友岡子郷/倒・裂・破・崩・礫の街寒雀 (阪神・淡路大震災の後)
友岡子郷/白日のなかへ入りゆく鰆船 (飯田龍太「雲母」終刊へ慟哭と希望)
💬「雲母」に二十五年間投句し、その選をいただいた。「いい句はいい、悪い句は悪いとおっしゃってくれる龍太先生を、大切にすることが最も大事」と思ってきた。阪神・淡路大震災に遭遇し生き延びた友岡子郷、いま85歳。
💬「雲母」の終刊予告 矢島渚男
飯田籠太氏による『雲母』終刊の予告は青天の霹靂というべく、俳句界に衝撃を与えた。現代俳句の病巣を身をもって抉ったという感がある。このことは今後、俳句指導者の原点として
心に刻まれてゆかねばなるまい。
二十年以上も前に氏が「引退」ということについて語つた興味深いインタビユー記事がある。記者が横綱佐田の山の引退などについて感想を求めたことに対する答えである。「『全力を
出しきってしまったから引退するんだ』という弁が実にさわやかだ。感心したのはあの風貌ですよ。全勝した時と同じ顔をしている」。(強い慰留があつたと思うが、それをふり切って引退
したことは)「ますます立派ですね。俳句の結社を預かって、同じような立場を味わっているとほんとにそう思う。(中略)俳句でも、教えるという意識は堕落です。あらゆる面で学ぼう、
教えられよう―という好寄心がなくなった時、指導者という立場は大きなワナにかかっているんです。行く先はわからんが、とにかく前を向いて、肩を並べて話し合うようでないと、自
分のプラスにもならんし、話しかけられた人のためにもなりません。お互いに理解しかけたことを話し合うのが本当」。「私は自分の勉強のために選句をしているんで、サービスのためでは
ない」。 (「雲母」の主宰者としてのあなたが、かりにご自分の限界を悟ったとして、後事をだれかに託す場合、まず何を条件にしますか) 「つねに一代限りというのが文芸の本質だと
思います。愛する文芸にプラスになることがあれば、その方法を考える」。(山梨日日新聞・昭和四十三年三月二十七日付)
この「引退」についての感想を読むと今度の『雲母』終刊が龍太氏において一貫した行動であることがわかる。「選というものは(中略)一瞬の怠惰も許されない厳しさで対処するので
なかったら、主宰の意味はない……」(『雲母』の終刊について)
『雲母』誌を父蛇笏からやむを得ない事情によって継承した龍太氏は、もともと結社一代論者であり、その矛盾に深い痛みを感じて来られた。現今の俳句界に安易な「主宰者交替と近親
者による世襲が数多く」なったことは「私の『雲母』継承にも一端の責任があるのではないか」と心を痛めてきた、という。身をもって現代俳句の病巣を抉ったというのは、そのことで
ある。
同じ『雲母』七月号に載る東京句会での講評の中で「指導者は、厳しさにあわせてやさしさと、さらに自分の作風を他におしつけないことが大事である」といっている。自分の作風を押
しつけず、「肩を並べて話し合う選者」が理想。現今の指導者の多くは主宰誌などをつうじて自分の小型コピーをせっせと作っている。そして、誰も彼もが主宰者になりたがり、いい句を
作ることよりも、誌友を増やすことに憂き身をやつしている。こうした現状に対しても龍太氏は警鐘を鳴らしているのではなかろうか。
今日「友岡子郷氏」のこと、青萄さんのブログで知りました。
早速、パソコンでググッてみて、感動して居ます。
その感動とは、学生時代過ぎ近くに居られた俳人、そして、あといろいろありますが~・・・・・
青萄さんの「俳句の造詣の深さをも!」を改めて感じ入りました。
今後、歳時記を見開く時、「友岡子郷氏」俳句
私の心深く残ることとおもいます。
友岡先生は風貌にも古淡の趣がありますね。高い遠いところにある詩心を目指しておられる。
芭蕉の「猿蓑集」巻六の「幻住菴記」の終章の一節にも「…たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此の一筋に繋がる。」とあります。
この人は天才だなと思う若い人たちはたくさんいます。彼らは指先で宙を掬っていとも簡単に詩「俳句」にしてしまう。才がある分…油断して舐めている。しかし俳句は才がなくともコツコツ積み上げてゆくものじゃないかな?と最近思っています。
龍太は理想論を語っていたのでしょうか?龍太だから言えたことなのでしょうか?インチキな世の中で俳句くらいは理想を求めてもよいのでは…とも思います。
当時は「ホトトギス」系が嫌いで「雲母」へ行った人も居たのかも、私はハッキリ言って「ホトトギス」系が苦手です(笑)