)。
って、だんだん漱石を汚してる気分になってきた。。
ちがいます!最大の賛辞です!

最後の数行の静かな終わり方もいい。
友人Hの一郎に対する優しさが感じられて、最初からずっと続いていた緊張が最後に僅かにふっと抜けて、暖かい気持ちになる。
坊っちゃん』のラストにもどこか通じるものがあるように思います。
この作品のレビューを読むと、「救いがない」とか「あまりに重い」というものをよく見かけます。
けれど、一郎の孤独は確かに壮絶な孤独ではありますが、彼に誠実に向き合い、その心を真摯に理解しようとしているHの存在は、それだけで十分にこの作品の「希望」となりうるのではないでしょうか。
この後に書かれる『こころ』で、“私”の存在に作品における「希望」を見出すことができるのと同様です。
そして一郎が『こころ』の先生と違うところは、その未来はまだ決まってはいないというところです。まだ閉ざされてはいない。
彼の未来が破滅へと向かわないためのチャンスは、彼自身と彼を愛する者たちの中に、まだ残されているのですから。
ここにわずかに、けれど確かに見い出せる希望は、とりもなおさず当時の漱石自身が周囲との関係のなかで生きていくために見い出そうとしていた希望だったように思えます。
Hが二郎へ宛てた手紙(上で引用した文章)は、一郎の分身である作者自身の周囲に対する偽りなき心情の吐露であり、静かな、けれど痛切な心の叫びだったのではないでしょうか。

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夏目漱石 『吾輩は猫である』

2012-10-01 22:37:43 | 



 短かい秋の日はようやく暮れて、巻煙草の死骸が算を乱す火鉢のなかを見れば火はとくの昔に消えている。さすが呑気の連中も少しく興が尽きたと見えて、「大分遅くなった。もう帰ろうか」とまず独仙君が立ち上がる。つづいて「僕も帰る」と口々に玄関に出る。寄席がはねたあとのように座敷は淋しくなった。
 主人は夕飯をすまして書斎に入る。妻君は肌寒の襦袢の襟をかき合せて、洗い晒しの不断着を縫う。小供は枕を並べて寝る。下女は湯に行った。
 呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。

(夏目漱石 『吾輩は猫である』)


漱石の小説は、秋の風に吹かれたとき、ふと感じる寂しさに似ている。
どこか懐かしく、そしてどこか悲しい。

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