小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

押尾学3

2010-09-11 21:07:52 | Weblog
押尾学の裁判が行われている。氏は何を考えているのだろうか。日本は三審制だから、最高裁までねばればいい、そうすればその間の時間は自由だ、等々と弁護士が色々と入れ知恵しているのではないだろうか。弁護士も弁護しているかぎり金が入って儲かる。保護責任者遺棄致死の有罪となったら懲役は5年以上であり、何年かは決まっていない。何年にするかは、裁判官の決める所である。裁判官の気持ち次第である。だから、反省の意思や罪悪感が無くても、涙を流して、反省の意思を表し、裁判官の心証を良くしておくべきだ。そこは押尾氏も役者であり、演技は上手く出来るだろうに。なのに氏はそれをしない。氏がどう思っているのか考察してみたい。

そもそも心臓マッサージをし、人工呼吸をした、というが、「した」というのは、本人が言っているだけで、それを見て確認している人はいない。私には、あれほどアコギな人間が、心臓マッサージや人工呼吸をしている姿は、どうしても思い浮かばない。心臓マッサージと人工呼吸を、「した」というのなら、「した」ことを証明する義務があるのではないか。

そして痙攣や白目をむく、などの異変が起こった時、氏は何を考えただろう。そういう異変が起こったら一般の人も氏も、まず気が動転するだろう。そして氏の場合、何をしたか?
何よりスキャンダルの発覚を恐れる氏にとっては、症状がおさまるかもしれない、と待った可能性も高いと思う。私は法律はよく知らないが、本人の供述だけで、氏が、心臓マッサージと人工呼吸を懸命にした、と決めてしまっていいのか?

何か一つウソをつくと、そのそのウソを正当化するために、さらにウソをつかなくてはならなくなってくる。

氏には、反省する態度が全くない。裁判中、居眠りするほどなのだから。これはどうしてか。
氏の心境をこうも考える。セックスでは女のエクスタシーは激しい。エクスタシーの時、女は、「いく」とか、「死ぬ」とか叫ぶ。快感と死は隣り合わせなのである。ドラッグを使っていれば、そのエクスタシーの度合いは、より一層、激しくなるだろう。というより激しくするためにドラッグを使ったのである。女には射精がないからセックスの快感は男より遥かに激しい。女にとっては最高の快感である。氏は、傲岸不遜な性格である。氏はツラの印刷もいい。だから、女のファンも多いのではないだろうか。オレに抱かれて死ぬのなら、女も幸せだろう、という不遜な考えも持っていた可能性もあると思う。女もセックスしている時は、「ああ。いいわ。このまま死にたいわ」という気持ちも起こりうるだろう。それを押尾氏は逆手にとって、女も最高に幸せな状況で死んでいったのだから本望だろう、という気持ちがあるのではないだろうか。だから反省する気が起こらないのではないだろうか。むしろ、オレは女を幸せにしてやった。そのオレが何で非難されなきゃならないんだ、という気持ちになっているのではないだろうか。

宗教の殉教者の心理にも似ている面もあると思う。宗教の信者にとっては、絶対者(神)のために死ぬ事が、つまり殉死することが、最高の幸せなのである。
氏は、自分は絶対者(神)であり。氏を慕う女のファンの中には、氏のために死にたいとまで思っているような女もいるのではないだろうか。そして、そういう女達を見てきているのではないだろうか。そして氏は、そういう女達の心理をしっかり感じとっていたのではないだろうか。だから自分は、女にとって良い事をこそすれ、どうして反省しなくてはならないのか、という心境なのではなかろうか。

私は氏をよく知らない。氏のドラマも一度も見た事はない。しかし氏は傲岸不遜な性格だったとある。宗教においては、絶対者(神)は、傲慢でなくてはならないのである。(キリストを見よ)頼りないとか、へりくだったとか、おとなしい性格の人間は絶対者とは成り得ないのである。傲慢な性格の氏と、氏を熱烈に慕う女のファンとの精神的な関係は、絶対者(神)と、絶対者に命まで奉げ尽くしたいと思う信者の関係に似ていたのではなかろうか。

氏を熱烈に慕うファンは男より女の方が多いのではないだろうか。
氏は今でも、自分は彼女らの絶対者である、というプライドを持っているのではないだろうか。そしてそのプライドは、氏にとって絶対的に大切なものであって、それは絶対、守り抜かねばならない、と思っているのではないか。氏はエエカッコシイの性格があるように感じる。たとえ実刑判決を下されようと、氏にとっては、そのプライドの方が大切なのではなかろうか。

また氏は、精神的に相当に強いとも感じる。(私のような)気の弱い人間だったら、とっくの昔に精神に変調をおこしているか、自殺しているか、裁判官に全てを正直に話しているか、彼女の両親に土下座して謝罪しているだろう。人間の精神的な強さ、弱さ、というのは先天的なもので変わることはないのである。

以上、私は、氏を絶対者(神)と言い、氏を慕う女を、信者と言った。
しかし私は勿論、現実には、全くそんなことは思っていない。押尾氏が女とセックスしている時にだけ、そのような関係に似ている面があると思っているだけである。つまり極端に喩えただけである。

女は確かにセックスしている時、「このまま死にたい」という快感の願望が起こっている場合もある。しかし、それはあくまでセックスという遊びの最中にだけ起こる、非現実的な遊戯的な願望に過ぎない。セックスが終わって、普段の生活に戻れば、女は絶対、「あのまま死にたかった」などとは、思わない。「何としてでも生きたい。仕事をし、人生を楽しみ、子供を産み、幸福な家庭生活を送りたい」と現実の感覚に戻るはずである。

私も、非常に好きな女性に対しては、「あの人のために死にたい」というような、空想を楽しむ事はある。しかし、それは空想という遊びの中だけである。
私は、現実には、その人のためになら死にたいなどと本気で思った女性など一人もいない。
セックスは、「愛」などという高尚な代物では、さらさらない。単なる快感を得る遊びに過ぎない。
押尾氏は、セックスという遊びと現実の愛との区別がつかなくなってしまったのではなかろうか。
というのが私の推測である。

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司法の理念

2010-09-11 21:03:16 | Weblog
「疑わしきは罰せず」が、戦後の司法の基本精神であるべきはずだ。しかし、この「疑わしきは罰せず」という言葉は間違っている。と思う。というより言葉が足りない。正しくは、「十分な証拠なく疑わしき場合は罰せず」とすべきだ。そして、「十分な証拠ありて、かつ疑わしき場合は罰してもよし」とすべきだ。そうしないと日本は犯罪天国になってしまう。

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弁護士

2010-09-11 20:59:08 | Weblog
弁護士というのは、社会的地位が高い職業である。しかし弁護士は悪質な商売に見える。裁判に勝てば自分の実績が高まり、有能な弁護士ということになる。そして高額な報酬のため、明らかに弁護する人間が悪いとわかっていても、法律の知識を総動員して、黒を白と言いくるめる仕事なのだから。弁護士は金のために良心を捨てた人間としか言いようがない。というよりも、日本の司法制度に根本的な間違いがある。としか言いようがない。

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