忘年や牛のどこかを皿にのせ 布田三保子
焼肉屋での忘年会だろうか。次々に皿に載せられてカルビやタンやホルモンが運ばれてくる。それは、そのまま旨そうな食材であるが、カルビやタンやハツと呼ばずに「牛のどこか」と言われると、たちどころに何か異様な肉の塊に化してしまう。
この句の狙いもむろん、そこにある訳だ。そして、その異様さは、生き物自体の、かって生きて動いていた一部が皿に載っていることへと意識を導く。さらには、その部分が牛の何たるかを知ろうともせず、食欲に任せるだけで貪り喰っている自分たちの姿をも網膜に映し出す。同じ物でも呼称一つで、その正体が現れたり隠れたりする。言葉はつくづく怖いものだと知らされた一句だ。
電飾の不意の点灯開戦日 大久保和子
おそらくは仙台の光のページェントがモチーフだろう。今年の点灯式は12月9日だったから、実際には開戦日の次の日であった。昭和61年、当時仙台砂漠と言われたタイヤの粉塵で汚れた欅を何とか輝させたいとの思いから始まった行事だそうだ。
リバーサイト市のイベントに触発されたとも聞く。欅の成長への影響や消費電力などが心配されたが、欅には、さほどの大きな影響はないらしい。電力もバイオマス発電によっているとのこと。よく配慮されているようだが、私のようなひねくれ者には、定禅寺通りの暗い夜空に伸びる歳晩の欅の姿が妙に恋しくなるときがある。
句の鑑賞に戻ろう。「不意の」という言葉にこだわるなら、光のページェントよりも住宅地での個人で楽しんでいるイルミネーションの方が相応しい。クリスマスへの雰囲気を盛り上げる、ほのぼのとした灯のはずだが、開戦日と取り合わされることによって、その光の平和的なイメージは不安や畏怖へと瞬時に異化する。そして、戦争とは実はこうした安息そのものの中に突然やってくるのだという事実に向き合わされる。〈戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉〉に通ずる発想だ。
〈高野ムツオ主宰の好句鑑賞〉
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