オウム真理教の事件が起こって、今年は、20年目である。
オウムについても、色々、書きたいことがある。ので、書く。
ただ、私のオウム真理教に対する、見方は、世間一般の人とは、かなり、違う。
ちなみに、オウムの言葉の由来は、AUM「オーム」であり、ウパニシャッド哲学では、非常に、深い、思想的、哲学的な意味であり、それは、価値ある、哲学用語なのである。
私の尊敬する、心療内科医の、池見酉次郎先生も、「オーム」の優れた哲学を称賛している文章を書いている。
日本では、オウムという、言葉を聞くだけで、ほとんどの人は、反射的に、嫌悪感を持ってしまう、だろうが、それも、仕方がないが、原始仏教における、AUMとは、深い哲学的思想の言葉なのである。
ちなみに、昔、誰かが、私に、「オウム真理教の方ですか?」と電話してきた。
かけてきたヤツは、間違いなく、医学部を卒業した時の、同級生の、単細胞バカ人間である。誰かは知らない。
私は、「何を根拠に、そういう推測をするのですか?」
と聞き返したら、相手は、あわてて電話を切った。
単細胞バカ人間は、無口で、人と付き合わず、何を考えているのか、わからない人間は、私が孤独なので、オウム真理教に、すがって入って、友達を作ろうとしている、と推測したのだろう。
確かに、私は、孤独で、友達もいないが、私は孤独に強いし、そもそも、絶対的な無神論者である。
もちろん、キリスト教、仏教、イスラム教、など、宗教のことは、よく知っているし、関心もあるが、そして、宗教とは何か、を説明することも、出来る。
世の99%の外交的な人間は、精神的、観念的なことには、滑稽なほど、思考力が弱いである。
逆に、例外的人間である、内向的な人間は、精神的、観念的なことには、めっぽう強いのである。
太宰治(内向的人間)は、「如是我聞」で、志賀直哉(外向的人間)および世間一般の人に対して、次のように述べている。
「君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開いた口がふさがらぬとはこのことである」
(太宰治「如是我聞」)
オウムについても、色々、書きたいことがある。ので、書く。
ただ、私のオウム真理教に対する、見方は、世間一般の人とは、かなり、違う。
ちなみに、オウムの言葉の由来は、AUM「オーム」であり、ウパニシャッド哲学では、非常に、深い、思想的、哲学的な意味であり、それは、価値ある、哲学用語なのである。
私の尊敬する、心療内科医の、池見酉次郎先生も、「オーム」の優れた哲学を称賛している文章を書いている。
日本では、オウムという、言葉を聞くだけで、ほとんどの人は、反射的に、嫌悪感を持ってしまう、だろうが、それも、仕方がないが、原始仏教における、AUMとは、深い哲学的思想の言葉なのである。
ちなみに、昔、誰かが、私に、「オウム真理教の方ですか?」と電話してきた。
かけてきたヤツは、間違いなく、医学部を卒業した時の、同級生の、単細胞バカ人間である。誰かは知らない。
私は、「何を根拠に、そういう推測をするのですか?」
と聞き返したら、相手は、あわてて電話を切った。
単細胞バカ人間は、無口で、人と付き合わず、何を考えているのか、わからない人間は、私が孤独なので、オウム真理教に、すがって入って、友達を作ろうとしている、と推測したのだろう。
確かに、私は、孤独で、友達もいないが、私は孤独に強いし、そもそも、絶対的な無神論者である。
もちろん、キリスト教、仏教、イスラム教、など、宗教のことは、よく知っているし、関心もあるが、そして、宗教とは何か、を説明することも、出来る。
世の99%の外交的な人間は、精神的、観念的なことには、滑稽なほど、思考力が弱いである。
逆に、例外的人間である、内向的な人間は、精神的、観念的なことには、めっぽう強いのである。
太宰治(内向的人間)は、「如是我聞」で、志賀直哉(外向的人間)および世間一般の人に対して、次のように述べている。
「君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開いた口がふさがらぬとはこのことである」
(太宰治「如是我聞」)