小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

有島武朗

2010-09-26 22:41:44 | Weblog
有島武朗の「生まれいづる悩み」は、画家を目指す漁師の話である。要するに、画家(芸術家)として認められ、それが職業にまでなるのは大変、困難である、ということを感動的に書いている話である。感動的なラストだが、現実は、かなりズッコケである。画家を目指す漁師は、漁師として働きながら、絵も描きつづけた。彼の絵画もしっかりと残り保存されているが、それは、有島武朗が名作、「生まれいづる悩み」を書いたから、そのモデルに世間が関心を持ったから、という結果である。有島武朗が「生まれいづる悩み」を書かなければ、漁師の絵画は世に知られることなく、なくなっていたかもしれない。有島武朗の「生まれいづる悩み」は、いささか事大主義だ。職業と芸術を両立させることは出来るし、両立させた芸術家は数限りない。それに。本当の芸術家というは、世に認められたい、というのが動機ではない。表現したいという止むにやむをえない思いがあるから創作するのだ。世間に認められたいとか、芸術家になることを職業として食べていきたいなどということは、本当の芸術家にとって二の次のことなのだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ライナ・マリア・リルケ

2010-09-26 22:40:51 | Weblog
リルケが、詩人を目指す人に送った手紙「若き詩人への手紙」は、手紙であっても、非常に素晴らしい内容である。現実には、若者は詩人にはならず、通俗小説家になった。それを何か残念な事のように世間では見ているらしい。しかし私は全くそうは思わない。通俗小説。おおいに結構ではないか。通俗小説だから価値がなく、詩は文学的に価値がある、というのか。通俗小説だって立派な文学作品である。全体のストーリーが俗っぽくても、小説というものは、文章の端々に、自分の思想を埋め込むことが出来るし、また埋め込まれてしまうものである。大切なことは、詩とか通俗小説とかの区別ではなく、「筆を折らない」ということだと思う。筆を折らない人間こそ本当の表現者であると私は思う。若者は本当の表現者だったのだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の中の紳士と野蛮人

2010-09-26 19:54:54 | Weblog
人間、本音で生きなきゃ面白くないと思う。私がホームページに出してる小説では、主人公や、登場人物は、やさしく、おとなしく、気が小さい。主人公や登場人物には、私の性格が、(完全に同じではないが)幾分かはどうしても入ってしまう。しかし、ブログでは、かなり荒っぽい言葉づかいで書いているなー、と自分でも思う。小説では、私は、私の求める理想を表現しようと思ってるから、私は、きたない言葉づかいが嫌いだから作品は穏健なものになっている。しかしブログは小説ではない。芸術ではない。だから、ブログでは、きたない言葉づかいになっても、本音で、本音を書いている。(なかには、ちょっとわざとワルぶっている時もあるだろう。私はまだ高校生の偽悪から脱皮できていない所がある)ブログでも紳士的な、言い方、書き方をした方が、世間に穏当な善人と思われて得になるのかもしれない。しかし私はそういうケチくさい偽善が大嫌いである。だから、ブログでは、きたない言葉づかいになっていることも多い。しかし、私は人間は本音で生きなきゃ面白くないと確固として思ってる。ウソの発言や人生など贋物の人生だと思う。
私の中には、間違いなく、紳士と野蛮人が同居している。ブログでは野蛮人の私で書いている。だから言葉がきたなくなるのだ。しかし、小説では、私の感性を正直に出し切って書いている。だから、きたない言葉づかいを出さない小説も私の本音だし、きたない言葉づかいで書いている、このブログも、両方とも、私の本音である。
私の心には確かに野蛮人と紳士が同居している。私は、そういう性格を持って生まれついてきたのだから、その両方をあらわす事が、人をだまさない誠実さだと思っている。私は小説は、「自分を知るために書いている面がある」と思っているが、やはり、自分の感性を出し切って小説を書いても、また、それを、読み直してみても、やはりどうしても自分を知ることは出来ない。むしろ私のブログなり、小説を読んでくれる人の方が私という人間を、私以上に理解していると思う。表現者は、自分を知るために表現しようと思っても、結局は自分で自分を知ることは出来ず、自分を知るためには読者の判断にゆだねるしか方法がないのだ。

前田恒彦は、まだ、「故意ではなく、過失だ」と粘っているようだが、それが一般の人の感覚の平均なのだろうか。私だったら本心を言う。どんなに重い罪になり、どんなに恥を世間にさらしても。なぜって、ウソをつき通し、人をだまし抜いた人生なんて何の価値もないと思うからである。自分がきたない人間なら、きたない人間である自分を私は表現したい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またブログのランキングに入る

2010-09-26 07:31:38 | Weblog
昨日、9月25日(土)のアクセス数

159IP。397PV。

8465位。1470838ブログ中。

見て下さってありがとうございます。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする