日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

西部邁と現象と世界開在性と世界内存在

2023-05-20 17:10:37 | 日記
 思索の説明を求めて文章を追っていると,同時並行して私自身が世界から求められていると言う事を感じる。実際の自然現象に自然の動物。


今迄来たことが無いのに,大きい烏が目の前で私を暫くジッと観ている。その事が生じたのはクリスタルパレスの事を思い出して暫くの時であった。


記憶の奥に眠っている,意識化されていない,どういう意味があるか系統的な意味を持たない,何に付いての固有名詞や人名詞の事か。


西部邁も西部ゼミナールの番組で知りたがっていた様子は記憶しているが,あの言葉は私への言葉だったのだろうか。実際に祖父の兄弟で家長であった伯父から聞かされたのは私だけだったという話だから家の話は私だけだろうが,その当時を知る人たちは当然知っているだろうけど,未だに何も音沙汰が無いという事はどういう事なのだろうか。


祖父の子供の長男詰まりは父の兄弟で長兄は何時か来る筈だからその時は説明してあげるんだよと,子供たちに詰まりは自分の子や私達に,独特な引き笑いをしながら風呂場で語って居たことがあり,それは祖父が話して居たことだったらしい。最近では伯母や本家の伯父さんからも知りたいと言われている。

更には教授からもそれを文章にした方が良いと言われて,文章化したものを周りから求められている。そう言えば家長であった伯父も私に「君が文章にしてくれよ」と言ったのだった。

その言葉は私が文章にして残して読みたいですねと言った後継いだ言葉だった。伯父は「私はもう疲れた」「君がやってくれ」と他にも多く語ったが印象的な言葉を発した。


 私は何時か「誰か」が来る筈だからその人に任せればイイやと思っていたがそうでもないのかな。その誰かを待ち続けて80年位に為るから誰も来ないという事に為ってしまうのか。
コメント
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