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<這い金鳳花>の八重咲き種から作られた園芸種
ヤエキンポウゲ(八重金鳳花)↓一般名/ラナンキュラス・ゴールドコイン
さてもさてさて。浅草蔵前の札差、五代目井筒屋八郎右衛門が表の稼業の 夏目成美(なつめせいび) 俳諧の風雅をこよなく愛した、魅力的な粋人だったようです。
問題児・小林一茶の面倒も、最期までよく見てくれたのでした。
当時は俳諧にうつつを抜かし、家業がおろそかになる風流人もたくさん居たようです。そういった世間の風潮がある中で、「家業は風月よりも重し」と常々口にし、俳諧は俳諧として楽しみながら、商売も’やり手’だったという人です。
「札差」というのは、御家人や旗本の俸給の禄米を代わりに受け取って売りさばき、手数料を稼いだり、お金を貸し付ける商売です。大金を動かすのが仕事ですが、成美が父から家督を譲られて当主となったのは(満で)十六歳の時。
家業だけではなく、雇い人たちの生活も丸ごと預かる重い仕事に、真面目な青年当主はその正月に、こんな句を詠んでいました。
元朝や着せて喰はせんはかりごと 成美
成美(せいび)というのは俳号で、’随斎’ともいい、また痛風を患って右足が不自由だったために、自嘲的に「不随斎」と号する時もあったといいます。父ゆずりの俳諧好きであり、月に一度七の日に、別宅で「随斎会」という俳句の会を催していました。
成美は師匠・弟子というものを持たず、俳句に関しては独自に資質を磨いて精進しました。一派を結成することがなかったので、どんな流派の人も歓んで受け入れ、親切に面倒を見る’懐の深さ’があったといいます。
そんなわけで、一茶も仰ぎ見るような気持ちで、この有名な大先輩の会に参加することができました。
成美は一茶より十四歳年長ながら、少しも偉ぶるところがなく終始優しい態度で「うちはいろんな人が会に来るし、本もあるから貸して上げましょう。またおいでなさいよ一茶さん」と言ってくれたのです。
一茶は成美の句を諳んじていて、ひそかに傾倒していました。
ははぁ~この人が「魚(うお)くうて口なまぐさし昼の雪」
と詠んだ人か~!と憧れの眼差しにて。
「撫子のふしぶしにさす夕日かな」
まぁこれは。。他にも似た風に詠む人もいるかも知れぬが。
のちの月葡萄に核(さね)のくもりかな 成美
もうこの美しさはどうだ!
九月十三日夜の月に透かせば、葡萄の実の種が曇ってうつっているよ、だなんて。。震えが来るほど美しい感動の句ではないか。
自分にはまったくない資質だと思うと、反駁すら忘れてしまう。それらの句を作った人に初めて出会えて、一茶は強く心を揺さぶられたのに、さらに温かい言葉をかけてもらったことで、たいへんに元気づけられたのだった。
’鋭くて美しい’成美の俳句。一茶はいかにもの’文人好みのえせ風流’には反撥を覚えていたが、成美の句にだけは「これはかなわないよなぁ」と。
一茶はそれ以来、自作の句や文章を成美に送って、(成美が六十八歳で亡くなる頃まで)批評を乞い続けた経緯がありました。
成美は物腰柔らかく優しい風情ながら、直截的にものを言う人でもあったようです。大店の旦那衆らしく、色白の品の良い顔に好意的な微笑を浮かべつつ・・。
時は移り、「信濃の一茶」の名前が、全国の俳人たちに’重み’を持って知られようとしていた頃。江戸を出て、暮れに雪の信濃・柏原宿(一茶の生家/長野県)へ入ったときの句。
これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺 一茶
これも中の句「つひの栖か」と「死にどころかよ」と二つ並べて書き出し、成美に送ったところ「死にどころかよ」の方を朱で消し、「つひの栖か」を’極上々吉’と褒めてくれたのだった。
「月よ梅 酢のこんにゃくのとけふも過ぎぬ」にも、「これまた家の芸なるべし」’上々’と褒めてくれています。しかし、時によっては褒められるばかりではなく、退けられるものも多かったのですが。
このような添削の遣り取りなどが珍しくて、非常に面白いと思います。(※引用は田辺聖子著『ひねくれ一茶』より)
(※前回の参考記事→5/20の小林一茶)
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はい、ゆっくりと読ませていただきました。
一茶の尊じる・成美という方がいらしたことを知りました。
成美と一茶の関係が素晴らしいです~~仄仄としてまいります。
>これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺 一茶
子どもの昔のことですが・・・、
<彼岸花眠り人への思いやり>・・・。
「眠り人への」と「死んだ人への」・・・のどちらがいいのか先生にお聞きしましたら・・・、
上をとりましようと。。。
ちょっとそんなステキな先生のことをを思いだしました~~。
八重キンボウゲのビタミンカラーが眩しく綺麗です~。
いつも素敵な画像ですね~、うっとりしています~~♪
いつもありがとうございます。
>彼岸花眠り人への思いやり・・・
あ~素敵な表現ですね。これを子供のころにですか?信じられません才能です。私など、つまらない定型の細かいウソばかり書いていました~( ´艸`)
ヤエキンポウゲは、先日山小屋さんの所で覚えましたので、出してみました(爆 いつもありがとうございます
成美、そして一茶、なかなかよろしい世界ですね。うたごころのある方々がうらやまし・・・です。
空見さんも、モカさんも、お若い頃から親しんでおられたようですね。お二人にお座布団を・・・(笑い)。
>お若い頃から親しんでおられたようですね
いえいえ、とんでもございません、親しんでなんかいないです~w
あ、今日は出かけていて、帰りにムラサキシキブをたくさん撮ってきました。よって、お昼はコンビにおにぎり、夜は外食という手抜きコースですのよ(笑
俳句のことを、全く知らない私にも、何となく分かる部分があります。
恥ずかしながら、夏目成美という俳人について、初めて知りましたが、
私の理解では、「仕事は仕事、趣味は趣味」という厳しさがある。
その反面、「どんな流派の人も歓んで受け入れ、親切に面倒を見る’懐の深さ’があった」。
私のような門外漢にも、その人物の素晴らしさが見えてくるような気がします。
難しいことを易しく分かるように書いてくれたお陰で、私も少しだけですが、
俳諧の世界が分かったような気がしました。錯覚かも知れませんが。
名前忘れました。 なかぱ です。
この一茶の時代にも厳しいヒエラルキーが、俳句の世界では流派とか派閥とか、今と同じ(家元制度?に似た)ことがくり返されていたようです。人間というものは。。いつの世もどうしようもなく変わらないのですね~(笑
お金、権力、見得、嫉妬、足の引っ張り合い。。たとえ風雅の世界であろうとも、です。
そのなかで夏目成美は、俳句をただの趣味、己の楽しみとしてだけ位置づけております。商売ではいろいろお金もうけに奔走したでしょうが、俳句には’清雅・高踏・美’などを、純粋に求めていたのかも知れません。
亡くなった後に、あれこれ言う人もいたようですが、一茶があの一茶となるためには、なくてはならない人でした。
読んでいただいてありがとうございます。次もこの続き路線になると思います(笑
夏目成美という方の人柄が偲ばれるお話でした。
古来、芸術は、王族、貴族や豪商など、金持ちのパトロンが力を持っている時期に、大きく花開いている歴史的事実があります。
この方の小林一茶への影響は大きかったのですね。
この人の俳句は、今でも「歳時記」などに(数は少ないですが)取り上げられています。
仕事以外はキッパリと、俳句という趣味に’無垢な心’でのめり込んだようです。
仕事では「鬼」になっていたから、俳句を志す人(仲間)には「仏」として接したのかもしれません。
元々の金持ちですから、俳諧をいわゆる’飯のタネ’にする必要もなかったわけですね
わぁ~、今、驚いてしまいました。
かのお優しいnakamuraさまから私にまでお座布団をどうしましょう~~。
実は、それは、私ではなくて、私の子供なのです。
(子どもの小6の頃のことでした。)
考えてみてください。
私にそのようなことがあるわけがありませんもの。。。
あぁ~、でも、そのように受け取ってくださったということは、
これほど嬉しいことはありません。
見栄・見栄です。
でも、お座布団だけは頂いていきます~~♪