いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

「オツベルと象」

2005年04月22日 18時25分32秒 | 俺のそれ
韓国では象が大暴れしたらしい。暴徒の次は”暴象”なのか?
Yahoo!ニュース - 時事通信 - 大暴れのゾウに同情の声=「重労働で酷使」との批判も-韓国

このニュースをテレビで見た時に、私が中学1年の時の国語の教科書に載っていた「オツベルと象」をすぐに思い起こした。昔話で申し訳ないのだが、もう4半世紀も前の話である。何だか思い出すと無性に可笑しくなった。象がバタバタと突進したりするテレビ映像を見ていて、ふと笑いがこぼれた。


私は毎年教科書を学校で受け取ると、その日のうちにだいたい読むことにしていた。教科書に出てくる作品は、面白いものが多く、タダで全集本をくれたようなものだったからだ。始業式が終わって家に帰ると(大抵早く帰れるから、家で時間がある)、そそくさと昼食を食べ、早速読み始めるのであった。巻頭ページのカラー写真の解説などを順に見てから、目次へと進んでいく。全部自分が読んだことのない作品だった。微妙な挿絵に、「ちょっと変かな」などと思いつつ、ゴロゴロしたり、ソファに座り直したり、時々体勢を変えたりしながら読むのが好きだった。いつの間にか日が傾き、教科書の余り白くはない紙質でできたページに夕陽がさし、「もうこんな時間か」などと思ったりして、腹減ったーということで、読み終えるのだった。振り返ると懐かしい(昔のことを懐かしむのは、年をとったせいだという意見もある・・・ガックリ)。


実は今年中学に入学したばかりの、わが子の教科書を読んでみた。入学式の後、どさっと積んであったからだ。

昔と同じように、ページをめくってみた。やはり初めの作品には、「オツベルと象」が収載されていた。私の時と同じであった。これには、驚きと懐かしさと、そして、時代によらない宮沢作品の良さが感じられた。勿論「オツベルと象」を読むのは中1以来で、細かい所は思い違いをしていたり、誤って記憶していて、「あれ、そうだったかな」などと思いながら読んだ。最初に出てくる脚注も、当時と同じだった。「稲こき」だった。

教科書検定について色々言われたりしてはいるが、教科書は誰が読んでも案外面白いものである。とてもよく出来ている。私自身は、昔とは考え方も視点も変わったが、教科書は優れた作品集だと思う。当時の私はそんなことは、露にも思わなかったのであるが(笑)。


他の教科も内容を一通り見ていくと、随分変わったな、と思う。図表、絵、写真が多い。文字が少なくなったような気がする。後は、現代風なパソコンやネットのこととか、リサイクルのこととか、私の時にはなかった内容のものも追加されている。ちなみに地図帳は、昔と同じ会社だった。未だに毎年作っているんだなー、と思ったりして、懐かしかった。今まで家で利用していた地図帳は、私が中学か高校の時に使っていたもので、子供もそれを利用していたのだ(当然ソ連とかのままです)。だが、古い私の地図帳はもう必要なくなった。新しい地図帳がもらえたのだから(笑)。


皆さんも、子供の教科書を一緒に読んだり、その話をしてみるといいと思いますよ。私はこの「オツベルと象」の話をしました。自分が同じ中1だった時のこと、この作品の感想、授業中の失敗談とか・・・。わが子の感想も聞いてみました。教科書の作品が、変わることなくこうして続くといいですね。次は孫の時まで、頑張るかなー(笑)収載されていれば、の話ですが。



日中首脳会談実現へ

2005年04月22日 00時33分32秒 | 外交問題
外務省が交渉していた、ジャカルタでの小泉さんとの首脳会談は実現の見通しとなったようである(そのようにテレビで報道されていた)。閣僚が靖国神社の例大祭に出席をしない、ということを条件に開催されるということのようです。昨年から何度も取り上げられていた、靖国問題が口実とされているようです。先日の外相会談では、潜水艦の領海侵犯事件の時と同じように、中国側にサクッとあしらわれてしまった。スマート町村さんは、老獪な中国外交戦術に飲み込まれてしまった感がある。ちょっと荷が重かったか。形を残そうと唯一頑張ったのが、テレビ撮影があるうちに、中国側にデモの暴力行為は許されず謝罪要求を伝えたことであったが、これも「日本国民に謝罪が必要なことは何もしていない、デモの原因は日本にある」という逆切れ状態の答えが返ってきただけであった。


ただ、中国指導部においても、暴徒化するデモについて「ただならぬ危機感」を抱き初めていることは確実で、日中関係改善への見えないくらいに「細い道」を探すことになるでしょう。


日本としても、先日の外相会談では成果を挙げることが出来なかったので、ジャカルタでは何かの前進を求めることになるでしょう。今は個別の事柄に拘るよりも、双方の心理的改善が目的となるでしょう。その為には、ガッチリ握手とか共同宣言とか、何かアクションが欲しいところですね。役者ぶりもある程度必要になるかもしれません。小泉さんが果たしてどのくらいの演技能力を発揮できるか、注目してみます。


これで一気に収束には向かうとも思えませんけれども。日本の常任理事国入りへは、どうあっても反対の姿勢をとりたいのは間違いなく、ガス田問題についても譲歩はしたくないだろうし、日本にツッコミどころがある限り、あの手この手で嫌味な態度をとり続けるでしょうね。それが、アジアにおける中国の地位や立場を築き上げることに繋がるのですから。目の上のタンコブである、日本を亡き者とすることが、中国の利益になるでしょうからね。

外交は難局続きです。


ラジオは生まれ変われるか

2005年04月21日 18時03分44秒 | 俺のそれ
具体的なモデルを考えてみることにしました!
先日のニッポン放送株買占めで、ラジオの新たなビジネスモデルが作れるか、ということについて、ホリエモンは何も提示しなかった。このことは、私にとっては大きな問題ではないが、キッカケとして、ネットとラジオの融合ビジネスのプランを考えてみようと思う。私は、特別な専門知識もギョーカイの掟とか仕組みについても知らないので、あくまでアイディアと思って下さい。でも、事業化する時は、私に許可を求めて下さいね。勿論、アイディア料もたっぷり・・・ホリエモンさん、読んでないと思うけど、そこのところヨロシク(爆、古すぎ?)。


以前に、ラジオドラマの話を書きました。割と面白いと思うけどねー。私のような嗜好の人間が、他に沢山存在するかどうか判りませんが、ラジオドラマは声だけですから、制作費が抑制できます。映像化する場合には、普通多額の費用がかかるでしょう?なので、そのメリットを生かしてみたらよいと思うのです。そして、ネットはどのような形で関われるのか―それは今から書きますので。


まず、脚本というか作品が一本必要です。これは既存の作品でもいいし、新作でもいいです。このラジオドラマを作っていきますが、全てをラジオ放送しません。ネット上でブログのように文字または音声で、流すのです。出来れば音声が望ましいですが。これをリレー方式で放送していきます。

第一回 ラジオ放送
第二回 ネット
第三回 ラジオ放送
・・・
という具合です。もしも聴き逃した人がいれば、ネット上で次の放送との間に再放送とします。ですので、最初にストーリーが判るのは、ラジオ放送で、次のチャンスはネットです。もしも、ワクワクするようなドラマなら、どういう展開になるのか知りたいですから、ついついラジオを聴いてしまうのではないかと思うわけです。ネット上で続きを流すのは、必ずアクセスしないとストーリーが繋がらないので、ネットに客を呼び込むことが出来ます。また、一回分だけ聴き逃した場合にリカバリーできますから。それと、本放送が終了したあとでも、ライブラリー形式にしておけば、ネット上で再現できるメリットがあります。


このネット上でのストーリーには、映像を同時に乗せます。これは広告目的です。主な収益源はこの広告費と本放送の時の広告費ですね。映像は、比較的短い時間の小作品とし、イメージものとか、音楽用DVDのような映像とします。この時に広告主が、例えば「新曲を売りたい」と思ったら、そのイメージ映像をネット上の物語に合わせて流すのです。当然バックミュージックとして使ってもよいでしょう。ネットで物語の続きを聴く(若しくは読む)人は、ドラマの音声(又は文字)プラスこうした映像(音楽付きもOK)を見ることになります。古い話ですが、昔のコカ・コーラのテレビCMのようなちょっとしたイメージ映像の企業広告も流せるのです。今は、テレビCMとは別バージョンのネットCMも企業が作ったりしていますが、これは企業のHPにアクセスしてきた人だけが主に見るということではないかと思うのです。こうなると人気企業のHPに直接アクセスする数に依存すると思うので、広告効果は大きくはないかもしれません。それよりも、ドラマの一部として、こうした広告を流せば、集客の多い人気ドラマの場合には、アクセス数が増えるので、その人達全員にある意味強制的に広告を見せることが出来ます(ストーリーにアクセスすると必然的に映像が流れるため)。


例えば、ラジオで会話シーンを放送し、続きの犯人追跡シーンはネット上で広告映像を流します。車会社の作ったイメージ映像であれば、「あー、カーチェイスシーンが凄いな」という風に、聴取者がストーリーとイメージ映像を自分の中で合成することになります。その時に「この車、カッコイイな」と思えば、広告主はしめたもので、そこから企業HPにジャンプできるようになっていれば商品紹介が詳しくできる、ということですね。


川べりを歩く男女のシーンがあるとしますと、イメージに合う「売りたい新曲」を流した映像を作り、川には、売りたいボートを浮かべ、女には素敵なマフラーとか帽子とかジャケットを着せる、男がチラッと時計を見る仕草には、勿論売りたい時計を映像に流す、ということですね。こうして、ラジオとリレーになっているドラマを作り、ネット上の映像は広告目的としたものを企業に作らせ、それを流すのです。ラジオ放送局もネット企業も映像制作費はかからないし、広告料を取れます。素敵な映像作品のネット上の投票を行うこともできます。元々日本の映像CMは面白く制作されたものがたくさんありますし、音楽用の映像も色んな工夫があるでしょうから、そうした映像を広く見てもらえるように、ラジオドラマを軸にして、テレビドラマや映画とは違った形で提供するということになります。


おおよその感じとしては、新作映画の予告編を観るイメージでしょうか。あれは、音声とか解説が別に流れており、それと映像が上手く組み合わせられています。予告を見た時に、「面白そう」とか「この映画を観てみたい」と思わせるような一つの作品となっているような気がします。その中で述べられる解説文とか映像中の文字と流れた映像を合わせて、各個人が勝手に映画についてのイメージを膨らませるのだろうと思うのです。その期待が大きければ、予告を見た人は、封切後に映画館に行くと思うのですね。そういう広告映像を、音声(又は文字)のドラマに組み合わせる、ということになると思います。ですので、長い映像であれば、テレビを見るような感じになってしまうので、長い作品よりもむしろ小作品の方がいいと思うのです。進めるストーリーのボリュームが多ければ、文字の方がいいですが(読んでいる間じゅうその映像が繰り返し流れるのが、ちょっとキツイかな?)。


もしも、後でネット上で見ればいいや、という層があまりに増え、ラジオで必ず聴かなくてもいいや、と思われても困るので、本放送の時には、「これを聴き逃すな」というような惹き付けるものが必要ですが、これが難しい。懸賞をかけとくとか、プレゼントアイテムを決めておいて、応募するためのパスワードを番組中に発表するとかでしょうか。本放送を聴いた人だけがそのパスワードを手に入れられるし、ドラマ進行もネットより早く知ることができます。それと、ラジオしか聴いていない人もいるので、これまた難しい。本放送の時には、リレーされている部分は、話が判るように必要なあらすじを、次の回の冒頭部分で読む必要がありますね。


最後は、ドラマ全部をまとめて本にして出すことにします。人気があるドラマなら、本でも売れる可能性があります。こうしたラジオドラマ作戦はどうでしょうか?テレビ登場前には、きっと人気があったのでしょう?それなら、興味を持つ人間も出てくる可能性があると思うんだけどなー。



他のプランとして考えたのは、歌手(アイドル)ブログランキングによってラジオ局に呼ばれる歌手を決めるというものです。これは聴取者(電話とかFAXでも可)とネット上の投票によって決めることとします。歌がちょっとくらい下手でも(笑)、ブログが面白くて支持者が多く人気があるなら、見事ラジオスタジオ入りできて、自分の曲を放送してもらえるというものです。歌手があんまりメジャーになると面白くないかもしれませんが、予め被選挙権を持つアイドル・歌手を一箇所にピックアップしておきます。当然それらアイドルとか歌手は、色々工夫して多くの支持者を集められるようなブログを作って行かねばなりません。ラジオ放送では、毎回それらの記事の中で特別に面白かったものを選んで、紹介します。投票によってトップになれば、晴れてラジオ放送に出演することが出来ます。まあ、毎回1人じゃなくてもいいんですが。

選出されたアイドルとか歌手は、ラジオ局の公式サイトに暫く(一週間とか?)新曲の促販映像などを入れてもらえることにするのはどうでしょう?もう少しご褒美を大きくして、一週間だけ一日5回くらいその曲を流す、ということでもいいです。ラジオ局から新人歌手の発掘とかヒット曲のムーブメントを起こせるかもしれません。それには、まずブログ投票で選ばれるということが必要ですね。これによってネットのアクセスが一定以上になる効果が得られるかもしれませんし。そうした投票サイトとか歌手・アイドルブログに広告をバシバシ貼り付けるのは当然OKで、これはネットとラジオ局の収益となります。支持者が多い歌手のページに貼り付ける広告は、競売で高く出来るかも。そういうアイドル達は、自分をメジャーにするチャンスが貰えるし、聴取者やネット投票者は、自分とアイドルが一体となったサクセスストーリーが味わえるかもしれません。言うなれば「そと馬」方式ですね。応援していた歌手が選ばれて、一躍有名になったら、応援していた人達は凄く嬉しいでしょう?親衛隊みたいな人達は、自分のブログに、どれ程その歌手が素晴らしいか記事に書いたりして、素人応援記事が出てくるようになるかもしれません。


今の時代には、シンデレラストーリーというかサクセスストーリーがあれば、希望がない時代だけに受けそうな感じですけどねー。どうなんでしょう。ラジオ局に選ばれた中から、CD売上競争(例えば一ヶ月間に1万枚)とかで次のステップに進めるようにする、というのは?ブログに各歌手のCD売上枚数が出ていて、刻々と数字が変わっていくんですよ(本の売上みたいにポチっと押せば買い物へと移るでしょ?その売れた数でカウント。勿論CDショップもまとめ買いOK。こいつは売れそうだと思ったら勝負をかけてみるのですね、いわゆる「クラキマイ」状態。人気出た時に先にCD押さえてるから儲けがデカイ。歌手の出身地だと売れるかもしれないし)。これも売上はネット会社の儲けに繋がるね。応援部隊は「おい、隣のサトウミキ(仮名です、実在しないと思いますが実在したらゴメンね)が8千超えたぞ。ウチのスズキユキ(同じく仮名)はまだ7千だ。負けるなー!もっと応援活動だ。友達にも広めて買ってもらおう」とか、燃える人々がいるかもしれないよ。ネット会社もラジオ局もあんまりリスクないですね。売れたらラッキー、ガッポリ売れなくてもCD売上代金がちょこっと減るくらいですね。CD作るのは音楽会社ですし。所属事務所に頑張ってもらえば?


1万枚(この水準はどうなんでしょう?)売れたら、次に進めるのが、実際のコンサート。これも競争。CDのハードルを越えた人だけで、コンサート会場に参加する人のチケット枚数で勝負。応援する歌手のページからチケット取った人数で勝負が決まる。これも2千人とか3千人程度のハードルを設ける。これを超えた人の中から、最後の優勝者を決める。コンサートの模様は、ラジオ放送する。ここでの参加者は、5~10名程度かな?この中から、たった一人だけテレビ出演させてもらえる、というのはどうですか?最後の決戦は、やっぱりブログ及びラジオ放送の投票とCD売上の総合得点で決める。結果はラジオ放送で発表する。このように、ラジオ放送から始まって、テレビ出演まで、歌手と応援部隊の一体となったサクセスがある、ということになります。そのストーリーにそって、ラジオとネットの力を利用するということになります。テレビは系列で、何か番組があるでしょ?きっと。できればメジャーな番組がいいですね。優勝者は、やっぱりブログをまとめて本を出す。これもタイアップで儲けられるんでは?


どうでしょうか?見込みないですかね。でも、アイディアは盗まないでね。もし本当にラジオとかネット会社が無断で始めたら、「卑怯な局だー」って、運動しますからね(笑)。採用してくれないかねー。


「敵は霞ヶ関にあり」?

2005年04月21日 11時31分03秒 | 社会全般
昨日の『報ステ』観ましたー。何と木村剛氏が解説にお呼ばれしているではございませんか!ツーショットで、「映ってる」というのは初めてお目にかかりました。写真よりも、お若い!意外に(失礼ですが・・・笑)。郵政民営化断固推進派の私としましては、「是非世の中の人々に訴えて下され」という思いで拝見しておりました。


内容的には、「敵は霞ヶ関にあり」という財務省の「口出し的」な問題が取り上げられておりました。そうなんだ、と思いつつ、しゃべり過ぎの古館がイヤだった。もっとゲストに話させるべきだし、インタビュアーとしては、落第だと思いました。度々ゲストの話を遮るのは失礼だし、落ち着きがない。問題提起や質問から、ゲストの見解や解説を引き出すのが仕事なのに、古館個人の意見や考え方など、その時に語る必要性がない。もっと他の時間にだってしゃべれるんですから、ゲストが来ている時間帯では、もっと黙っているべきだ。安倍さんが出た時にも、五月蝿過ぎたし、分ったような話ぶりがイヤでした。小谷さんを見習い給え(いつも応援しています。WBS)。


話が逸れましたが、財務省は(08年度あたりの)百兆円を超える国債借り換えの消化をどのように手当てするのか、苦心惨憺しているところで、郵政が買ってくれなければ、民間金融機関をはじめとする機関投資家だけで消化しきれないことを想定しているのだろうと思います。後は、個人向け国債をできるだけ買ってもらうように頑張るしかないでしょう。超低金利時代ですから、金利が1%程度付いていれば、多くの人々が「買いたくなる」と思いますが。大口定期に入れるより、はるかに利息が多いですし。目標販売額を設定して頑張れば?


郵政民営化のまとめ編2

2005年04月20日 13時01分26秒 | 社会全般
遂に執行部一任を取り付けることに成功(?)しました。いや、成功と言うより、反対派の妄言を振り切った、というか、一気に押し切ったというべきでしょうか。怒号や罵声を受けた執行部の、相当の頑張りがあったことでしょう。特に与謝野さんと園田さんは、「決断の時」を明確な態度で示し、すがりつく反対派の「納得できない」作戦に終止符を打った。国民の立場としては、「よくやった、執行部!」と褒めてあげたい(笑)。


理解力の乏しい「荒イ」の荒い語気も(いつものオヤジギャグ…スミマセン)、無意味な遠吠えだな。反対派の一部はまだ諦めてはいないだろうが、実質的に終戦宣言と見てよいと思う。参院本会議での否決は、自民党を離党するか、党を割る覚悟で望むしかないだろう。反対派に果たしてそれが出来るのか、見ものだな。大義があれば、国民が味方するだろうから、次の選挙で無所属であっても勝てるだろう?大義なき反対は、単なる抵抗勢力に過ぎない。肝に銘じるべきだ。それと「加藤の乱」をもう一度思い出しておくことだな。


後は政府側が、ここまで進めてきた執行部の「面子」に配慮して、落としどころを探ることになるだろう。無用な紛糾を避けつつ、基本方針の堅持を貫ける妥協点を見つけることが出来れば、法案可決は可能だろう。万が一、否決されるようなことがあれば、今後日本の改革路線は大きく後退する。財政政策上も大きく遅れてしまい、プライマリーバランスの回復は達成出来ないだろう。それに、ようやく社会保障改革のテーブルが出来たのに、政治的混乱が起これば、これもまた改革が進まなくなってしまう。これ以上の遅延は、状態を悪化させる一方で、日本にとって致命的なダメージとなりかねない。


野党を含め、政治家たちは、郵政民営化は象徴的な改革であるということを、よく考えて決議することです。与党に反対とか、支持基盤だけ考えて反対、ということでは、将来の展望は開けてきません。

郵政民営化のまとめ編1


民営化ができれば、次はいよいよ独立行政法人、公庫公団や公益法人への金の流れを変えることが可能になっていくはずです。特別会計への切り込みも進められるようになるでしょう。官僚達の作り上げてきた「贅肉組織」への資金供給を止めれば、自滅させられます。ガン治療と同じですね。ガン組織への血流を止めて増殖を抑制できる(確か読売新聞の「医療ルネッサンス」に出てた気がする)のと同じです。公的な贅肉組織への予算(資金)という血流を止めること、これが肝要ですから。


あともう一息です。政府、執行部はもうひと頑張りですから、何とか乗り切って欲しい。




追記:(15:30頃)

またしても手続き論を繰り出してきたな。本当にダメな議員としか思えない。

Yahoo!ニュース - 共同通信 - 「郵政一任」へ抗議相次ぐ 自民参院総会

以下に、一部抜粋します。
総会では、郵政族で強硬反対派の長谷川憲正氏が「(一任を取った)郵政改革合同部会はパソコンの強制終了という感じだ。手続きを尽くすのが何より大事。昨日(19日)のような終わり方はしこりを残す」と批判。さらに「こんなことが許されたのでは党内手続きは全く信用できない」(中川義雄氏)、「小泉純一郎首相の言っていることにどう近づけるかというテクニックばかり議論し、本質論をほとんどやっていない」(桜井新氏)との声が上がった。


前から議論の質が変わっていない。理解力の乏しさが明らかだな。

大ばか者は、自ら理解するような努力をするべきだ。本質論というのを出すなら、桜井君が国家財政を運営するつもりで考えてみたらよい。自分の家計と思って再建策を明示し、その位置付けの中で郵政の運営方法を述べてみろ。本質というのを自ら示してみろ。できもしないくせに、簡単に本質論などと言うべきではない。


フジの後悔

2005年04月19日 20時49分17秒 | 社会全般
今回の騒動ではライブドアに現金が流れることになってしまい、フジにとっては不本意な結末となったであろう。肝心な時に出し惜しみすると、更なる出費がかさむこともあるということなのだろう。フジの顧問弁護士か傭兵的に雇った弁護士軍団あたりが指南役だったのだろうが、策を弄して敗れたのである。まあ、今さら言っても仕方がないのであるが。


スタートでライブドアの仕掛けた不意打ち効果は十分あった。その後、日枝会長は冷静さを欠いたかもしれない。それは、今までの自らの経歴やフジサンケイグループというメディアコンプレックスの力を過信したため、勢い「反発・拒絶」という反応へと繋がってしまった。あの時、もう少し冷静に作戦を立て直していれば、違った展開となったであろう。ほりえもんはフジテレビまで手が届くように狙っていた可能性はあるが、そこまでの戦略は出来ていなかったはずである。敵を甘く見すぎたのだ。慢心、油断があったのだ。


普通はTOB価格を上げて対抗する。だが、フジが買い進んでいた水準であれば、拒否権を取れる可能性が高かったことも油断につながり、TOB価格は変えなかった。これは、日枝会長のほりえもんに対する「やれるもんなら、やってみろ」という、冷静さを欠いた判断だったのだろう。先にフジが拒否権を取れば、恐らく本気で過半数を取りにはこないと踏んだのだと思う。しかも、対抗策として新株予約権に全てを託す作戦をとった。これもまた、作戦ミスであろう。TOB価格をつり上げて、6600~7000円という水準であっても、資金力の小さいライブドアであれば苦戦したかもしれない。フジテレビのTOBに応じた分を除けば、残り僅か15~20%程度をフジがとっていれば、大きな持ち出しにはならなかったはずなのだ。TOB価格の上昇分を払ったとしても、今回の和解案よりも少ない額で過半数は取れていた可能性は高かった。


そして、仮処分決定で敗れ、ライブドアに現実に過半数を取られてみると・・・このままニッポン放送の経営権をくれてやるわけにもいかない、という、「後悔先に立たず」状態となってしまったのだろう。絵に描いたような失敗であった。そして、奥の手北尾氏を登場させたものの、ライブドアとの和解交渉に進まざるを得なかった日枝会長は、これまた後悔したことだろう。こんなことなら、最初にほりえもんが業務提携の希望を記者会見で発表した時に、会うことを考慮すべきであったかもしれない、と。その時なら、ライブドアの持株をフジが引き取ったとしても、和解額よりはるかに少ない投資で子会社化できていたのに、と。人間、判断力を問われる時に、どう考えるか、冷静に戦況を分析できるか、そういったところで、結果が変わるのである。そもそものつまずきは、村上ファンドではなく、ほりえもんだったこと、そのほりえもんに対する評価が、近鉄買収劇と楽天との競合で2度とも敗れた男くらいにしか考えず、敵を甘く見たことである。また敗れるだろうと、高をくくったのが間違いであった。


関係ない話だが、産経新聞は今日の社説で「それが、ニッポン放送株を全部売却して、事業提携は交渉の枠組みづくりだけ、という内容で和解するのだから、堀江氏にエールを送った人々はこの事実をどう受け止めるのか。」と書いている。きっと「ホレ見たことか」という意図で「鬼の首」を取ったかのようであるが(笑)、これも大きな勘違いというか、何処を見ているんだか、と思う。私も昨日の記事に、今後の業務提携の内容や経営者としての明確なビジョンを示す責任があるという主旨で書いていますが、これはフジがニッポン放送株を買ったからであって、本来はライブドアが経営すればそれで済んだことです(これも以前そのように書きました)。フジ側が話し合いに一切応じることなく、ニッポン放送の経営を実際にしてもらえば、即答えが出たことでしょう(笑)。わざわざ大金まで出して、フジ側がほりえもんの解答を見る機会を遅らせただけです。産経新聞は、やっぱり相変わらずなのですね。



右翼化する時代

2005年04月19日 17時46分40秒 | 社会全般
<グローバリゼーションへの反動なのか?>

いつだったか(先月?)、読売新聞の記事にオランダの右翼化とイスラム教移民の問題が出ていた。今の中国や日本の中にも、なんとなく同じ傾向が出てきているのかもしれない。右翼化勢力の台頭(顕在化)は世界各国で見られる現象なので、特別に珍しくもないのだが、今後の政策上の問題でもあるのでちょっと書いてみたい。


今まで、格差社会シリーズでフリーターやニートの問題についても触れてきたが、日本の労働者の立場は、制度的に十分保護されているとも言えないし、低所得・無業層は社会不安の一つの要因にまでなりつつある。現実に不幸な事件(ニートと犯罪)にも繋がっている面がある。その一方で、人口減少社会到来の準備として、法務省や外務省を初めとする行政や産業界などにおいて、海外労働者を広く受け入れるということを念頭に、法制度の整備や二国間協定などを推し進めつつある。先走り過ぎの感が否めない。総人口減少までには、今のところまだ時間的余裕があるので、相当入念な国民的議論やコンセンサス形成の地ならしをしていくべきで、拙速は避けるべきである。


人権擁護法案反対運動における差別的表現の横行、東京都の公務員管理職登用を巡る裁判に対する表現、反日デモへの報復的嫌がらせ等、これらの出来事を通じて見られた部分的な傾向としては、排外的傾向の強い人々が存在するということである。勿論大勢を占めるとまでは言わないが。また、最近の「格差だ、不平等だ」と強く主張する人々や反グローバル化を支持する人々の存在は、将来仕事の奪い合いとなった時に、恐らく排外的思想へと大きく傾いていくのではないかと思うのである。


諸外国の例を考えると、最も分り易いのはドイツであろう。西ドイツ時代から、移民の流入が問題となった。人件費抑制策による低賃金の移民雇用でドイツ人の失業者が増加し、社会的不満が増大した。このことは、移民の排斥運動につながり、さらに極右化した勢力―ネオナチの登場をもたらした。ネオナチには、主に右翼化した思想傾向の若者が参加するようになり、現実行動へと移っていった。初めはユダヤ人の墓にカギ十時を書きなぐったりしていたが、過激行為はさらにエスカレートしていき、80年にはミュンヘンでビール祭会場の爆破事件まで起こすに至った。東西ドイツ統一後も旧東ドイツを中心に失業者が多く、極右勢力は拡大し、現在は政党を組織し、政治的勢力を持つまでになっているようである(ドイツ国家民主党、共和党、ドイツ民族同盟)。これに便乗した右翼的傾向の若者などが、積極的にナショナリズムを掲げ、トルコやギリシャ移民の排斥運動を行っていることもある。


ヨーロッパでは、ドイツ以外でも、右翼化した若者が見られる。ネオナチを模倣した「スキンヘッズ」がロシアで活動し、多数の暴力的行為が行われた。新聞の例にあった、オランダでもイスラム教徒との対立から、右翼勢力が議席を伸ばし、デンマーク、ベルギー、フランス、イタリアなどでもナショナリズムを掲げる政党が活動している。オーストリアでは、極右勢力の自由党が連立政権を誕生させた。チェコ、スロバキア、ルーマニアなどでも、それぞれ同じような極右勢力の政党がある。

EUの誕生やグローバル化によって失業や移民の問題で不満が募り、特に低所得層の支持を集めやすいのが、こうした右翼勢力であり、いずれも移民問題に反対し排外的、民族主義的、国家主義的な思想を掲げるのである。中国のデモを見ると、こうした勢力とはやや異なるのかもしれないが、経済自由化によって貧富の差の拡大、失業、低賃金などの問題が不満として蓄積していけば、不満分子の向かう先は、民族主義的運動であろうことも理解できる。同時に、中国の反日思想教育も手伝って、日本を憎悪の対象とすることは、最も予想されることである。


米国における保守主義はネオコンなどと呼ばれ、ヨーロッパの極右勢力とは違うのであろうが、大国の保守主義は宗教的・経済的な背景を持ちながら深化しているように思う。ロシアや中国がこれと同列とも思えないが、グローバル化の反動で、逆に右翼化を促進するかのようである。


こうした諸外国の例を見るに、日本では今後どのように対応していくか、熟慮を要する。現状のように就業状況の悪さが顕著であると、当然の如く排外的思想傾向の強い若年層が存在する。失業、低賃金、社会保障等、根本的問題を解決していく方向に進むことなく外国人労働者の流入が始まれば、きっと右翼化が進行すると思われる。排外的思想が先鋭化すれば、人権擁護などという生易しいことでは済まないかもしれない。法務省は両方に関わっているのであるから、その責任は重い。大量の外国人労働者受け入れの入国管理の一方で、外国人排斥運動と差別・・・ともに絡み合っているのである。


日本人社会は、昔とは変わったのかもしれないが、未だに「村社会」の一面を覗かせていることは、ライブドアの一件を見れば明らかである。元来そうした国民性なのに、海外移民を受け入れ、互いの文化を尊重し、共生していくには、十分な準備が整っていないと思うのである。勿論、全国の一部地域では既に外国人が多数住んでいる所もあり、全否定とまでは言えないが、まずは日本人そのものの問題解決が先であると思う。それから、海外移民の教育、医療などの社会保障、治安、国籍や参政権の問題などを考える必要がある。こうした準備を入念に行ってから、受け入れが可能になると思うのです。今のままでは、なし崩し的に受け入れの印象であるし、地域によっては自治体単独の問題ではなくなっているのではないか、とも思う。いずれにしても、国民がそういった海外移民受け入れの覚悟というか、心の準備ができるのかどうかが最大の問題であり、単純に産業界の為に安い労働力を調達することを目的としているなら、大きな過ちであろう。現状では、中国人を初めとする外国人の不法入国や不法就労によって治安悪化や組織犯罪が目立っていることは確実で、そうした点も十分に検討されるべきであると思っている。



関係ない話題
格差社会シリーズを書いていて思ったのであるが、人口構成にあるポイントを発見した。それは、男女比である。同年齢人口は、私より下の年代では常に男性が多かったように思う。毎年毎年である。これは一体どういうことか?

「女の数が足りない」、ってこと。

もてない男は永遠に余ってしまう可能性が高い(かもね)。
一般的に、女が年下で男が上だろう。仮に各年齢の男性に機械的に女性を割り当てていったとすると、男の方が毎年多いので、どんどん年下の女性を割り当てることになってしまう。これはきつい。このことが、性犯罪とか被害女性の低年齢化に関係があるかな?よく判りませんが。

私の時は、何故かクラスでは女子の方が多かったのだが、それ以後、基本的に女子が少なく、男子が余るというのが一般的だろう。ウチの子のクラスもそうだ。

普通に考えれば、相手を選ぶ時、女性に有利だ。上の年代から余ってきているから、どの年齢でも選べるはず。だが、世の中そう上手くはいかないのだろうけど。


日ハムいよいよ6連勝か?

2005年04月18日 20時19分10秒 | 経済関連
ハム 破竹の5連勝!

序盤の借金も返済して、投打のバランスがよくなってきた。
なんと言っても打線が好調だ。打ち勝っている。ピッチャーの負担が減るねー。
引っ張っているのは、勿論小笠原!高給取りだから、頑張ってくれ。
予想以上に好調なのが、木元。
新庄はこんなもんだろ。
稲葉もまあ、こんな感じ。


ホームランの破壊力は昨年よりも落ちるかもしれないが、粘りとつなぎがいい感じ。
今日も、今のところロッテにリードしてるぞ。4-0だー!
このまま行けば6連勝。首位が見えてくるぞ。


ロッテの序盤出足がいいのは、いつものこと。もうすぐへばって、陥落してくる。
西武の調子が今ひとつだが、いずれ追い上げてくるだろう。ホークスに強いしね。

いまが貯金チャンスだ、ハム。
貯められるうちにいっぱい貯めてくれー!



話が変わりますが、ゴルフのさくらちゃん、涙の初優勝だったね。
応援してたわけではないけれど、よかったね。
(『NARUTO』のサクラちゃんは、ウチでは今ひとつ。地味なヒナタが一番人気!)

「優勝してないのに、人気先行」とか、やっかみもあったかもしれないし。
稼ぎが凄いからね、本当に。契約金が半端じゃなくデカイ。
リーマンオヤジの生涯賃金をあっさり稼ぎ出されて、オヤジ泣くね、きっと。
だから世の中、金じゃありませんから、って言ったでしょ(笑)



ライブドア第2幕終了

2005年04月18日 18時42分49秒 | 社会全般
事前の情報の通り、ライブドアが取得したニッポン放送株をフジ側に全株引き取らせ、業務提携へとなったようです。今後の焦点は、ネットという手段が、メディアにとってどのような旨みのあるビジネスが発生するかという点であり、逆にネット企業は、メディアのコンテンツやブランド力をどのように生かせるかということですね。

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - フジとライブドア、提携合意を発表


例えばラジオ放送とネットの融合ということになれば、今までと何が変わるのか、という疑問もあるかもしれない。又は、テレビとネットにはどんなビジネスモデルがあるのだろう?明快なモデル提示がなければ、ほりえもんの評価は急降下であると思う。切込隊長氏が述べた通り、単なる「グリーンメーラー」に過ぎない(全然関係ないんですが、切込隊長氏は「第1幕目」と明確に書かれておられましたが、私の記事進行は、以前に第1幕終了、第2幕の幕開けと書いてしまってますから、今さら戻れませんから、残念~。ですので、このまま次は第3幕ということにします)。

新株発行差止仮処分を決定した東京地裁や東京高裁は、グリーンメーラーを要件に挙げていただけに、「グリーンメーラーもどき」という極めて黒に近いグレーで終わるなら、世の中全体に対する背信行為というか裏切りであろう。当然、ライブドア株主に対しても。


次のステップ(第3幕)では、業務提携の中身が問われる。そうした社会の評価に耐えうる企業であるかどうかもまた、良い企業とそうではない企業の分かれ道であるし、真の企業価値、そして何度も問題とされてきた「経営者の資質」を今度こそ問われるであろう。少なくとも、信頼を大きく損ねるようなものであってはならない。(新聞口調ですね、「あってはならない」での結び)

参考記事:
ライブドア再び
リーマンの思惑は?
マスメディアの正論
金で何でも…
マスメディアの自己批判
ライブドア第一幕終了
第二幕の幕開け
ライブドア第二幕の続きなど…
ライブドア第二幕――高裁決定
第2幕のクライマックスが見えたか



格差社会6

2005年04月18日 16時39分43秒 | 社会全般
最近、またニート問題が流行りだしてきたのかな。色々な人が書いてますから、またしても後出しなのですが、シリーズなので書いてみたいと思います。一応、ニートの事は以前書きましたので、去年の古い記事ですが、記しておきます。

ニート
ニート再燃


現在そして今後の問題として、どのように捉えて行けばよいか、また、希望格差社会ということと一緒に考えてみたい。
まず、ニートにも様々な理由があり、一概に同じような対策で解消できるとも言えないし、総括的な制度・政策では難しいということ。昨年ネット上でいくつか議論もありましたが、はっきり言うと心の病気になってしまい、就業できない人に、「お前は働けるのに働かないんだろう」と言ってみても仕方がない、ということです。他にも、極東ブログさんが「ニートについて」でご指摘の通り、家事手伝いという人々も存在するわけで、これも昔から存在してました。動物だって、群れの個体数が増加して食物獲得が厳しくなると、過度のストレス状態(ストレス環境)となり、弱い個体は死に易くなるらしい。そりゃそうだろうなと思う。人間だって生物なんだから、ストレス状態で色々な病気も起こるだろう。まさか、そのまま死ぬことを放置する訳にはいかないので、これを救済できるような制度とか環境も必要になる、ということは言えます。


フリーターもそうなのですが、問題は、このようなニートの全体の数が多い、ということで、昔レベル程度に戻せるようにどうにかやってみましょう、ということかな。ニート分類で言えば、ひきこもりタイプ以外は支援で何とかなりそうな感じですね。でも心に大きな問題があればそちらの解決が先決であり、それは専門家じゃないと難しいかと思います。また家族や地域社会の取り組みが必要になってくると思います。


<分類再掲>

Ⅰヤンキー型
 反社会的で享楽的。「今が楽しければいい」というタイプ
Ⅱひきこもり型
 社会との関係を築けず、こもってしまうタイプ
Ⅲ立ちすくみ型
 就職を前に考え込んでしまい、行き詰ってしまうタイプ
Ⅳつまずき型
 いったんは就職したものの早々に辞め、自信を喪失したタイプ


ニート分類の中にもあり、フリーターの記事(格差社会4)でも分類してみましたが、「自信喪失」と「やりたいことが見つからない」(所謂「自分探し」)の問題は共通するように思います。高校生のアンケート結果を紹介した記事(教育を考える8)にも書きましたが、この結果で見ると自信喪失が明らかであり、はなから劣等感に包まれてしまっていることが問題です。これが、山田教授の言う「希望格差」なんじゃないか、とも思えます。敗北感が、より低年齢化しているとも言えます。普通は事業に失敗したり、会社をクビになった大人とかが感じるような敗北感であるのに、です。固定化されているのは、社会の価値観であり、親の価値観であって、子供のやる気や能力ではないはずなのです。そのことを教える大人が減っている、ということではないかと思えるのです。


「自分が必要とされているかわからない」とか「自分に何ができるかわからない」というようなことから、「オンリーワン」へと逃げ込もうとする若者が増えるのではないだろうか。その顕著な言葉が「自分がやりたいこと」「自分に向いてること」で、自己しかない自分の心の世界へと閉じこもり、「将来は見込みがない」「どうせ俺はこんなレベル」「いい学校に行けなかったから、もう落伍者だ」という決めつけが出来上がっているのではないか。この評価は、主に親の考えが反映されているのかもしれない。親の評価は、世の中で言いふらされる評価の、一面的な部分だけが強調されて、親の頭に埋め込まれているのだろう。固定化は、子供にではなく、親の頭の中に出来上がっている。

「オンリーワン」を目指すのは、何かに没頭したり、求道者的な取り組みをする時に、他者との競争ということではなく、自分の中でのより高いレベルを求め続けるときである。相手は自分の中にあるのだ。そういう確たる価値観があれば、自らの仕事に誇りを持つということを意識させ、同時に自分の存在価値を実感できるのではないか。これは、あらゆる局面で「徹底的に良心的な仕事をするという、優れた完全主義という文化」(エリート教育は国際競争力を高めるか)ということと、密接に繋がっているのだ。


一方で、「どのように頑張ればよいか」「道を切り開く勇気と強い意志をどう育むか」ということについて、親も子供も分らないまま何もせず過ぎていくので、親は「のびのびと育てる」「個性や自主性を尊重する」という一見妥当な方向(単に無策なだけということもある)へ進むのである。しかし、これは、親が教育方法の探索を放棄した場合にも出てきてしまう。家庭の教育力低下と呼ばれるのは、こうした探索を止めてしまう親が増えている、ということなのだろうか。おまけに、昔は「親はなくとも子は育つ」などと言っていたが、これは小学卒業後くらいから丁稚奉公に出るとか、中卒で集団就職するという若年の就業があったことや、地域社会の教育システムがある程度機能していたので、社会が育ててくれた面があったのかもしれないが、今はこうした機能は殆ど失われているようである。これも最近言われる「地域の教育力低下」ということと符号するかもしれない。


これらを解決する方法は、よくわかりませんが、やっぱり子供に仕事させるということくらいしか思いつきません。或いは、部活を凄く頑張るとか、スポーツを頑張るとか、そうした経験から、何かを掴めることができれば、少し変わってくるかもしれません。以前に書いた地域の祭り参加も、実体験を積む場として考えると、有効なのではないかと思います。具体的政策・制度については、NPO、教育関係者とか行政の専門家等で、真剣に考えていくしかないと思います。


参考までに、格差社会シリーズをお読み頂ければ幸いです。





コメントスクラムのこと

2005年04月18日 00時12分06秒 | 社会全般
コメント頂いた「てるてる日記」のterutell さんの所にTBしようとしたのですが、何故か上手く出来ません(スミマセン~、方法がよくわかりません)。そこで、記事に書いてみることにします。

もうこのような事態は、悲しいばかりですね。今まで何度も記事に書いてきましたが、本当に前進がないのですね。


terutell さんは、以前小倉先生の所や、「駝鳥」さんのところでもお見かけしておりました。
この度、拙ブログをご紹介頂いて、有難うございます。お互いのお考えは、もう言わずともお判りでしょうから(笑)、割愛させて頂きます。今後、多く方々の自制に期待するしかないとも思えます。今の中国のデモとちょっと似ていますね。とりあえず出来ることは、私も記事に書くことくらいです。

参考記事:
言葉の創造と理解
続・言葉の創造と理解
「株買占め」と言葉の由来
人権擁護法案とネット言論
この他、「カテゴリー:社会全般」にマスコミ批判シリーズとか…


前も記事に書きましたが、言葉の定義とか、造語の妥当性ということについて、いくら説明を求めたり、言語的意味や用法などから検証することも、殆ど意味が無いのですね。いくら「グリーンメール」がグリーンは不適切とか、株関係への意味が合っていないと主張してもしょうがないし、「サイバー攻撃」と言うのがいいのか、「電脳攻撃」いいのか比較しても仕方が無いとしか思えないのですね。言葉に自己の常識やそれまでの定説を当てはめることに、大した意味など感じられませんね。「電脳攻撃」が絶対いいんんだ、正しいんだ、と主張する方は、それを用いていれば済むことなのです。もしも「サイバー攻撃」が認知され使用されなければ、消えていくだけですから。普及し、広く認知されなければ、造語は消えてなくなる運命なのですから。非常に簡単な結論ですね。このように考えることもそれほどまでに困難なのでしょうか。「電脳攻撃」を使用する人間に、「それは違う。サイバー攻撃と言え」ということを、説得して回る意味と言うものがよくわかりません。ですので、「コメントラッシュ」が妥当と思われる方々は、それを使用して世の中に普及すれば済むことです。私も、特段「コメントラッシュ」が不適当とも思いません。それが好みなら、それはそれでいいように思いますが。単に、先に「コメントスクラム」というブログにおける現象面に着目した造語が、先に公表されたということだけです。「コメントラッシュ」派は、自らの記事にそのように書いていけばよいのではないでしょうか。私は、未だ一度も使用したことはございませんが。



あるお伽噺

2005年04月17日 20時00分40秒 | 俺のそれ
色々な寺院がある町がある。その宗派はそれぞれ不明であるが、外見上の作りや中に入ってみるとそこに祀られている御神体とか彫像といった目安となるものがあるし、宗教的教義のようなものも書いて貼ってあるので、そこの責任者が何を信じ、布教しているか判るのである。察しが良ければ、すぐに見当がつく。


寺院を訪れる人々は、自分と同じ信仰を求めていることもあるし、他の宗派に興味を抱いている場合もあるし、他宗派の研究や逆に教義に反対する場合もある。単に寺院の中の構造や祀られたものを見たいとか、寺院に飾られた装飾品に興味があることもある。管理責任者(住職とか司祭とか神主とか・・・)に興味がある場合や前からの知り合いとか、住職の説教が面白くて気に入っているということもある。まあ、何にせよそういう寺院がたくさんあって、そこを訪れる人々もたくさんいるというわけだ。


その町に、とある寺があった。名前は・・・とりあえずA寺としよう。その住職はBといい、細々寺を運営していた。
Bはある時、深い山の奥で数日間道に迷い、死ぬ覚悟を決めたことがある。
もうダメかと思って、Bがお経を唱え、「何とか助けて欲しい」と天に願った、まさにその時に、山の斜面に沿って、こぶし大の石がコロコロと落ちてきた。石の転がっていく方を見ていると、崖下に転がり落ちていった。その下の方に目をやると、小さな小さな川があり、その川に石はぼちゃんと落ちた。Bは小川に降りて、石を拾い上げ懐にしまった。「きっと川を下れば、町に戻れる」そう思い、小川の水を手ですくって飲むと、不思議と元気が湧いてきた。そうして、山奥から生還できたのである。寺に戻ったBは、転がり落ちてきた不思議な石には、きっと天が助けを差し向けた神が宿っているに違いないと思い、寺に祀ることにした。

仏像とは別に祭壇を作り安置しておいた。すると、ある時、お参りにやってきた町人(まちびと)が石を発見した。町人はBに尋ねた。
「これは何か」
「不思議な石なのです。この石には神が宿っておる」
「まことか。何故わかる」
「非常に不可思議な体験で、神の所業としか思えない」
「・・・」

後日、徐々に噂が広まり、A寺には「神の石」があるらしい、ということで、多くの町人が寺を訪れた。
「どれどれ」「本当に神が宿っているのかな?」「うそっぽいよね」
町人達がBに尋ねた。
町人1「この石に神が宿りし証拠はあるか。あるなら見せてほしい」
B「特に証拠というものもござらんのだが、きっと単なる偶然などではない」
町人2「ただの石ころにしか見えんがのう。なぜ宿ると思うた?」
住職「かくかくしかじかで・・・・・・」
町人3「なるほど、だがそれは、真実かどうかわからんのう」
B「私は信じておりますが故に、こうして祭壇をつくり祀っておるのです」
町人4「住職の不思議な体験を証明できるかのう?」
B「いや、それも証明するべきものもござらん」

町人はさらに増えてきた。口々にBに聞いている。
寺の中は、町人だらけで、いつも参拝に来ていた人たちも困った様子。
「本当かよ」「うそじゃねー?」「そんな体験あるかな?」「証拠見せろよ、証拠」
「何で宿ってるって、わかるんだ?」「科学的に証明してみろよ」「神って何?」
「神なんていないんじゃねー?」「偶像崇拝は禁止だろう?」「仏像はいいのかよ」
「本当に仏教なのか?」「おかしな宗教はやらすつもり?」「電波だ、電波」
「きゃははー」「神学的な立場ではどうよ?」「仏教と神道はちがうなー」
「多神教とはどう違う?」「石の地蔵もありだろ」「地蔵は魂があるのか?」
・・・・・・

Bは困り果てました。多くの町人を納得させられそうにもありません。
そこで、「明日、もう一度、この石について、発表することにする」と言いました。
「なんだよ、答えねーのかよ」「おれの質問は普通だろ?」「まあゆっくり考えてみたら」
「誠実さが欠けてるな」「普通答えられないよね」「どうせ、デタラメだよ」
・・・
次の日、Bは自分の不思議な体験を町人達に語り、石には神が宿っているとしか思えない、ということを告げました。すると、多くの町人達は反対しました。
「どうして、それで神が宿るんだよ」「神なんていないんだよ」「キリスト教だけ信じればいいんじゃない?」
「石はいつまでも石だろ」「非科学的なんだよ」「どこの経典に書いてあったんだ?」
「他の宗派で、石を祀っている寺はあるのか?」「どうして断定できる?」
「隣町で寺院をやっているものです。かつてX経典、Y書やZ伝では自然に宿る神と既存の信仰対象についての論争があり、所謂神と見なされる~~~ということで、このような石には宿らないというのが定説ですが、これに反論はありますか?認めますか?どうです?」

・・・・・・いつまで経っても終わりません。

そこで、Bは「私は石に神が宿ることを信じてる。これが嫌という人は、A寺に来ないで他の寺院に行けばよい。」と言いました。
すると、町人達は、
「何だよ、ここは参拝自由、って書いてあるだろ」
「自由に入れるのに、何で来ちゃいけない?」
「だったら、最初から参拝禁止しときゃいいだろ」
「こっちが親切に教えてるんじゃないか、石は石だって」
「経典に基づいて正しい教義を教えてやってるんだよ」
「何で、石には神がいない、って認められない?」
「論理的じゃない、って皆言ってるでしょ」
「Bの考え方は、絶対に間違ってる」
「証拠もないのに、神が宿るってよく言えるな」
「論破された、って認めろよ」
・・・・・・
Bは、町人達に言いました。
「この町にはたくさん寺院があるから、そっちに行けばいいじゃないか。それに、隣には竜の頭が祀られた新興宗教のC寺院があるし、向かいには紙で出来た御神体を祀っているD寺院もある、もう一つ向こうには、木で出来た像を飾ってあるE寺院もあるじゃないか。そっちには、どうして神はいないとか非科学的とか言わないんだ?経典見せろとか証拠出せとか何故言わないんだ?それに参拝に来た人全てに、私が答える義務もないよ」

町人達はまた言いました。
「ここの住職に問題があるんだよ」
「答え方が悪いのさ」
「自分が間違ってるのに、何故改めようとしないんだ」
「誤解を招くことを言うからだよ」
「都合の悪い質問にはスルーかよ」
「誰も見えない所に祀ればいいんだよ」
「すり替えだな」
「既に論理破綻」
「出たー、勝利宣言ー」
・・・・・・

Bは本当に困ってしまいました。自分を助けてくれた不思議な石を祀ったら、大勢の町人達がやってきて、「これはなんでもない、タダの石だ」と言う。しかも、Bが「考えを変える」と言うまで、町人達は連日やってくる。今まで、ちっともきやしなかったのに。

 全員がこの石に神が宿ると思ってくれなくとも構わない、これを信じてくれる人だけが参拝してくれればいいのに。
 町人達は、考えが甘いとか石を隠せとか言うけれど、自分の寺なんだから何処に祀ろうと勝手じゃないか。
 だいたい、反対する町人達はウチの寺には来なきゃ済むだけなのに、どうしてそれが理解できないのかな。
 町人達は私の考えを変えさせることで、何を望むのだろう?目的は何だろう?
 「この石に神が宿ると思ったことは間違いでした」ってことを認めさせるのが、そんなに嬉しいのかな?
 この論争の先には、何があるのだろう?
 たとえ私が認めたとしても、C、DやE寺院もあるのに、町人達はこういう運動をしに、全部を回るつもりなの?
 頭が悪い連中ほど、人の言い分を見極めることが出来ない。
 自らの正当化された考えを、他人に押し付けようとするんだろうな。
 「信じている」という人間に、それ以上の意見が無意味なことにどうして気付かないのだろう?
 「神の石」を信じるかどうかは、参拝に来た人間が決めればよいことであるのに。
 もしも、「真実」を知っているなら、再び石を見に来る意味がないことも当然だろう?


Bはあれこれ考え抜いた末、A寺を閉めることにしました。何故なら、自分の命を救ってくれた不思議な石を粗末にするわけにもいかないと思ったし、自分の考えを捨てることも変えることも出来ないと思ったからです。こうして、無駄な「神の石」論争は終結しました。

町人達は何を得たのか?「あの石には神は宿っていなかった」という結論?でも、それなら、信じない多くの町人達が「あの石には神は宿っていない」という考えを持つことと、A寺には行かないことで、十分に達成されるはず。それとも、A寺を廃墟にすることで、そうならなかったらA寺に訪れる何も知らない人を、「神の石」という迷信から救うこと?町人達は、迷信防止のパトロール隊なのだろうか?真実のみを求め、それを見ず知らずの人々に広めて歩くという宗派の伝道師なのか?町の何処かに告知板を建てて、「A寺の石には神が宿っていない」と町の人々に告知するだけでいいのでは?その告知板を信じるか、Bの主張を信じるかは、町の人達が決めるのではないだろうか。得たもの―それは、単なるA寺の廃墟だけだ。




司法の変革期?

2005年04月17日 14時15分41秒 | 法関係
検察庁や裁判所の意識は変わりつつあるのだろうか。ニュースを少し。

4月13日付 共同通信より

<平易な言葉で論告求刑 鹿児島、検事の発案で>

「被告人にどれくらいの刑を科すのが相当なのか説明します」。鹿児島地裁で13日、殺人罪に問われた被告の論告求刑公判が開かれ、鹿児島地検の検事が硬い表現をできるだけ避けて平易な言葉を使って論告を行った。
検察庁が作成する起訴状などの文書は、一文が区切られずに長く続く“悪文”で有名。論告も「犯情」「証明十分」など独特の言い回しが出てくるが、裁判員制度の導入が決まり、法律家でなくても理解しやすいようにと、事件を担当した検事が発案した。鹿児島地検によると、全国的な状況は不明だが、ほかでは聞いたことがない試みという。
求刑でも従来は「以上諸般の事情を考慮し、相当法条を適用の上、被告人を-」としていたが、この日は「先ほど見た被告人に不利な情状や有利な情状を考慮し、必要とされる法律を適用した上で、被告人を-」と表現した。




このように、論告求刑の「作文」について、普通の国民が読んでも理解しやすいような配慮を検察官が行ったことに、意外性と誠実さを感じる。それは、被告人にとっても、犯罪被害者やその他関係者にとっても、法や訴訟という向こう側にあるものということではなく、自分達のものということを知覚出来るかもしれない。裁判官と検察官、そして弁護士のやり取りだけ続けられても、普通の人は何が何だかよくわからないし、勝手に続けられているかのようにも感じてしまうかもしれない。だが、法廷に参加している全ての人が共に理解できる検察官の言葉というのは、被告人とか被害者やその家族といった立場を越えて、非常に重みがあると思うし、場合によっては自分の代弁者の言葉ともなり得るからである(このように自分の感情を検察官に憑依させるべきではない、という見方もあるかもしれません。私には真実が判りませんが、犯罪被害者の家族などの立場であれば、被告人を追及することすらできないので、検察官に自分を投影したくなる気持ちは理解できるような気がするのです)。

勿論、裁判員制度を考慮するということが目的であると思いますが、結果として法曹3者による独特の世界ということではなく、当事者本位の法廷ということと、国民の判り易さに繋がるなら、よい試みであると思います。以前検察の作文について批判したりしましたが(市立札幌病院事件7人権擁護法案はどうなるか4)、今後に期待したいです。


そして、もう一つ。

4月16日付 読売新聞より一部抜粋

<裁判員制度、7割が「参加したくない」…内閣府調査>

国民が刑事裁判に参加する「裁判員制度」について、7割の人が「参加したくない」と考えていることが16日、内閣府が発表した「裁判員制度に関する世論調査」の結果で分かった。
裁判員法成立直後の昨年5月に読売新聞社が行った世論調査でも、7割が「参加したくない」と答えている。制度は2009年5月までに実施することが決まっており、現在は周知期間にあたっているが、制度に対する国民の理解が一向に進んでいない実態が浮き彫りになった。




私が聞かれてもやはり「参加したくない」と答えてしまいます。自分に与えられる責任としては重たすぎるのと、やはり仕事を公判の度に休まなければならないことが負担です。「何だよ、今まで散々裁判がどうの、判決がどうの、と記事に書いてきたじゃないか。都合のいい責任放棄だ」とか非難されるかもしれません。まさにその通りだと、自分でも思います。

私には、冷静さが少し欠けているかもしれません。涙もろいし(笑)。遺族の顔とか見れなくなってしまうかもしれないし。傍聴席の人々を相対する席から見た時、泣いてしまったりしたら困るでしょ?そういう不適格な人間ということで、外してもらえたりしないのかな?おまけに、ワイセツ犯罪で捕まった教授や官僚には、妙に厳しく取り扱ったりしちゃうかもしれないし(笑、冗談です)。いやー、本当に自分に当たっちゃったら、悩むねー、やっぱり。



格差社会5

2005年04月16日 18時14分17秒 | 社会全般
前からの続きですが、教育上の格差について考えてみようと思う。
まず初めに、教育問題を研究している刈谷教授や希望格差社会を知らしめた山田教授の著書や論評は、多くの人から紹介・指摘があるので、それらの意見を尊重された方がよいと思う。私は違う意見かもしれませんので、素人の戯言が存分に含まれていることを念頭にお読み頂きたい。


まず、教育は親の収入や学歴といった事柄に大きく影響を受けるので、教育機会の平等が失われており、社会的階層の固定化に繋がる、ということについてです。

結論から言えば、そりゃそういう面はあるけれども、これを「格差」と呼ぶのが適切かどうかということであって、「格差」とか「不平等」ということを取り立てて言うべき現象なのかと疑問に思う。


例えば、親が元体操選手で、小さい時から体操の英才教育をして、オリンピック選手を育てたら、これは格差なのか?両親とも音楽関係の一家に生まれて、世界的に有名なバイオリニストやピアニストになることも格差であり不平等なのか?タイガーや宮里愛ちゃんのような、ゴルフ教育を受けた人は、著しく不平等なのか?こういう例は、親の影響を多分に受けており、機会均等でもなければ、階層化に繋がるのか?素朴な疑問です。イチローやゴジラ松井は、他の選手にはなかった特別有利な環境を与えられており、その格差の結果、成功できたのか?これが、医者一家に生まれた子供が、医者になったら不平等と言う?東大卒のオヤジの息子が東大に入ったら、これは格差のせい?裁判官の娘が弁護士になるのも、機会が不平等?


一体全体、何が言いたいのか分らん。こういう特別な成功例を挙げてもダメだ、という意見もあるかもしれない。確かに全員がこうした成功を収める訳ではない。当たり前だ。でも、どうして、勉強のことばかり比較するのだろう?両親が身体能力が高く、子供が立派なアスリートになったら、これは「ずるいよ」となるのかな?美人のお母さんから、モデルになる娘が生まれたって、誰も文句言わないでしょ。頭脳明晰なお母さんから、勉強の出来る子供が生まれるのとどう違うの?よく分りません。


生き方は家族、特に親の影響を受けることは、当たり前です。犯罪者となった人間の家庭環境を調べてみたら、問題のある家族関係とか犯罪歴や暴力行為などのある親とか(勿論普通の家庭である場合もありますが)、そういうことは調べられているでしょ?スポーツが得意だったり、音楽が凄く出来たり、酪農が好きだったり、読書が好きだったり、影響を受けることは仕方がないでしょ?まさか親を均等にすることもできないでしょう?皆均一な家庭環境なんて出来っこない。こんなの格差でも何でもない。それぞれの家庭とか家族の中にある「文化」が引き継がれるだけだ。その文化の性質や傾向が異なるだけで、格差という問題とは違うと思うが。結婚して思うことは、夫婦は「文化の衝突、出会い」なので一緒に生活すると、思わぬ違いが気になったり、小さな発見をしたりすることもある、というようなことだ。そういう文化は、先祖から引き継いできたものであり、これを統一することなど出来ない。文化は、勿論勉学とか運動とか芸術とか全てに影響を及ぼすに決っている。こんなのは、格差でもなければ不平等でもない。単なる多様性に過ぎない。


公教育に求められることは、そうした全員異なった文化を持つ子供に対して、子供の特徴・能力を伸長させるような方向性や道筋を一緒に探したり、家庭教育の不足を手助けしてあげたり、社会参加の準備や社会性の獲得を促進したりすることであると思う。当然のことながら、全員「逆上がりができること」とか「25メートル泳ぐこと」ということと同じように、「九九ができること」や「漢字100個が読めること」といったようなハードルは設定された方がよいと思うけれども。


とりわけ学力のことだけに関して、「格差だ、不公平だ」ということだけが取り上げられるのも、おかしな話だと思う。何が望みなのか、よく分りません。親が歌舞伎役者の家に生まれたら、継ぎたくないかもしれないが、歌舞伎役者になるじゃないか。そういう文化を持つ家に生まれたことは、選択とか平等とかそういうことには無関係でしょ?これが、しがないサラリーマンの家に生まれることと、どう違うの?酪農家の息子は、家業を継ぐことが多いと思うけれど、これは不平等なのか?歌舞伎役者を継ぐことと、どう違うのだ?これは階層の固定化なのか?だいたい、失礼なんだよ。そういう家業を継ぐ人を、負け組と考えているか、階層の下の方だと思っているんじゃないのか?勉強ばっかりしかしてこなかった教授連中自体が、差別的に考えているんじゃないのか?


大企業に入って社長になりたい人と、すごく美味しいイチゴ作り名人になりたい人と、どっちが偉いとかあるわけ?樹医と呼ばれる樹木専門家と回虫専門家に格差があるのか?米作りの達人と、イネゲノムの研究者はどっちが偉い?本マグロ漁の名人と、海洋生物研究家はどっちが勝ち組なんだ?むしろ、差別だ、格差だ、ということを、声高に主張する人達の方がはるかに差別的か、画一的価値観の持ち主のように思えてくる。人間そのものへの敬いとか、他人の価値観の尊重ということを、無視しているかのように思える。収入が多い、安定している、高学歴といった尺度で見るという、偏狭な価値観で世の中の人々を区分けし、階層だの不平等だのと言っているように思う。これを心が貧しいと言わずして、何と言う?


人は自分の持てる能力を他人の為に使うことによって、その相対的存在意義が明らかとなるように思う。それが社会的な、というか社会の中における個人の存在確認でもあるかもしれない。職業はその最も明瞭な形なのではないか。何だかうまく表現できないが、例えて言うと、個人の才能を自分の為だけに使う人は、歌手として認知されない。そういう能力を持たざる人の為に使うことで、歌手としての存在価値がある。プロ野球選手も自分の為だけに使っても、価値としては特になく、社会的には、そういう能力を持たざる人々の為に使うので、他人から価値として評価される。このように考えると、どのような職業にしても同じなのではないか、と思うのである。私は漁師にはなれないので、そういう能力を持っていないが故に、漁師さんが魚を獲ってくれることに特別の価値があると思っている。自分(私)が発揮できない能力を、他の誰かが代わって行ってくれることによって、社会はうまくいくのではないかと思うのである。

職業とはそうした相対的に認められた価値であるとすれば、どのような職業であろうと、個人の能力は持たざる人々の為に使われるべきで、生きていくときに、「自分の人生を自由に生きる」とどれ程思っていても、間接的には「他人の為に自分が持つ何かの能力を発揮する」ということが必要なのである。これが全くないならば、その人は「自称金融コンサルタント」「自称占いセラピスト」「自称詩人」というような(時々逮捕報道などで、この自称~というのを耳にしますね)自己評価しかないものか(他人からの相対評価がなければ、その能力が発揮されていることが誰にも分りません)、無人島に孤独に暮らすというようなことしかないように思う。


NHK番組の時に、北大教授(スミマセン、名前忘れました)が生活保護のような低所得層の調査をしたら、富裕層に比べ子供の学歴に大きな影響を及ぼしていたということを述べていたが、確かにそういう一面はあるだろう。大学にも行かせられない、という意見も有り得る。だが、現実には、自分で働いて貯めたお金で学校に行っている人もいるし、夜学に通う人もいれば、通信教育で勉強してる人もいるし、新聞奨学生になっている人もいる。勉強を頑張って、もし本当に大学に行きたいなら、いくらでも方法があるのだ。日本育英会とか自治体とかの奨学金もあるし、民間団体の奨学金もあれば、大学の授業料免除規定もあるし、社会人大学院の制度もある。要は、知らないだけか、実行するガッツがないか、はなから単に諦めているだけだ。事実、真剣に頑張っている人達もたくさんいるわけで、そういう例を挙げてもその通りには出来ない、ということを言われてしまえば、じゃあどうしたいの?と思うのですね。能力も努力も足りなければ、そりゃ何だって無理だろう。スポーツも勉強も音楽も、何だって同じだ。むしろ、後天的に獲得できる要素であれば、それほど差が生じないと思うが、生まれつき音楽センスがあるとか、美人とか(笑)の方が、努力の及ばない領域であるかもしれない。


高学歴の夫婦から生まれた子供は、また高学歴となる人もいるかもしれないが、逆に不良になったり落ちこぼれになったりはしないのか?知能の高い親を持つ子供は、皆知能が高いのか?実際は違うだろう。かなり昔に、親の知能と子供の知能についての調査があったと記憶しているが、どのような文献だったかは正確には分りません。内容としては、知能別に上・中・下と分けて(表現が不適切かもしれませんが、お許しを)、両親とも上のグループのうち2~3割は下の子が生まれる。逆に「トンビが鷹を産む」という例に例えられるような、下の両親から、やっぱり2~3割は上の子が生まれる。だいたい、こんな内容だったように思う。どこの部分にスポットを当てるかで、認識も多少変わるような気がする。今度、高学歴とか金持ちの子供で、残念な成績に終わった子供の調査をしたみたらよいのではないですか?成功例を引き合いに出すより、挫折例の方が反発は少ないかもしれませんし。


もしも、金持ちは子供に金をかけられるので、選択肢が広いから、貧乏人から見ると不平等であり、ずるい、ということであれば、全員同じ資産をもつような国家体制にしない限り、解消できませんね。そういう非現実的な解決しかないというのも、余りに馬鹿げた話で、生まれた家の金のあるなしで、何故希望格差に繋がっていくのか、私には理解できません。貧乏な方が逆に偉人伝的で、物語としても面白いだろうと思うけどね。昔から、アニメ・漫画やフィクションの世界では、金持ちで頭がいいのは、イヤミな役とかイジメ役と決っており(笑)、主人公は貧乏でも明るく努力する才能を持つ者と決っている。皆さん、いっぺん、『NARUTO』を読んだ方がいいですね。
はるか昔、シェークスピアの時代から、小賢しい知恵の働く、狡猾で金を持つ人間は「シャイロック」と決っており(笑)、金があることは人間として大切な要素でないことは、4百年前から判っていたでしょうに。



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2005年04月16日 11時49分21秒 | 外交問題
以前書いた記事(中国の軍事的脅威)の続報です。報道によれば、EUの対中武器輸出は見送りとなったようです。反日デモはある意味グッドタイミングで、EU諸国の対中心理を急速に冷やすことに一役買ったようです。やっぱり、嫌がらせとか日本大使館や企業への不当な攻撃は、自らの不利に働くように出来ているのでしょう。昔風に言えば「お天道様が見ている」という感じでしょうか(笑)。EUに対する日米の外交努力が実った形となりました。

Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <武器禁輸>対中国、「早急な解除決定はない」 EU

もしもEU諸国が持つ軍事技術や武器等が中国に渡れば、いち早く近代化が進み、特に航空戦力やミサイルの充実は、日米にとっても大きな脅威となることは間違いありません。これが数年遅らせられただけでも、日本の安全保障には大きな意味があるでしょう。




もう一つは国連の石油・食糧交換プログラムの不正疑惑についてで、遂に起訴にまで発展したようです。

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 国連人道支援事業の不正疑惑、米連邦地検が3人起訴

先日のアナン事務総長の「潔白宣言」で大いに不興を買っておりましたが、中枢部分は何とか決定的ダメージを回避できた模様です。しかし、今後更なる不正発覚もあるかもしれません。裁判中に爆弾発言が飛び出さないとも限りませんから。日本にとっては、アナン事務総長という後ろ盾を失うことは、常任理事国入り問題の後退を意味しており、安心はできません。今まで散々国連に尽くし、更にスマトラ沖地震の時には、国連の枠組みを重視するように米国を中心に関係各国の調整を図って、アナンさんの協力を取り付けられる見通しが立ったと思ったのに、アナンさん本人が疑惑で失脚しようものなら、目も当てられませんからね。韓国の「反グループ4」運動が気になるところです。国連改革の正念場はまだまだ先と言えそうです。