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CS日本ハムの勝利を手繰り寄せた栗山采配

2012年10月19日 21時08分41秒 | いいことないかな
日ハムの3勝で迎えた第3戦。

初回に早くも摂津を攻略。恐るべし、日ハム。3点先制、とな。

恐らく、今後も何事もなければ、ハムの勝利は堅いな。


ソフトバンクは日ハムにも勝ち越しているし、第一ステージを西武との接戦で勝ち上がってきていたので、手強い相手であったはずだ。どちらかと言えば、苦手とする相手だった。


で、迎えた第1戦。
吉川と陽の投げ合いで、息詰まる投手戦。
6回まで、共に無得点のまま進む。

7回のソフトバンクの攻撃。
本多、内川の連続ヒットでノーアウト1塁2塁。
ここで4番ペーニャは、注文通りのサードゴロ。
ゲッツーかと思われたが、大事にいった転送が、ほんの僅かに遅くて、1塁のペーニャが残った。

その後、吉川と小久保の、12球にも及ぶしびれるような対決となったわけである。
吉川の気迫が勝り、三振に打ち取った。

が、鋭いスライダーがワンバウンドだった(それまでの幾度かの変化球にはギリギリでバットを当ててきていたのだった、だからこそ、更なる厳しいボールが必要だったということ)ので、フルカウントでスタートを切っていたペーニャが2塁へ盗塁成功となった。

これが次の多村の2点タイムリーを呼ぶことになった。
多村の当たりはバットの根っこで詰まっていたのだが、それが幸いして、いい所に落ちたのだった。

恐らく野手陣は、ゲッツーを取っていれば、小久保を仕留めた時点でこの回が終わっていたことを悔やんでいたはず。2点が入ったのも、2アウトで自動的にスタートを切っていたことがあったからだ。


この流れは、明らかにソフトバンクに有利なものとなっていたはずだった。


吉川は2点を取られた後も、きっちり三振で3アウト目を取って、エースたるピッチングを見せたのだった。


7回裏の日ハムの攻撃で、先頭の陽(弟の方)がヒットで出塁。
2点差負けの7回、ノーアウト、ランナー1塁。
打線は2番で上位に回る。


ここで、栗山監督の選択は、送りバントだった!
この時、チャンスの芽を感じ取ったハムファンは多かったのではないかと思う。


それは、「必ず点を取るぞ」という決意の表れであったし、この回に得点できれば、きっと8回9回で逆転できる、というような、「迷いのなさ」だった。

そう、吉川の力投に応えるべく、何が何でも1点取るぞ、という決意。うちのチームなら、残り3イニングで逆転できるんだ、という信念。これまでのありがちな采配であると、2点差負けの時点で、残りイニングが3回というと、送りバントを選択する監督の方がかなり少なかったはず。だが、栗山監督は、ここの1点というのが流れを引き戻す重大なポイントだ、と確信していたのだった。


そういったものが、采配に出ていたのだ。
陽は球が上ずり出してボールカウントが先行したものの、送りバントのサインは変えず、2塁に進塁させた。ここで迎えるは、3番糸井。もしもリードが1点だったなら、森福にスイッチしていたかもしれない。だが、2点あった為に、ここまで好投していた陽を続投させた。普通なら、そういう選択は間違ってないだろう。回も7回だったしね。日ハム打線を2安打に抑えていたんだから。


結果的には、高めの球を強振して、糸井の見事な同点2ランが飛び出したのだが、2塁に進塁させたことで投手の陽は「1点もあげられない」というような感じで硬くなってしまったんだろうと思う。それが高めへの失投となってしまったのだった。
普通のパワーなら、あそこの球を引っ張ってホームランというのは、かなり難しいと思うのだが、糸井の素晴らしいパワーがスタンドまで簡単に運んでしまった。


要するに、送りバントで進塁させたこと、これが見事に的中したものだったということ。

しかも、同点に追い付いて、さあ、ここから(投手はワンポイントが投入された)、という場面で、中田が冷静に単打で出塁。これが効いた。本塁打の後に、ランナーなしだし、ついつい大きいのを狙いに行きたくなる所を、無理せずにヒットで繋いだ。

次の左の稲葉だから、たまらずここから森福を投入。まあ当然と言えば当然だ。
そして、注文通りフライで2アウト。

次の小谷野は、レフト線へのヒットで繋いだ。ここでも、中田が1塁から3塁を陥れる好走塁を見せるファインプレー。スタートが悪いとか、途中の躊躇があれば、2塁止まりだったであろう。この1、3塁の状況を作ったことで、森福にもプレッシャーがかかったはず。

左打者が苦戦するであろう森福に対し、右打者が奮起したのだった。
栗山監督はここでも迷わず代打二岡を告げた。
日ハムの代打の切り札と呼ばれている、二岡だ。

右方向へのバッティングのうまさは、ここで生きることになった。
簡単にライト前タイムリーを放ったのだった。お手本のような、左投手攻略だった。逆らわずにおっつけて、コンパクトなスイングでパシッと払うような感じで、ボールを運んだ。


これが決勝点となった。


森福は、西武戦でも窮地を救った、勝利の立役者だ。シーズン中も勝負強さを発揮して、抑え投手の要だった。その森福を打ち、勝ち越し点を奪ったことが、あまりに大きかった。

昨日も糸井に追加点となる2ランを浴びたのだが、初戦の「決勝点を献上」してしまった悪いイメージが影響しなかったかというと、どうだろうか。抑えは、殆どが精神的な所で勝負強さが現れると思うので、涙する気持ちは判るよ。打たれた森福が悪い、というより、日ハムの攻撃陣は効果的に追撃していった、というのがある。

初戦は、6安打で勝利を収めたわけだから。
昨日も5安打で勝利。そういう勝負強さがある。


つまりは、勝負所で栗山監督は1点にこだわった、ということなんだろうな、と。
それが、あの送りバントだった。
あそこでその選択をするのは、逆に言うと「セオリーに反する」とか非難されるかもしれない、勇気のいる決断だったはずだ。
その姿勢が生きた、ということだ。

これがシリーズの流れを作った。
結果的に右打者がヒットを繋いで森福から決勝点を奪えたのも、送りバントや中田のナイスプレーが大きかった。


2戦目も、武田勝の粘り強い投球で失点を許さず、シーズン中と同じく盤石リレーで完封できたのも、初回エラーで挙げた1点を、チームで守っていけるぞ、というような共通の信念のようなものがある。
特に、6回の犠牲フライかと思われた場面で、本塁封殺は凄かった。陽のプレーを一番に挙げていたが、本当にああいう守りが日ハムの特長でもあるから。


素晴らしいチームだな、と本当に思う。
誰が欠けてもできないんだけど、みんながいるとできるんだな、これが。


ありがとう、日ハム。



サッカー日本代表~ブラジル戦の感想

2012年10月18日 20時05分31秒 | いいことないかな
ちょっと空いてしまいましたが。


書こうと思っていたのに、野暮用なんかがあって、過ぎてしまいました。すみません。



試合結果は、ご存じの通り0-4負けと、完敗でした。

内容的には、フランス戦よりも良かったと思いますね。ただ、数字は厳しいものでしたが。


前半の立ち上がりは、フランス戦に比べて格段に良くなっていましたね。
本田が入ったことで、ボールの収まりが向上し、パスも回るようになりました。


逆に言うと、良くなっていたこと、「手ごたえあり」という感触を得られたことが、ブラジルの早い先制点を呼び込んだとも言えるかもしれません。それは、心のどこかに僅かな隙のようなものが生じた、ということです。


1点目は、見事なミドルでした。
が、あれは十分考えられたものでした。フランスの決定力のなさと比べると、やはり「王国」たるブラジルの所以でしょうか。

トゥ気味(ブラジル選手のシュートの多くは恐らくインサイドで蹴ってるでしょう。決定力のあるチームでは確実性の高いキックを選択していることが多いかなと)の回転の少ないボールを蹴って軌道を落ちるようにしていたことと、芝の濡れを考えて、グラウンダーとなるようにした、ということです。キーパーにとっては、エラー率が高まり、押さえるのが難しい球筋となりますから。コースがかなり厳しく、触れなかったですが、もうちょっと内側に来ていても、バウンドした球をはじくのはかなり難しかったでしょう。回転(バウンド)が難しかったから。


本田のシュートも正面に行ったヤツは、同じくグラウンダーとなっていたので選択は合っていましたね。得点確率を上げるには、そうした工夫が必要です。長谷部のいいシュートが防がれたのは、バウンドしてない軌道だったからかもね、というようなことかな。


で、試合展開に戻りますが、心の中では「行けるぞ」という感触があって、先制されても「まだまだ」と思っていたと思います。
最初から最後まで、ずっとそうだったかなと思いますが、真正面からぶつかって、がっぷり四つで、と思ったら、やっぱり相手は横綱であっさりとひねられた、ということですかね。
勝ちを意識するなら、守りを固める戦術を選択することになりますが、それだとロースコアで終われたかもしれません(同じ負けるにせよ)。


それ以上に、今の自分がどの程度通用するのか、ということを各自でチャレンジしたかったものと思います。スコア以上に、「勝負」を求めた、ということですね。そうすると、攻撃面ではそれなりの手応えは得られていたかもしれない、が、返し技はハンパではなかった、ということでしょう。

特に、ボールをカットされた後からのブラジルの攻撃は非常に早く、個人技のレベルが圧倒的で一人ではどうしようもできず、ドリブルや切り返しなんかのスピードと変化にはほとんどついてゆくことができなかった。


でも、こんなチャンスは滅多にないので、スコア云々よりも、勝負したかったんだろうと思いますね。圧倒的な相手には、研究し戦術を工夫しないと勝つのは難しいわけですが、それを敢えて選択しなかった、今の力一杯というのを試したかった、ということです。



お手本としては、例えば3点目の失点ですが、ああいう「滞空時間の長いボールをワザと蹴る、というのは、非常に参考になります。それは、相手の守備隊形を見て、味方の「誰に」ボールを出すのか、ということをかなり明確に意識している、ということです。


接近戦でのボール捌きで負けないぞ、ということだと、ああいうボールを選択するのは意表をついているので、意味があるということです。ゴルフのショットみたいなもので、高く上げれば、割と垂直に近く落ちてくるから、競り合いで勝てると判断した、ということでしょうね。


そう、ブラジルのような強いチームに必ずあるのが、「緩急」。
リズムに変化がある。ドリブルもそう。

一本調子のパスとか攻めとかでもなく、強弱をつけたり緩急をつけたり、というのがある。


日本のチャンスに結びついたりしたのは、例えば、遠藤のチョップキックのような場面。
ああいう変化が、守備側には難しく、シュートまで行かれる、ということになるわけだ。いかにそういう場面を作れるか、ということが課題かな。
あと、裏を取れるタイプのアタッカーがいないと、やはり厳しいかも。

ひと泡吹かせてやるぞ、と思っていたけど、先制点を取られてしまって、難しくした。日本が先に点を取っていたら、少し焦ってくれるとかもあるかもしれないが、そういう余地はなくなってしまったから。

タラレバではないけれど、本田だったかシュートしたら、キーパーがこぼしたシーンがあったよね。あそこで、ほんのもう数歩くらい香川が前にいたら、ゴールできていたかもしれない。ああいうのも、シュート来るとちょっと思ってなくて、虚を突かれてしまうと、優秀なキーパーだってああなる、ということだよね。しかも、バウンドのちょっと変化するグラウンダーだったから。ああいうのも運もあるし、シュートを誰かが打ったら、必ず詰めるとか、しなけりゃならない。


そういや、CKなんかのセットプレーの後で、攻撃陣がチンタラ戻ると、ほぼ何人もオフサイドポジションになってしまっていて、次のプレーでは攻撃できない(オフサイド取られる)、みたいな醜態もなくさないといけない。相手DFが素早くラインを上げている時、それに伴って動きを早くしないと、邪魔してるだけ。そういう気遣いというか配慮みたいなものが、全然できてない。彼らは既に「ワンプレー終わった」つもりでいるかもしれないが、まだプレー続行中なんだから、さっさと戻れよ、ということだわな。味方がボールつないでいる時、タラタラ戻るんじゃねーみたいな。



強引にまとめると、何というか、横綱に自ら敢えて「横綱相撲」を挑んだら、やっぱり横綱は強くて豪快に上手投げなんかを食らってしまった、というようなことですね。横綱じゃないのに横綱のマネはまだ無理、ということかな。



日本の経済学者がノーベル経済学賞をとれない理由

2012年10月18日 18時14分56秒 | 経済関連
当方の感想を率直に言うことが許されるなら、「レベルが低いから」としか思えないわけだが(笑)。

経済学界の方々が色々と言い訳をいくら考えてみたって、ダメなものはダメだとしか見えない。はっきり言えば、「教える側」の問題。学生の質とか能力とか、そういうことではないだろう。教授連中に、ロクなヤツがいない、というのが、根本問題だろう、というのが、部外者のド素人から見た印象だということ。

勿論、優れた業績を挙げている研究者の方々もおられるかもしれません。優秀な先生方がおられることも否定はしません。ただ、当方のような一般人が目にする「経済学」の世界、その語を用いる連中や肩書きを付けている連中の酷さと言ったら、到底あり得ないというレベルとしか思えない。

末端とかじゃなく、それなりの水準が期待されるであろうはずの「教授」を見たって、東大で「この程度ですか」というのが、当方の印象。理系とは大違い。



それでは、「経済学の中の人」の意見を見てみることにしよう。


>http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/121017/cpd1210170503006-n1.htm


世界第3位の経済大国としては意外に思えるが、経済学者からは「日本では政府が経済学のアイデアを採用しようとせず、研究者が生きた経済を直接相手にする機会が少ない」という不満の声がある。長期の経済低迷が続くなか、政府は優れた“日の丸経済学者”の研究成果を取り込む余地がありそうだ。

 「日本は経済学を現実の政策に活用する姿勢に欠ける。それが根本問題だ」。日本人の受賞者が出ない理由について、東京大大学院経済学研究科の松島斉教授は、こう指摘する。松島教授は「自分の理論を実際に経済政策にあてはめることで、生きたデータが入り、さらに研究内容が高まる。日本の経済学がレベルアップするのに必要なのは、研究費増額などの支援ではなく、こういう根本的な姿勢だ」と強調する。



この意見だけ見たって、「ああ、これじゃ、全然ダメだろうな」と、当方のような素人でさえ感じるもんね。そもそもの発想が、自分たちには責任はないが「他の誰かが悪い」というものだからだ(記者氏の意見かもしれないが、経済規模なんて何の関係もないだろうに。意外でも何でもないわ)。


主張をかいつまんで言うと、

①政府が経済学者のアイデアを採用しない
②そのせいで研究者は生きた経済を直接相手にする機会が少なくなる

だそうで。
これが大笑いだ、と言っているのだよ。


大体、経済学の論理も、根底にある実践的理屈も満足に理解できていないような、木偶の坊の学者先生に現実の政策決定をお任せなんぞしようものなら、滅茶苦茶なことになるだろう。教授クラスの経済学者のアイデアを採用なんかしたら、日本は大変なことになってしまう、というような程度の連中ばかりが蔓延っているからだろうに。

当方のようなド素人でさえ考えつきそうなことなのに、それが東大教授なんかであっても「知らない、判らない、答えられない」なんてことがある、そんな程度の連中でしかない、ということだ。


本当に研究をするというのなら、「生きた経済」なんて常に目の前に転がっているじゃないの。ノーベル賞受賞者が、政府の政策決定の立場にいた人ばかりなのか?人間の生活とか日々の活動の中に、「経済」というものは広く浸透しているでしょうが。それが「生きた経済を相手にする機会がない」みたいな言い訳をする時点で、全然ダメと分かるわ。そんなものが通用するとでも思っているのか。

研究対象は、政府の中にあるわけじゃない。
あんたらの「目の前」にあるんだろうよ。常に「いくらでも見つけようがある」というものでしょうが。データがない、というのなら、研究のデザインをすればいいだけだろう。実証したいなら、その実証に必要な証拠を集めるべく、研究の方法を組み立てて、足りないデータを集め続ければいいだけだろう。

何を言ってるんだ。
こんなのが、東大レベルなんだと。
教授ですら、この有様。ひとのせいにするな。実力のなさを認め、自覚するところから始まるんだろうよ。

例えば、「比較優位」という考え方があるだろう。そのような考え方を立論して人々に示し、現実世界でも役立てることに意義があるのだ。それは「政府内にポストがある」とか「政府の政策決定に影響力を持つ」とか、全く関係ないだろうに。つまりは、受賞できない理由付けとして①と②を挙げている時点で、「この程度の説明すら満足にできていない」ということを、実証しているに等しい。


「自分の理論を実際の経済政策にあてはめる」前に、まずはもっと小さい成功及び成果を挙げるのが先決だろう。あんたらの言う「生きたデータ」が欲しいということだけで、何らの能力もない学者連中にまさしく「人体実験」なんぞされた日には、たまったものではないわ。犠牲になるのは日本国民なんだぞ。

この程度しか思いつかない人間にやらせてみたところで、どうせ何らの答えも得ららず、見つけることもできないだろう。ある政策Aを実施したら、確かに「生きたデータ」が得られるかもしれないが、そのデータの中に意味のあるものをどう見つけられるのか、政策Aの成功や失敗といった効果判定はどのようにできるのか、そういう基本的な部分さえもできてないくせに、「ナマの経済」を与えたところで全く無意味。

「日本経済」という巨大なものに対して、「経済政策A」を実施したら、日本経済は「日本経済'」というナマの姿になりました、そうすると政策実施前と後で何が分かると思うか?
いいか、あなた方のような人たちに、ナマの「日本経済’」を現実に与えることになったとして、どうせ何も分からないんだよ。それは、政策実施前に「事前予測」が成り立っていないから、だ。過去のあらゆる面において、事前の予測というものの精度が極めて低く、説明通りになったためしなど「殆ど見たことがないから」だ。そんな奴らに、なんでナマの「日本経済」を任せられるというのか。

手術させろ、と医者が言ったとして、やる前には「やってみなければわかりません」と答えたら、どうする?「実際に手術させてもらえないと、予後が判りません」と言うだけの人間に、あなた方は手術の執刀を委ねられるとでも言うのか?


少なくとも、事前に「こうやったら、こうなるだろう」という予測が成り立ってはじめて任せるんじゃないの。経済学者は、全然違うでしょう?
これまで、専門家だと言ってた連中の説明は、ほぼ「ハズレ」とか「間違い」だらけなんだよ。出鱈目しか言ってないような連中の、何を信用しろと?
だから、生きたデータをよこせ、とか無謀な要求をする前に、これまでのデータの中から何を学び何を説明することができるのか、ということについて、実力を先に提示するべきだ。それができてはじめて、次への段階に進む資格を得ることになるだろう。


日本の経済学の出鱈目さを最も表しているのが、デフレだろう。
当初から間違った答えを言い続けてきたのが、経済の「ナンとか」の類だろう。それは、大学の教授なんかもそう、アナリストだか評論家だかもそう、果ては日銀の中の人たち、霞が関官僚、銀行・証券関係者、経済界のご意見番、等々がこぞって間違っていた、ということではないか。ごくごく一部には傾聴に値する意見はあったが、圧倒的に多くがウソを言い続けたわけだ。
不良債権処理をせよ、不良債権がデフレの原因だ、処理をしなければデフレは治らない、と散々言ってきた連中が大勢いたが、不良債権処理が終わった現在までもデフレのまんまではないか。これをヤブ医者と呼ぶのだろ。ニセ療法を蔓延させてきたのは、経済学者のボンクラどもなんじゃないのか。


日本の経済学界の問題というのは、そんな「生きた経済」に触れる機会の多寡なんかではないぞ。もっと根本部分から正さない限り、決して治らない。「研究」というものは何だろうか、どうあるべきなのか、ということから始めないと、今の出鱈目体質は決して変わらないだろう。ニセ科学やニセ療法の類と見分けがつかない、ということだ。それは、教える側の問題だ。つまり、これまで権威とされてきた側にこそ、解決するべき大問題がある、ということだ。それを正さない限り、無理だな。



記事中から、再び引用してみる。

『また、日本語による論文がネックになっているとの見方もある。ノーベル賞では、論文の引用量の多さが選考に大きく影響するが、日本語で論文を発表すれば海外の研究者の引用は望めない。
 日本経済学会は1995年、英文で出版された学術論文などで国際的な業績を挙げた45歳未満の若手経済学者を表彰する「中原賞」を創設。海外の大学で研究する経済学者など、若手の発掘に寄与している。
 さらに、世界経済が直面している不況の原因や金融財政政策に関しては、日本人による研究の方が、欧米諸国より進展している事例もあるという。』


日本語の問題、というのは、確かにあり得る。ただ、本当に素晴らしい業績を残しているならば、言語には無関係に「教えを請う」という人たちが大勢表れるだろう。単なる言語の問題とも思われない。
それに、英語ばかりではなく日本語でさえ査読ペーパーすらないのに、教授だののポストに就いてる連中が大勢いるではないか。日本の経済学者のレベルなんて、所詮そんなもんでしょ?学位取得だけじゃなく、教授や准教授だって「まともな英語論文」なんて書いてなくても、誰でもなってるんじゃないですか?(笑)


当方は経済学の学術誌でどんなのが著名とか、日本語雑誌で権威あるものとかは知りません。当方がこれまで見かけた論文や大学教授なんかの傾向を見ると、体系化されていないものが多いように思う。30年くらい一途に調べる、というようなことも殆ど見ない。英語論文がイヤなら、日本語論文だけで完結できるような、きちんと体系化されたものを築いてみよ。ニッチな部分を担当する研究者たちが数多く結集するような、地道な積み上げによってのみ、それは達成されるだろう。今の日本の経済学界にできることとは到底思われないが(笑)。


当方の直感だけで表現すれば、マクロ経済(学)というのは、言うなれば人体の全体というか「臨床」系である。これに対して、ミクロ経済学の理論というのは「基礎」系―例えば分子生物学、生化学、生理学…等々―であり、マクロへの裏付けというか理由付けとして本来存在するものであろう。そのような体系化がないのが、日本の経済学である。
そして、滅茶苦茶な理屈を平然と並べ立てる連中が、肩書きと政府(行政)に関与できる立場(例えば各種の審議会委員など)を与えられていることが多いので、余計に事態は悪化するということだ。経済運営は間違った方向へと突き進む、ということである。


そんな連中に、ノーベル賞もヘチマもあるかっての。
そういうこと以前の問題。
まず、学問としての体裁もレベルも「まるでなっていない」としか思えない。そんな胡散臭い宗教じみた学問や学者を、信じろ、と?
妄言を吐く連中を、一体誰が信じると言うのだろうか?


まずは、東大や早慶の「名ばかり教授」みたいな連中をどうにかしないと、日本の経済学がまともになることなんぞあり得ないだろう。



東大とかの「教授」でもこんな感じ、ということで具体例を紹介しておきましょう。


>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/4784b3ea2d589ab6844ccfae7edbf388

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/da594fe367e37bd2e129c1c74a11da30

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/4f863c0f759aaa58a4f101f1c8857aa0

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/d4a16426c59a2c16f8c8db9fa063b815



日本の最高裁は本物の●●

2012年10月16日 20時42分36秒 | おかしいぞ
特捜検察と最高裁の、最強腐敗体制の合作がこれか。

>http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121016-00000095-jij-soci


そんなに検察の権威が大事か。
貴様ら、それでも人間か。
恥を知れ!


法の正義は、完璧に失われたな。
差し戻しもなし、と。

唯一、元検察官の裁判官だけが審理拒否とな。



検索すると出てきました。

参考>http://homepage3.nifty.com/jmaffili/nuclear/eisaku.htm

 >http://www.asyura2.com/10/senkyo78/msg/374.html


水谷建設元社長の証言で、こんなことになった、と。
小沢事件と瓜二つじゃないか。
要するに、前から使ってきた「手口」ということだろう。


日本の検察も、裁判所も、本当に終わってるな。
こいつらは、タダの狂気。


本当に外道みたいな連中というのは、世の中には存在するのな。
人の皮を被った鬼畜だ。


で、プルサーマルに反対していた佐藤知事を特捜権力で逮捕し排除した結果、福島県はどうなった?
ああん?

東電のヤツら、無駄に投資をして、結局廃炉になったじゃねーか。
金をドブに捨てたようなもんだろ。


そのプルサーマルを推進した3号機は、どうなった?
爆発の後、余計に汚染が広がったんだろ。
15日以降の汚染をみてみろよ。

お前らの仕組んだ結果が、このザマだろ。


もう、検察のことを、誰も信じてなんかいねーんだよ。
最高裁のペテンにも、国民は気付いたんだよ。


多大な犠牲を払うことになってしまった、東日本大震災と福島原発の有様によって、目が覚めさせられた、ということさ。



東電も許し難いが、これを推進させた霞が関、特捜検察、そして、そのお先棒を担ぎ続けてきた最高裁以下裁判所、こいつらは本物の悪党だ。


権力を弄ぶ、外道だ。

許すまじ。




栗原裕一郎氏の古市憲寿氏に対する指摘に疑問あり

2012年10月16日 18時30分26秒 | 社会全般
『本当の経済の話をしよう』という対談本の著者らしい栗原氏が、その本の中での記述について、古市氏とやりとりがあったようだ。

>http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20121015/1350305314

記事中で古市氏への反論とか指摘があるようだ(謝罪もある)が、少し気になったので書いておきたい。まず、以下の部分。


古市さんの議論を見ますと、「国民生活に関する世論調査」において、20代の7割以上が生活に「満足」していると示したその次に、小見出しを挟んで、「二〇一〇年を生きる若者は、過去の若者と比べても、「幸福」だと思う」と展開しておられますが、「生活満足度」と「幸福度」は統計上別概念ですので、飛躍しています。

早い話が、「生活満足度」と「幸福度」は別な調査なんだから、古市は満足度が高いからといって「幸福」と言うべきではない、というようなことを言っているものと思う。確かにそういう一面はあるかもしれない。

多分、古市氏としては、「今の若者はそこそこ満足感を得ているわけだから、(周囲がそんなに言うほど)不幸だ不幸だとは思っておらず、案外と幸せに暮らしてるんじゃないの?」という提起(?、主張?)であると思う。僕は今の若い世代の人たちは、自分の同じ年頃の時と比べて、はるかに立派だし偉いと思う(いずれ別に書きたい)。だから、古市氏の意見に対しては肯定的な印象を持ている。そういう主観(バイアス)があるということは、予めお知らせしておきたい。


で、栗原氏の飛躍すんな、というご忠告はまあ聞いておくとして、気になった部分は

 「生活満足度」と「幸福度」は統計上別概念

という部分である。


研究者なら正しいことだけを言うべきだ、というようなことが栗原氏には当然のこととして前提にされているのかもしれないが(古市氏は「幸福だと思う」と言っているだけ=断定ではないのだから別にいいんじゃないかとしか思えないけど)、かなり厳密な水準を相手側に要求する場合には、ご自身でもその水準を当然に遵守すべきであると思う。


さて、話を戻すが、統計上別概念、というのは、意味が全く分からない。統計的に別である、みたいな判定が過去になされているならば、その文献を示せるだろう。普通は、「生活満足度」として、項目A、B、C…を(質問項目として)設定し、それをこの調査報告(論文)中においては、生活満足度と定義する、というようなことが行われているだろう。同様に、「幸福度」なるものについても、何らかの判断基準が設定され、それが調べられているものと思う。


問題は、それらが議論する際の客観的指標として確立されているのか、ということだ。ある調査報告における「幸福」の定義は、他の文献等とは異なっているかもしれない。そのような問題を考えたり、クリアするべき課題なんかの研究結果は提示されているか、というのが気になるわけである。フランスだったか、新たな幸福の指標を研究します、というような報道があったと記憶しているが、多分まだ完成版の指標は作られていないんじゃないかな、と思う(日本は下位だという幸福度の国際比較が毎年出るから、調査ごとで指標が組まれているであろう)。

そういう曖昧でしかない「幸福度」とか「生活満足度」を捉えて、「統計上別概念」なんて、何をもって言えるのか、という話になるわけである。その真意も意味するところも、まるで判らないということだ。統計学的な調査結果に基づいて区別されている「概念」ならば、そういうことも言えるんじゃないかな、という話だ。そんなものがどこにあるのかな、と。それとも、生活満足度が高い人は幸福ではない、みたいな話があったりするなら、教えて欲しい。


例えば、血圧というのは、測定方法とか客観的な数値などでもって、定義される。だから「高血圧症」というのは、具体的な診断基準として示されているわけである。ある数値範囲をそのように「定義しましょう」という統一的基準が作られているわけである。だから、別の先生とか医者が喋っていても「高血圧」という用語が用いられる時には、特定の基準に合致しているというのが前提として理解されている。
だが、「幸福」や「生活満足度」はそうなっているのか、ということである。統計云々で区別せよ、と言えるのは、血圧と高血圧症のような「定義」が確立されたものについてであろう。その為には、まず「幸福」という概念について、統一的定義を確定せねばならない。賛同者が多くなれば、世界中に共通の指標として広まるだろう。
指標を指標として通用するように、統計学的な手法を用いて定義付けできたならば、「幸福度」という指標は「生活満足度」と(定義が)異なります、と言えるんじゃないでしょうか。それは、例えば「平均血圧」と「収縮期血圧」と「平均動脈圧」は違う数値を示すものです、と指摘できるようになるということ。


また、仮に定義できたり、数値化できたりしたとしても、それがどの程度有効なのか、弱点はどういうものか、といった問題は簡単には解決できない。

例えば、痛みの測定という例を過去にも書いたことがあると思うが、また挙げておくことにする。

数値で測れるデータがあっても、指標として問題がないわけではない。
Pain Vision>http://www.gamenews.ne.jp/archives/2007/03/_pain_vision.html


他にも、VAS、Face scale、NRS、質問票などといった指標もある。
>http://maruishi-pharm.co.jp/med/libraries_ane/anesthesia/pdf/40/02.pdf


※ちょっと追加:

何故、「痛み」の測定について例示したか、というのを書いてないと判ってもらいにくいかもしれないですね。
それは、「痛み」というものが各個人によって感じ方とか答え方とかが違う、というものであるからです。傍から見て「オレならあんまり痛くなんかないよ」という程度だとしても、当人の感じ方は一致しているとは限らない、ということです。人によって、結構違う、そういうものだということです。「幸福」というのもそれに似ており、周りからは「十分幸せそうだ」と思っても、当人にとってはそうではないこともあるし、逆もありますね。「こんなどん底生活の何がいいの?」と見えるような人でも、「幸せに感じる」という人はいくらでもいると思いますので。
つまり、中々評価が難しい、ということであり、かなり主観による(個人差、感受性も異なるかもしれない)部分もあるし、当人以外からは確認のしようがない・確かめることが難しい(再現性も難しい)というものであるから、ということで例示しました。


指標というのは、定義ができたとしても、それぞれに利点・欠点などもあったりして、組み合わせなどで総合的に判定するということになるのが普通、ということ。幸福度と生活満足度の指標構成がとても似ているとか近いというものだったり、比較的強い相関の存在があったりということであれば、幸福度を測定できずとも、代替できうるという議論は成り立たないわけでもありますまい。


仮に、栗原氏の言うWVSのデータの信頼性が高いのが事実であるとしても、それだけでは判定が難しいかもしれないし、内閣府調査を否定する材料とか根拠になるとも限らない。それぞれのデータの持つ意味とか、定義とか、問題点などを比較してみない限りは何とも言えない、というだけでは。
WVSが優位(正しい)で、内閣府調査はダメ(間違い、信憑性欠ける)みたいな言い分は、現在のところ主張できるものとは思われない。どこにも、そういう検討結果が示されていないからである。それとも、若田部教授か栗原氏がそういう検討結果を出した、或いは誰かの論文で既知となっているということでもあるのだろうか。単純に「WHOのデータは正しく、厚生労働省の出したデータは信頼できない」とか、何の根拠もなく主張するのと似ている。


つまり、たとえ古市氏がWVSを知らなかったとしても、古市氏の論を覆せるだけの根拠とはなっていないということである。「内閣府調査はWVSより信頼できない」と考える根拠について説明できた(主張した)者であれば、どうして内閣府調査を使ったのか、と問い詰めることもできるだろう。挙げる理由として、サンプルの問題とか長期の調査での統一性とか、不備となる点を指摘できるならどちらのデータを信頼するか、という話ができるかもしれない。



次に、以下の部分。

こちらを見ても、世代ごとの幸福度、および推移に有意な差はありません。せいぜい、日本人は全体的に「幸福」になっているかなという程度で、若者(15-29歳)の幸福度が他の世代に比べて特に上がっているということはできそうにありません(データの取り扱いに関しては、飯田泰之氏に助言をいただきました)。

WVSのデータの有意差検定をした、ということなのだと思うが、当方もちょっとやってみた。すると、15~29歳の90年と2005年だと有意差あり、という結果となった(81年と05年の比較であると、P<0.05には僅かに届かない)。

カイ二乗検定で、P<0.01には至らなかったが、P<0.02の危険率で有意差あり、だった。また、81年~05年の15~29歳はP<0.1水準で有意差あり、だった。

(因みに、例の上限金利問題での早大教授の坂野ペーパーでは、確かP<0.1という水準の”有意差あり”の判定だったが、それを有難がって金科玉条のように正しいものとして取り扱っていた方々を飯田先生がご存じないはずもなかろう)

検定方法の選択や計算が間違っているかもしれないので、自信はないです(参考までに90年当時の若者というのは、私がその世代ですが、今の方が幸福感は高いですね)。もし、よい検定結果なりを持っている人がおられたら、是非ご教示下さい。


とりあえず当方の検定が正しいとして、早い話が、90年に大卒の22歳だった人と05年の同じ年齢の人を比べると、05年の人の方が総じて「幸福度」は高いだろう、ということだ。古市氏の論が、必ずしも間違いとも言えない(内閣府調査のデータは全く見てません、WVSの数値を検定するのが精一杯で)。

栗原氏の言う「有意差なし」という判定は、どういう比較だったのか判りませんが、81~05年の5つの数値が、3世代間で違うかどうか、ということを見たのかもしれない。それだと、確かに有意差は見られなかった。
ここで重要なことは、栗原氏が古市氏に指摘するなら、検定方法と結果くらいは示せるはずだ、ということ。有意ではない、と著者に言うからには、その根拠を言え、ということだな。


統計的な検討というのは、まあ、古市氏あたりもやった方が良かったのかもしれないが、必ずしも議論が的外れ、ということにはならないのでは。根本的な問題としては、幸福度を扱うのであれば、まず「幸福度」とはなんぞや、というのを定義するところから始めるべきであろう。
そういうのを飛ばして、とりあえず「時流」を言う(具体的な例としては、『パラサイト・シングル』とか『下流社会』なんかの言説)のであれば、事足りるということなのかも。その方が個人としては注目されたり、本が売れて儲かったりするし(笑)。そういうのが気にくわない、ということなのかもしれない。

地道に積み上げる研究みたいなのを学界全体とかが「やろう」という風潮・慣習?にならないと、多分変わらないんじゃないのかな。神学とか哲学みたいなものの延長で、「誰という(偉い・有名な)人がこう言ってるor書いてる」というのが重視される、ということ。それは、日本の経済学でも五十歩百歩なのでは。殆どの「経済学者」とかいう肩書の連中だとか、経済学に詳しいとか、金融財政のナントカみたいな専門家面した連中が、好き勝手なことを言ったり書いたりしてるから、まずは経済学の世界こそを浄化してみるべきなのではないのか。まあ、これも本題ではないから、別にいいか。


結論を言うと、古市氏の言い分に「そう目くじら立てるほどの事でもない」としか思えず、大袈裟に「有意差アリだ、ナシだ」とツッコミを入れるほどの議論でもないのでは。いや、厳密にしっかりと研究をやりたいというなら、若田部先生でも他の誰でもいいけど、定義から結果まで出せばいいんじゃないでしょうか。
ま、偉そうに言う学者先生方が、上限金利引き下げ後に「闇金が増え(る)た」とかいう口から出まかせみたいな意見を、誰一人として「有意差アリ」を立論できた人間なんぞいなかったでしょうに。他人には、「有意差ありのものについてのみ、言え」で、自分はどうでもいい、という論かな?(笑)


寧ろ「経済学を騙った(学問の装いをした)」ウソ八百や出鱈目言説の方が圧倒的に害悪であり、現実世界に多大な悪影響を及ぼしており、真に矯正し浄化すべきは「経済学」の世界の連中である、としか思えない。


少なくとも、栗原氏と若田部教授には、

①WVSのデータが信頼性高く、内閣府調査はダメ(→だからWVSのデータを用いるべき)
②WVSデータで有意差なし(→だから古市論説は主張できない)

をまず立論するべき義務があるでしょう。
それができないなら、指摘したこと自体が間違い、ということですな。古市氏の議論に穴があるとしても、それと大差ないのが栗原氏と若田部教授の意見であるということかと。



上記をまとめると、当方の意見としては、

①に対して:
・そんな証拠がないならWVSを重視すべき理由は見い出せない
・「幸福度、生活満足度」の指標・調査方法等の違いがあるのは止むを得ない(幸福度の定義が不明確だから)
・幸福度判定をするにしても、単一数値は要注意(いくつか組み合わせを推奨、総合的に判断すべき)

②に対して:
・90年と05年の15~29歳において、有意差あり(0.01<P<0.02)
・81~05年の15~29歳の5つの数値において、有意差あり(P<0.1)
(ともにカイ二乗検定)


ということです。




深夜の轟音

2012年10月15日 13時46分24秒 | 俺のそれ
オスプレイが無理矢理やってきて、夜間の飛行訓練を増やすということらしい。


>http://www.asahi.com/special/futenma/SEB201210130072.html?ref=chiezou


【木村司】米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に配備された新型輸送機オスプレイ12機の本格運用が近く始まる。旧型の輸送ヘリと比べると、普天間飛行場では夜間や早朝の使用が3.7倍に増え、訓練の回数は伊江島で2.3倍になる。そんな実態が、米海兵隊の環境審査報告書から浮かび上がった。

 報告書は配備後の環境への影響について米側がまとめ、防衛省が6月に公表した。その内容を詳しく見ると、オスプレイが拠点とする普天間飛行場では全機種の年間訓練数が11%減の2万780回になる。だが、旧型ヘリとオスプレイでは、午後10時~翌午前7時の離着陸訓練回数は年76回から280回に増える。

 深夜や早朝の普天間の使用について、日米政府は96年に「必要最小限にする」とする騒音防止協定を結んだ。今年9月の安全宣言でも同じ文言を繰り返した。県幹部は「夜間や早朝に4倍近く増えるのに、『必要最小限』と言えるのか」と疑問をはさむ。


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もうごり押し以外のなにものでもない。
嫌がらせを意図的にやっているだけ。


正体はよく判らないが、今日の深夜1時すぎくらいだったか、飛行機の爆音が聞こえていた。
ヘリの音ではない。これは間違いない。
かといって、ジェットではなく、確実にプロペラ機の爆音だった。


深夜の貨物便の飛行ということはあり得ないわけではないかもしれないが、飛行ルートとしておかしいし、低空を飛ぶというのもほぼ想定できない(加えて、ジェットでないことも)。


あり得るとすれば、自衛隊機か米軍機だろう。


自衛隊機であると、プロペラ機が住宅地の上空を「比較的低高度で」飛行する、なんてことはほぼ想定できない。
日中に飛行機の轟音は遠くから聞こえてきたことはあるけれども、それは屋外にいるから聞こえる程度のものであり、肉眼で飛行機を発見するのもかなり難しい、というくらいに遠いはずだ。かなり注意をこらしていないと発見が難しい、という程度のものだろう、ということ。


しかし、今日の深夜の飛行音は全然違った。
地鳴りのするような、グウォーンというくぐもった音と、ブーンというプロペラ機によくあるパターンの音が混ざりあったような低い轟音だった。それは、室内にいて、テレビ等モニターからの音声があるにも関わらず、はっきりと聞き取れる音だった。ドップラー効果が実感できる、段々近づいて遠ざかってゆくという音の変化もきちんとあった。


自衛隊や報道?ヘリが飛ぶ時にも、室内にいて音が聞こえることがあるが、そういう「低い飛行高度」じゃないと普通は聞こえない。なので、あのプロペラ機の正体が気になる。

まさか、沖縄のオスプレイがこんな遠くにまで飛んできた、ということを言うわけではないけれども、あり得なくはないかな、と思う。だって、姿さえ見られなければいいはずだしね。燃料を入れて戻れば、何の問題もないわけだから。米軍がこっそり何をやっているのか、というのは、知る由もないわけだが、もし日本全国をくまなく飛ぶ訓練をやるとなれば、それは何の為なのだろうか、とは思う。

実際、示された訓練ルートは、全国のあちこちに設定されており、日本の国土のかなりの部分をカバーしているからね。


>http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_pol_seisaku-anpoboei-beigun20120723j-01-w360


海兵隊は、日本占領計画でも持っているのか?(笑)



サッカー日本代表、フランスに勝利で見えたこと

2012年10月13日 16時21分53秒 | いいことないかな
日本の代表チームがフランスに初勝利、ということでした。

頑張ったな、と思いますが、ザッケローニ監督は強豪相手に敢えて「ハンデ戦」でも挑んだのかな、という感じでしたね。


前にも書きましたが、「マイクの1トップ」はほぼ絶望的である、ということが、改めて立証されました。ことごとく合っていない、ということですね。

(http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/c4be765c66fad5238b5a31184eb4851a)


恐らく、ザック監督は「マイクの頭」+酒井・清武(長友)のセンタリングがどの程度通用するのか、見てみたい、ということだったのかな、と。


まあ、格下相手であれば決まるかもしれませんが、そこそこ強い相手であるとまず「ダメ」だな、ということが判明した、というところでしょう。


オプションとして、あり得ないわけではないと思いますが、現状ではハーフナー・マイクを代表に残しておくメリットというのが殆ど思い浮かばない。


特に惨憺たる結果となった前半が象徴的かと思いますが、「パスコースを生み出す」動き=ボールをもらいに行ける動き(プレスを受けている味方に対する支援)がきちんとできてないと、繋がらなくなるのは当然。


で、読まれてもキープできる対人戦での強さ(1対1)がなければ、簡単に奪取される。


マイクを残す理由としては、ハイボールに競り勝てる、ポストプレーができる、ということ以外にはありえず、それが無理なら日本の「パスサッカー」のスタイルを殺してまで、1トップに入れる理由というものはない、ということです。全く通用してない。


得点できたのは、展開サッカー、パスからサイド攻撃などのスタイルがあったから、であり、マイクのサッカーは全然違う。


長いピンポイントクロスを入れる→ヘッド競り勝つ→チャンス作る

という流れを生み出せないなら、殆どいる意味がない。パスで後ろから繋いで、前にボールが入ると、相手に全部拾われる、ということでは、攻撃できない。


更に、決定的なことを感じましたな。
それは、マイクを入れると、香川が死んでしまう、ということです。

香川の良さを出せなくなる、或いは香川を活かせなくなる、ということです。
マイクに合わせるのは、割と単調なサッカーで、動きの連動とパス交換や飛び込みなどから生まれるチャンスとはちょっと違う。マイクは、そういう動きができない。


なので、香川が細かいパスやドリブルなどのサッカーをやろうと思えば、マイクの存在は殆ど役に立ってない、ということだ。
更に言えば、憲剛の良さは前田や岡崎などの、走り込めるアタッカーがいる時、威力を発揮する。だが、マイクはそれに全く合わない。その上、守備と走力が前田や岡崎の貢献度は非常に大きい、ということも明らかとなった。

憲剛をトップ下に入れるなら、佐藤とか宮市などの方が合うはず。
スペースに走る速度がある選手ほど、憲剛のスルーパスの威力が発揮されやすいから。


総合すると、マイクが入ることで、日本の良さの大半が失われる、ということを意味する。
ハーフナーが香川(或いは憲剛)を殺す、ということ。


1トップに岡崎や前田のような小兵タイプではなく、屈強型を入れるにしても、フィジカルが強くキープ力と足元の捌きのできる本田のような選手じゃないと、日本のサッカースタイルには合わない、ということではないかな。つまり、少々の高さを犠牲にしてでも、他の要素を重視すべき、ということだ。

ハーフナーoutで、得点を上げたのはまさに象徴的と言えるだろう。


局面を変える必要がある時には、タワー型を投入するより、パスの受け手を増やす、ということを重視する方が日本のスタイルには合っているんじゃないかな、と思う。

フィジカルの強さに自信のある欧州勢とか、豪とか、そういうチームならハーフナーのようなタワー型でもいいと思うが、それと同じような戦術を日本が選択するのは難しい、ということ。


ただ、パスサッカーが通じない時には、カウンター狙いでもいける、ということは、五輪も含めて「形が見えてきた」ということはあるかも。ポゼッションで圧倒的に不利になっても、戦い方はあるんだ、ということである。守備陣は大変だろうと思うけれど。GKが神セーブ連発を求められることにもなりかねないんだが(笑)。
これは、「なでしこサッカー」の最大の恩恵だよ。
圧倒的に攻められても守備で耐えて勝つ、という見本を示してくれたことに感謝しましょう。


そういえば、日本の代表レベルで成功できた大型FWって、殆ど浮かばないような気がしてきた。
それほどFWの活かし方が難しい、ということかな。



iPS細胞を巡る読売新聞のデマ記事連発?

2012年10月12日 18時46分25秒 | 社会全般
何故か、讀賣新聞にだけ特ダネを提供しているらしい、研究者はどういう繋がりがあるのかな?


>http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121012-00000027-asahi-sci



東京医科歯科大は12日記者会見を開き、日本人研究者が同大と、iPS細胞(人工多能性幹細胞)を使ってC型肝炎の新しい治療法を開発したとする読売新聞の2010年の報道について、「同大で研究実験を行った事実はない」と発表した。

 この研究者は、東京大病院の森口尚史特任研究員。11日付読売新聞は森口氏が、iPS細胞を重い心臓病の患者に移植する治療に成功したと報じたが、森口氏が客員講師を務めていると自称する米ハーバード大などは11日、「彼に関するいかなる研究も承認していない」との声明を発表している。

朝日新聞社



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心筋の治療を行ったという記事が一面に出されたが、それは、どうも嘘っぱちのようだ、という懸念が広がっている。

11日の記事だけではなく、過去の記事でもデマだったようだ、と。


讀賣って、工作員っぽい連中との特別な繋がりでもあるんですかね?

だって、他のどの報道機関も相手にしてなかった、件の研究者をとりわけ熱心に報道しているわけで、そういうデマ記事で「地位を捏造してゆく」というようなことが過去にも行われてきたということでしょうかな?


何か裏がありそう、とは思いますわな。



マスコミが信用ならない、ということの、よい例では。



公安のお仕事

2012年10月12日 16時53分10秒 | 社会全般
何か、色々とあるんだね。

>http://togetter.com/li/388462


規制庁の監視には、非常に特殊な警察権力がついているということのようだ。
つまりは、警察の勢力圏内ということでしょうか。

うーん、ちょっとよく分からんな。

公安の人だとして、何をやっているのか、というのが気になる。
危険人物の割り出し、とか?


ところで、公安の情報流出事件、あれ、どうなったの?
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/a81fdd009eee2ea599626b1c94d03fb5


うやむやにして、結局犯人の割り出しも全然行われていないわけ。
内部犯が最も疑われるのに、全然捜査されてない。
ヘンですよね?

ヤラセであると、事件そのものが作られているから、犯人なんか勿論逮捕できないわけで。


で、イスラム教徒の人の裁判はどうなったの?



それから、映画の外事警察ね、全然ダメだったんじゃないですかな?

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/02e939cdb5134570fc69b8130f6a5635



興行収入は4億円行きましたか?
当方の予想は、

『ああ、それから、外事警察とかいう映画だけどね、せいぜい「書道ガールズ」みたいなドツボにはまらないことを願ってますわ。
予想は、興行収入3億行けばいいほうじゃね?』

と書いておいたわけですが。


で、中国人スパイの話ですが、不起訴で終わったんですよね?(笑)

>http://mainichi.jp/select/news/20121006k0000m040054000c.html


身分を偽って外国人登録証を不正に更新したとして、外国人登録法違反(虚偽申告)などの疑いで書類送検された在日中国大使館の李春光・元1等書記官(45)について、東京地検は5日、不起訴10+件処分(起訴猶予)とした。

 地検によると、李元書記官は外交官だったにもかかわらず、08年4月10日、東大研究員と職業を偽って外登証の交付申請書を東京都葛飾区役所に提出し、外登証を不正更新した。

 李元書記官は警視庁公安部の出頭要請に応じず、5月23日に帰国。地検は処分理由を「既に帰国していることや、外交特権を持っていた時の行為だったことを考慮した」と説明した。

 李元書記官は対中農産物輸出事業を巡る農林水産省の機密文書漏えいに関与したなどの指摘があったが、同省の調査では確認されなかった。地検はこれらの問題に「捜査したかも含め、コメントしない」とした。


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日本の外事警察とやらは、「お宅、スパイなんでしょう?ちょっと署まで来て下さい」と呼び出して、何故か悠々と外交特権保持のまま悠々と帰国させる、ということらしい。

マヌケ。
本当に、そんな警察があるのですか?

どこの部署が担当なのか知らんけど、こんな無力な体制なら、意味ないわな。


警察がバカ、と宣言しているに等しい。


だが、国内では、市民の監視は得意、と。




山中教授のノーベル賞(医学生理学)受賞について

2012年10月09日 20時08分22秒 | いいことないかな
大勢の方々の祝福があったものと思いますが、おめでとうございます。


大変素晴らしく、喜ばしいことではあります。


思うところを少々述べておきたいと思います。

08年以降の日本人受賞者が多い、というのは、それなりの事情と言いますか、理由が存在するであろうというのが、当方の受け止め方です。

いくつかの見解が存在するものと思いますが、例えば「日本人の業績は正当に評価されることが少なく、どうしても欧米圏に負けてしまう。それが段々と評価してもらえるようになった」というような意見があるやもしれません。

あくまで賞ですから、これは歌であろうと映画であろうと文学であろうと、素晴らしいものは多くあっても、選ばれるのはその時の運もあるし、賞は一つだけなので選外となるのは仕方のないことではあります。


08年以降の受賞者数は、目を見張るものがありますよね。
それは、裏を返せば「日本には、世界を引っ張るリーダーとしての振舞い」が求められている、ということです。どうしてかと言えば、欧米が苦しい状況であればこそ、「日本よ頑張れ」と。そういった感触を、当方は受け止めています。リーダーとしての振舞い、これは、どういう意味なのか、お考えいただければ。


受賞すると、これは素直に嬉しい、これに尽きますね。研究者の方々にとっては、本当に励みになると思います。また、山中教授が「日本が受賞したもの」といったニュアンスで述べておられましたが、確かにそういうことだろうなと思います。受賞者がとても謙虚なのは本当に素晴らしい方だな、と思いますけれども。


山中先生は、いつかは取るだろう、と目されてきて、あとは「いつ受賞するか」ということだったろうと。受賞時期だけの問題、という意味です。


そう考えると、今回の主役は、やはり『Dr.Gurdonガードン』への授与ということかな、と思いました。山中先生は、Dr.ガードンが受賞してなければ順番は後年に持ち越されていたかもしれません。Dr.ガードンの功績は長年経っているし、年齢的にも受賞して当然ということがあるから。


>http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2906647/9653868?ctm_campaign=txt_topics



クローンというのは、SFとか漫画や映画の世界にも、多大なインパクトを与えることになりましたしね。
道具立てというか、筋というか、そういうのに欠かせないものとなったということです。


フランケンシュタインの、やや残念な低い完成度(実際にはあり得ないもの、というレベル)から、随分と現実に近づいた話となっていきました。


だから、ガードン先生にも盛大な拍手と賛辞をお送りしたいな、と思います。
おめでとうございます。


日本人受賞者は勿論大事なんですが、報道機関には先人の研究・業績にも目を配ってもらえればと思います。



栗山監督率いる日ハムは何故優勝できたのか

2012年10月08日 18時42分45秒 | いいことないかな
少々時間が経ってしまいましたが。


監督をはじめ、コーチ、スタッフ、選手の皆さま、おめでとうございます。
ファンとしても、大変嬉しいです。

CSと日本シリーズに向けて、気を引き締めて臨みましょう。
まだまだこれからですので、喜んでばかりもいられません。


全部終わってからでもいいかな、と思いましたが、小括ということで、振り返っておきたいと思います。


今年心配されていたのは、やはりダルビッシュの抜けた分をどうするのか、ということだったでしょう。ケッぺルも直ぐに離脱してしまったので、25勝くらいがボコッと無くなった勘定でしたね。


ソフトバンクも杉内とホールトンが抜けてしまったので、似たような状況であったかもしれません。
それでも、日ハムは優勝できました。それだけチーム力に優れていた、ということだろうと思います。


要因としては、やはりチームのスタイルというかカラーがある程度出来あがっている、ということがあると思います。

一つは、育成からのチーム編成ですね。自前で育てるという成果が積み上げられてきたことだと思います。結果として、2軍から上がってきた選手がチーム力をカバーする、という土台部分があるかな、と。
賢介が怪我で抜けたのも、あまりに痛い(本人にとっても辛く苦しいでしょう、前にもあったので余計に…)ということでしたが、このピンチもみんなで乗り切ることができました。


もう一つは、ベテラン陣が優しく穏やかなのかな、と(笑)。
巨人なんかが顕著かなと思いますが、ネームの凄いスター選手が多くいるわけですが、それと比べると日ハムには強烈なスター選手がいません。
成績は素晴らしい選手は勿論いるのですけれども、あまり「オレオレ」っぽい面がないように思えます。多分、先輩方が皆さん優しいからかな、と。稲葉さんとかがそうかなと思いますが、「自分がしっかりしなきゃ、頑張らなきゃ」、とは考えると思いますし競争もあるとは思うわけですが、チームの為ならどんなことでも我慢できる、といった雰囲気があるかな、と。


中田は以前に「清原」タイプを目指していたかもしれませんが、最近はそうでもないような。3年目か4年目くらいからグッと大人になり、プロらしい顔つきと言動になっていきました。守備も随分と頑張ったしね。昨年から4番を任されたりもするようになりましたが、プレッシャーにもなって、苦しんだりもしたかな、と思います。

今年は、栗山監督が「今年は中田と心中しよう」という心意気で臨んだので、一度も外れることがありませんでした。中田が開幕からずっと打てず、初ホームランが出た時、栗山監督は涙しましたね。あの時、「ああ、今年は栗山監督は中田と心中を決めているな」と感じました。それは、中田の今後、10年、20年という選手生活のことを考えてだろう、ということです。それは、ハムの4番として、できれば「金本さんのように」長い期間活躍してくれるような選手になって欲しい、という気持ちの表れでした。


中田にしても、稲葉さんや他の4番を打てる先輩方もいる中で、苦しいし重責を感じないわけがないし、ということだったろうけれども、他の先輩方はあんまり言わないんだろうな、と。応援はしてくれるけれど、「何で打てないんだ」的な責める雰囲気とかは、あまり感じなかったのではないかな。ただ黙って見守ってくれる。そういう先輩方の気持ちに奮い立たないわけにはいかないもんね。夏以降に、かなり貢献できるようになって、「中田の一打で勝てたな」という試合が増えていった。そうやって育てなければ、育つものも育たないから。もしも中田が阪神なんかに入っていたら、あっという間にスタメンを落とされていてもおかしくなかったはずだ。甲子園の罵倒ヤジの嵐に遭っていたかもしれないね。だけど、日ハムのファンはそういうのはないから。ひたすら応援するだけ。


日本全国に名を轟かす大スターではないかもしれないが、ファンにとっては「偉大なスター」ですから。日ハムは、チームの為に仕事師に徹することのできる選手が集まっているのだ、ということです。自分の仕事を理解し、それを完遂することを目指す。それがチームとしての強さを生んでゆく。


投手陣は、これまでの蓄積がやはり大きく、中継ぎ、抑え陣の貢献が本当に大きい。先発では、武田勝、吉川がチームを引っ張った。心配なのは、宮西や増井の疲労蓄積かな。何年も連続で登板試合数が多くなると、大丈夫かなと心配になるから。今後、勝ちゲームの中で余裕がある時には、若手の登板機会を増やせるといいかな、と思います。


最後に、栗山監督はかなり信念の人だな、と。
栗山さんは、選手時代に控えの苦しさを十分に知っている人だから、チャンスを与えられることがどれほど嬉しく重要なのかを選手と同じく分かっている。自分自身が大スターではなかったからこそ、常に誰かの陰になってきたからこそ、選手起用に関しては選手の気持ちが分かるのではないかな。


日ハムは、看板選手に頼り切るというチームではないからこそ、ダルビッシュが抜けても、中田が打てない時でも、賢介が怪我で戦列を離れても、戦い続けられるチームなのだ、ということでしょうか。最終的には、個々の選手が能力を発揮してもらう、それしかないわけで、その総合力としてバランスのとれたチームなのだろうな、と思います。そういう意味では、プロ意識の高い選手たち、戦い方を身に付けている、ということで、素晴らしいチームに成長したのだな、と思います。ファンが愛するわけです、ホント。



『MAZDA CX-5』に乗り換えてみた

2012年10月06日 15時57分34秒 | 俺のそれ
これまで幾度か記事にも書いてきましたが、ハリアーハイブリッドから乗り換えることにしました。理由は、ハイオクが高いから、ですね(笑)。

ハイブリッド車の燃費について、6年乗った当方の経験的な数字でいえば、夏場のいい時でも12~13弱(km/l)でした。高速を使うと、若干悪くなります。気温が下がると、モーターパワーが落ちるのとエンジン始動が多くなるので、燃費が落ちます(今年の夏は非常に暑く、燃費向上には大きく貢献)。
冬期間の不利はかなりあり、回生ブレーキの効果は激減、暖房(解凍)の為にエンジンが動く時間が長くなる、車重がアダとなる、といったデメリットが大きかったのです。


そこで今度は、ディーゼルを選択してみました。燃費向上と熱効率の高さで、文句なく本車CX-5を選びました。いくつか気付いた点について、書いてみたいと思います(車種は、2.2ディーゼルのXD4WD Lパッケージ)。


試乗した時にも感じた、あの独特のエンジン音は馴れが必要です。ハリアーのエンジン音や振動が静かだったこともありますが、やはり当初は気になります。ドロロロロロという、何というかちょっとガチャガチャ?したような感じ(音のガチャガチャではなく、「がさつ」というか「うるさい」というか「ザラザラ」というか、そういうこと)です。バイクみたいに音自体が大きくても、ガソリンエンジンの音であると受ける印象がちょっと異なるタイプのものです。ああ、ディーゼルだね、って感じのものかな、と。これは人によって好みや気になる度合いが異なるので、あまり重要ではないでしょう。


運転開始から約700kmくらいですが、燃費実績は約13.5~14km/l、です。
遠出するとか高速利用であると更に伸びると思われます。殆ど街中での使用でも、前車より向上しています。普通に走っているだけだと、14km/l以上は行けます。落ちる理由というのは、後述します。
5速以上のギアでの燃費は殆どの場合平均燃費以上に良く、高速道路で一定速度を維持する場合には、20km/l以上で走行できます。以前のハイブリッド車との決定的な違いはここにあります。

走行感は、重さを感じず(前は非常に重かったから)、トルクが420N・m(!)と高級高出力車と遜色ないので、パワー不足でストレスを感じることは殆どないでしょう。2段階目のターボが利く瞬間は、割とはっきり体感できます。ググっと盛り上がるエンジンは、本来持つ能力が開放されて、一番良い感触を発揮します。「ディーゼル音的ドロロロ感」(しつこくてゴメン)は殆ど解消され、若干うるさいけれども、気になる度合いは低下します。恐らく、ソフトに走る時にはドロロロ感が最も気になり、高速になるほど度合いは低下してゆく、ということかと思います。

燃費とパワーに関しては特に不満はなく、ハイブリッド車からの燃費向上は評価できます。冬になると、更に差がつくことになると思います。


残念な点としては、後部座席の居住性はハリアーに比べ悪くなっていることです。サスの拾い感も振動が伝わりやすいですが、それ以上に不満なのは狭いことです。ホイールベースの長さが若干短いのかもしれませんが、シートの移動が不可能になってしまっていることが、最大の要因かと思います。後部座席のシート位置を後退させられないのです。固定のまま。トランクルームが満杯になるほどの荷物を積む機会など、普通の人ではそう多くないでしょう。大型の荷物を積む場合には、後部座席に人は座らず、シートを倒せばいいわけで、普段の生活でトランクルームを広々とっておくことの意義が判らない。特にファミリーユースということなら、人が座る機会は多くても、トランクを目一杯使いたいという機会の方が少ないとしか思えない。

喩えて言えば、日常最も使う居間が8畳なのに、滅多に来ない来客用に客間8畳を取るようなものです。そんなことをするくらいなら、居間に10畳とか12畳とか広くとって、いっそ稀な利用の客間をなくしてもいいくらい、ということですよね。トランクルームはあった方がいいですが、今のような配分である必然性というものが理解できない、ということです。実際、家族からは不満の声が出ました。
価格を下げる、重量を軽くする、ということを優先した結果ではないかと思われますが、後部座席の狭さと居住性は犠牲になったかな、という気がします。普通の乗用車の感覚であれば、そう問題ないのかもしれませんが。


ATの設定にも疑問点があります。
マニュアルモードというのがついているのですが、ギアの選択は速度の制限域が厳密に決まっており、その範囲内にある時だけにしかギアを選べません。速度域の設定は、燃費とかディーゼルのエンジン特性とか、色々な要素で決められたのかもしれませんが、大きなお世話的なところがあります。エンジン回転数を優先しなかったことの理由もよく分からないです。

例えば、4速から5速に上げたい時には、速度が62km/h以上くらいじゃないと5速にシフトアップしません。つまり4速の速度域が広く取ってあり、エンジン回転数が2000rpm弱くらいになって、通常なら5速でも走れそうなのに、入らない。速度が60km/h以下だから、という理由で、だ。走行の殆どの場合、1500~2000rpmで走れるので、ハイギアを使って走行する方が燃費は向上するんじゃないかな、と思うのですが、60km以下では4速しか使えないというのはワケわからん。日常運転の殆どが60km以下なのに、5速を使わせろよ、とは思う。

マニュアルモードじゃなく、普通のATの時でも設定が同じなので、5速に入るには速度が必要。5速に入った瞬間には、回転数が2000弱から1500~1600程度に落ちるだけ。多分何の問題もなく59~60km/hでも5速で走れるだろう。だが、これを許さない、という設定になっているのである。これじゃ、マニュアルの意味がない。回転数が2000近くのまま走り続けるのは、ヘンなエンジン音が非常に気になるから余計に嫌なんだよね。無駄に厳密な速度域の意味が判らんのだ。回転数で判断しろ、とは思う。低すぎる回転数でのシフトアップとか、高すぎる回転数でのシフトダウンとか、それが防げればいいだけではないかと思うのですがね。ディーゼルエンジン特有の理由でもあるんでしょうか。

エンジンブレーキを意図的に使いたい場面(凍結路面など)でも、やっぱり速度域でシフトダウンが出来ないということになると、マニュアルモードの意味がない。エンジンの損傷を防ぐということかもしれないが、回転域で制御をしない理由は何なのだろう。

シフトショックね、これはかなりある。ハイブリッド車がCVTだったこともあるが、馴れが必要。ショックも大きく、エンジンがうるさい上に、ギアは自分の好きなところに入らず、かなり嫌な思いをする。自分がギア選択をするなら、ショックも音も許せるが(自分の操作の結果だと思えるから)、余計な制限をされた上にシフトショックはそれなり、ドロロロ感は満開(2000rpmだもんで)と来れば、なんでこんな設定にしたのか、と思いたくもなる。
会社が決めた設定でいいという人は普通のATでいいわけだし、マニュアルモードは自分の考えでやりたいという人が使うんだから、もっと自由でいいだろうに。5速で60km/hの何が悪いのかまるで判らん。バイクだって6速で走れるぞ。


次は、i-stop。
これは燃費向上にかなり効く。エンジン停止までの時間が短いので、停車すると即止まってくれる。信号待ちなどでは、かなりの威力を発揮する。前のハリアーだと、気温の影響をかなり受けていたので、止まらないこともよくあった。それと比べると、格段にいい。
だが、問題点もある。
右折待ちで停車する時にも、止まってしまう。当初、ブレーキの踏み方を一定にしていたら、毎回エンジン停止していた。なので、右折のタイミングが一呼吸遅れていた。
エンジンスタート時には、急発進防止機構が働いている為だろうと思うが、ブレーキペダルから足を離した瞬間、まるで壁に突き当たったような衝撃を感じるのです。ガクンとなって、その後にギアが入り、前に進む、というような感じですね。これは、i-stopが作動してエンジン停止となっている度に、毎回毎回起こります。なので、嫌な人にとっては、嫌かもしれないですね。幹線道路に出ようとする時にも、エンジン停止状態からだと素早く出るのがやや難しい。
これがダメという人はi-stopを解除するか、ブレーキペダルの踏み込みを甘くするか、ということで対処できます。下り傾斜で停車するような時、ブレーキペダルをi-stopが作動しない範囲で踏むというのはちょっと難しく、普通に踏んでしまうとエンジン停止となり、次の発進時にエンジンが始動して合流ということになると、面倒ではあります。抜くようにブレーキペダルを踏むようにすると、エンジン停止とならないブレーキ操作ができます。


一番最初に「アレ?故障?何?」と感じたのは、このi-stopが作動しない状態になった時でした。
まず、車全体が何かの「糞詰まり」か重度の便秘にでもなったかのような、重々しさが感じられました。瞬間燃費は、それまでの半分以下に低下しているのです。朝出勤の時には何ともなくて、帰宅時にエンジン始動後から、そういう状態になりました。しかも、何かの焼け焦げたような、それとも何かのオイルが焼けるようなヘンな臭いが車内にするのです。なんじゃ、こりゃ、と思いました。

咄嗟に思ったのは、マフラーに何か詰められたりという悪戯でもされたのかな、と。排気ガスがスムーズに排出されていなくて、逆流でもしているんじゃなかろうか、とか、エンジンブローの兆侯なのではないか、とか、不安になりました。
で、何が決定的に違うかというと、停車時にもエンジンが止まらない。i-stopが作動していない、ということでした。いつもランプが表示されているのですが、それが表示されていなかったのでした。

こういう時、何が故障しているのか、というのが全く分からないわけです。i-stopが壊れたのか、他の排気系のトラブルか判らない。だから、車が燃えだしたりしたらどうしよう、とか不安になるわけです。で、糞詰まり感はずっと続いていて、何が理由なのかもまるで判らなかったのです。
試したのは、i-stopモードの入・切と、排気ガスの流出圧を高めてみてはどうかな、と思って、少しアクセルを開けて加速してみました。すると、距離をある程度走行したら、i-stopが作動するようになり、糞詰まり感も解消されていきました。瞬間燃費の水準も、いつもと同じくらいに戻りました。
この理由というのは、はっきり判りません。数百キロ走行毎に起こっており、これまで2回ありました。初回は、空調の温度設定のせいだったのかな(暖房の際にはエアコン内のオイル汚れのようなのが臭いの原因とか?)、とか適当に推測したのですが、2回目は空調を止めても起こったので、別な理由なのだなと思い、説明書をよく読んでみることにしました。

すると、どうやらディーゼルエンジン特有の、あの微粒子みたいなのを除去するような装置が作動することがあるようです。臭いというのは、その条件に合致していました。メーター類の表示にそれは出てなかったと思いますけれども、恐らくその除去装置が作動していると、極端な燃費低下とi-stopの作動停止が起こるものと思います。このi-stopが作動しない状態となってしまうと、平均燃費が大幅に悪化するのです。これがなければ、もっといい数字が出るものと思います。これが前述した、14km/l以下に落ちる理由、ということです。

こういう状態になることがある、というのは、あらかじめ購入者に説明しておくべきではないかと思いますね。特にビビるのは、あのヘンな臭いです。エンジンから火を吹くんじゃないか、何かが燃えるんじゃないか、と本当にドキドキしましたよ。


最後に、コーチングの機械。
5段階評価で、0~5.0点の評点が運転の度に出される。ステージがファーストステージから、セカンド、サードと3段階だそうだ。当方は今、セカンドステージです。多分、20回か30回くらいの評点回数で、一定以上の平均点数だと次のステージに進む、という設定なのではないだろうか。400か500kmくらい走行してたら、いつの間にか変わっていた。
普通の運転歴のある人ならば、大体4点台とか出るだろう。試乗車に初めて乗った時、3rdステージだったが4点だった(平均点は3.2点くらいだった)。
ただ、これは余計なお世話なので、いらない。こんなものの為に価格が高くなるのは、承服しかねる。

1stステージの平均点は4.9で、減点されると「機械のクセに~」とムキになって、減点されないようヘンに気遣ってしまった。2ndステージの現在、平均4.2点くらいだが、やはりムカっとくる。5点の時と、3点台という時の違いが腹立たしい。運転者が同じなのに、そんなに点数のばらつきがあるのはおかしい。

簡単に言うと、道路が空いてる時には満点が狙える。けれども、渋滞なんかでノロノロ運転したりすると、点数がやけに低くなる。前の車が詰まってりゃ、そんなに加速なんかできん、っての。減速の具合も、燃料消費を減らす運転の方が大事なんだよ。だが、機械はそういうことが判定できない。住宅地ですれ違いがやっとの狭い道路とかを走ると、点数が大幅に下げられる。一体、何の文句があると言うのだ。ホント、大きなお世話なんだよ。今後の冬道とかでは、更なる減点が待っているかと思うと、負けた気分になるのでムカつく。何故に、機械ごときに負けねばならんのだ、とな。


まあしょうがないか。
ハリアーハイブリッドに比べると、価格がかなりお安くお買い得となっており、燃費性能もよいので、まあいいんだけれども、別な意味で「これって、どうして?」というような点がいくつかあるかな、と。

大きなお世話、というのが、かえって評価を下げている。
余計なことをする位なら、手出しをせず、相手に任せた方がいいのにね、と。自由度を奪うことは、マイナスとなる。




腐敗組織、最高裁の卑怯な手口

2012年10月05日 20時48分02秒 | おかしいぞ
これが、天下の最高裁のやることか。


>http://www.asyura2.com/12/senkyo136/msg/662.html



>http://civilopinions.main.jp/items/%E6%97%A5%E5%88%8A%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%A4%E3%80%8C%E6%9C%80%E9%AB%98%E8%A3%81%E8%A3%8F%E9%87%91%E8%A3%81%E5%88%A4%E3%80%8D.pdf




最高裁の醜聞は、国民には秘匿する、と。
さすが、土肥元検事総長告発の「秘密漏示罪」に有罪判決を出してくれた、最高裁だけのことはある。奈良地裁も、大阪高裁も、ご立派なことで。


隠蔽体質の、司法界の掟みたいなものですか?
だから、傍聴席は極少の8席、大手メディアにも伏せられて、緘口令でも敷いていると?


全国の裁判官、裁判所職員のみなさん、あなた方は自分たちの親玉がどういうことをやってるか、よく見るといいですよ。恥はないのですか?おかしいと思わないのですか?


ああ、最高裁判事の白木勇、前にも恥ずかしくないか尋ねたな。

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/d0395fadfa18579ddfec875b88ef476c


まあ、心底腐敗した組織が検察と裁判所だそうだから、全然平気なんでしたな。

司法の頂点たる最高裁自らが、法の番人なんかではなく、権力とカネの番犬になり下がったわけですもんね。ただの下っ端で、カネにコロッと釣られる犬なんですか?


最高裁の醜聞は隠せ、と。
お前ら、それでも人間か。司法をよく語れるな。


見てみろよ、外道どもの無様な姿を。
こんなやつらが、法を司っているのだぞ。


許し難い。何よりも、悪い。
知っていながらにして、法を悪用し続ける裁判所のヤツらは、みな同罪だ。

誰一人として、「悪い」と言わない、その検察と裁判所の正真正銘の獣どもは、人間の皮を被った悪魔の如き連中だ。


反省なき検察。
自浄なき裁判所。


こいつらに支配される日本というのは、救いようがない。

何が三権だ。
綺麗事言って誤魔化すな。


最も腐敗しているのは、最高裁、お前らなんだよ。



続・橋下大阪市長の処世術

2012年10月05日 12時56分22秒 | 政治って?
橋下さんの株価が暴落を続けているようである。
橋下バブル、維新バブルは終わりを告げた、ということであろう。

ある意味、予想通りだった、ということが分かっただけということであろうか。


6/11>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/32a72b2a728215afeb88bf493d193215

(再掲)

そこで、橋下さんは寝返ることを決断した。
彼は、中々計算高い人間なのだ。ダテに芸能界で生き延びてきたわけではなかった。ここで誰に付くと最大の利益になるか、誰の後ろについて行けば自分の失脚を免れ、大失点に繋がらずに済むか、そういうことをよく考える人間なのであろうな、と当方は思うわけだ。



やっぱり、でしたね。
橋下市長というのは、裏切りを当然と考えるタイプの人間だろうと値踏みしたわけだが、やはりそうだった。彼は、割と簡単に掌を返す。だから、信用ならない、ということになるわけだ。



で、今更になって、「みんなの党」に秋波を送るとは。


あなた方は、みんなの党の渡辺代表をボロクソに言ってなかったですかね?
みんなの党への執着が酷い、とか何とか。
松井知事も、「みんなの党は政策が広がってない」と非難し、みんなの党との協調は拒否したということだったですよね?

で、みんなの党からの議員を引き抜きで、みんなの党は解党危機かとまで報じられたりした。
おまけに対抗馬も立てるぞ、と強気発言を繰り返していたのは、ついこの前ではないか。


>http://www.47news.jp/CN/201209/CN2012091701001925.html


自分たちがみんなの党を拒否し、所属議員も引き抜き、その上対抗馬も立てると完全対決姿勢を謳っておきながら、今になって「一緒にやらないか」と申し出ると?

笑わせるね。


威勢のいい時には威張りまくりで、足にすがりついた「みんなの党」を「お前らなんか知らんわ、滅びよ」と足蹴にしたでしょう。それが、情勢が悪くなると、コロっと態度を変えて「この前はすまんかったな、一緒にやらないか」と申し出ると。

どんだけ穢いんだよ。
何て調子のいい人間なんだよ。


コウモリ以下だな(笑)。


ブレる発言で、大飯原発再稼働の時にもかなり株を下げたが、今回はいよいよ本格的に信用ならない人間である、ということを晒してしまったな。計算の効く人間というのは、所詮そういうもんなのだろう。

小賢しい目先の欲得で動くからだ。


維新、終わったな。



イランの通貨下落暴動

2012年10月04日 19時31分15秒 | 外交問題
経済制裁がじわじわ効いて、政権維持の障害となりつつある、と。


>http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE89300J20121004


[ドバイ 3日 ロイター] イランの首都テヘランで3日、通貨リアル急落に抗議するデモがあり、機動隊と衝突した。また、闇の両替市場では業者らが逮捕された。目撃者が明らかにした。リアルの対ドル相場は過去1週間で約40%下落している。

デモ隊は、アハマディネジャド大統領を「売国奴」と非難しながら抗議。警察側はデモ隊制圧に催涙弾を使用した。闇の両替業者への取り締まりも行われ、多数が逮捕されたという。

核開発疑惑をめぐる経済制裁でイランの原油輸出収入が減少し、中央銀行が相場を下支えする能力も低下する中、リアルはこのところ、対ドルでほぼ連日最安値を更新している。

在テヘランの西側外交官は、誰もがドルを入手したがっていると指摘し、「両替商や投機家の取り締まりに警察を動員するという大統領の発表は何の役にも立たない。市民の不安はさらに大きくなっている」と語った。


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イランの方には、こちらの忠告が届かなかったみたい。
だから、濃縮はやめておいた方がいいよ、って言ったでしょ?


2/9 >http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/74f0ea3dca0551bbb546a318d956430b


(再掲)

それから、イランに忠告しておく。
届くかどうかは、判らんが(笑)。

核兵器は国を守るのに、役立たない。心の内なる不屈の精神こそが、唯一の盾となる。

日本は、滅びの業火であるところの核技術を用いて、不幸を味わうことになってしまった。それは、「他の誰かが核を持ってるから、我々も持ちたい」というような不純な動機がどこかに潜んでいたからなのかもしれない。いつかは、しっぺ返しを食らうことになってしまう、ということだ。

ソ連は核兵器を大量に持ったが、内側から崩壊していった。兵器が国を守るのではなく、そこにいる人々の活動や心が守るのだ。だから、核兵器開発は止めた方がいい。

(中略)

なので、イランが核開発をすればするほど、アメリカを喜ばせるだけとなる。
イランの行っている核開発は、利敵行為に他ならない、ということだ。よって、すぐさま止めるべき。IAEAの査察を受け入れて、濃縮を止めるのが一番だ。アメリカやイスラエルに、何一つの口実も与えないようにすること、これが肝要である。

長期的には、例えばイラクと連携をとり、資源開発で協調する、とかだな。産出量もさることながら、埋蔵量においても、サウジを凌駕できるのは、この両国だから、である。そうすると、中国やロシアの支援なども継続されるだろうし、日本との関係も維持されることになる。アメリカにとって、一番厄介なのは、「手出しし難くなる」ということだ。イラン自身が孤立化戦略にハマっていくなら、最も与し易い相手ということになる。誰も助けてくれようとはしなくなるから、である。

なので、核濃縮は技術的に実現できたとしても、これまで以上に国を危険に晒すことにはなりこそすれ、守る手段とはならない。それよりも、アメリカが最も困ることを選択することだ。それは、経済発展を実現することが最も近道なのである。資源競争で勝てる国を作ることなのだ。イラン・イラク両国が力を合わせれば、それは大きな勢力となるだろう。

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な?
核兵器を作ることに精力を注いだって、国を守れんのだよ。

まず、アメリカという強国と争うには、人心の安定というものが必要。国が貧乏だと必敗である。アメリカ自身がこのことをよく知っている。戦争とは、まず「金」なのだ。戦争に勝利するのは、金の力が保てるかどうか、である。戦費が枯渇すると、それは必然的に敗北となる。

イランが目指すべきだったのは、アメリカの資金力を枯渇させることだった。
それには、エネルギー供給で競合することだったのだよ。


もう一度言う。
核兵器で国は守れない。