西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
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サンドとマリー・ダグ-夫人との関係

2014年04月05日 | サンド・ビオグラフィ

サンドとマリー・ダグ-夫人との関係
1835年に彼女をサンドに紹介したのは、リストだった。サンドは、社交界の噂や人目も気にせず愛を貫徹するマリー・ダグーの果敢な勇気を尊敬し賞賛していた。

1836年、サンドは子供達二人を連れてスイスに住む二人のもとを訪れ彼らの家に滞在したが(8月28日から10月13日頃まで)、翌年の冬と1837年の春には、今度はサンドの側がリストとマリーをノアンに彼らを招待し、長く滞在させている。サンドはリストとマリーと過ごした夏の幻想的な音楽の夕べを日記に書き残している。

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1836年、リストは幻想的なロンドを作曲し、サンドに献呈した。マラケ河岸の住まいを引き払ったサンドは、パリで滞在するときのためにラフィット通りに新たな住居オテル・ド・フランスを借りたが、そこにマリーとリストが住んだ。マリーが芸術と政治のサロンを開いたのは、右岸にあたる9区に位置するこの住まいであった。

註)ラフィット通り(旧称アルトワ通り)=金融街には、ジェームス・ロスチャイルドが、後に壮麗な館を建設した地でもある。19世紀に入ってから、それまでマレ地区に集中していた法曹家たちは次第にこの地域に移り住むようになり、金融界と法曹界の緊密な関係が成立する。1830年の7月革命時にラフィットの館が参謀本部的役割を果たしたことは「金融資本家の支配という7月王政の性格」を端的に物語っている。
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