ここ最近、三島の文体に触れている時間が一番落ち着く、というか、心地よいというか。
そんなわけで、午後の曳航を買い直して読んでみました、40年ぶりくらいか?
動機は、舞台が地元横浜、中区から金沢区になるので、そこらへんの描写も気になりました。
内容紹介。これを読むと、この作品は大人のラブロマンスとそれに反抗する少年の物語、というように思え、私の最初に読んだときの印象(もうだいぶん忘れてしまっていましたが)もそんな感じでした。
しかし、今読むと、やはりこは戦後日本社会への嫌悪感からの作品だと感じます。
本作は竜二、房子、登それぞれの立場からの心理描写からなりますが、竜二が社会(もしくは国体)、房子が経済、登が三島本人?のメタファになっているように思えました。
船を降りることで、大義(それは抽象的ですが)を捨て、房子の元に身を寄せた竜二は、三島の嫌う、経済繁栄にうつつを抜かした戦後社会そのもののように感じます。
なんで最近こうも三島の作品に没入するかというと、三島の先見の明に、いまさらながら畏敬の念を抱いているからかもしれません。三島は1970年7月7日、サンケイ新聞夕刊で次の言葉を語っています。「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」
まさに日本は、日本というのは名ばかりで、三島の言葉通りの道を辿ってきました。現在はその先にきています。格差の広がり、モラルの低下、教育の衰退、政治への無関心、拝金主義、貨幣価値の下落、等々、世界に取り残されつつある衰退国になってしまいました。
こうなった責任は我々ひとりひとりにあると思っているのですが、今後に続く世代に後を託すためには、わしは残りの人生で何をすればよいのだろうか、と考えることがしばしばあり、その答えを探すのが三島に没入している理由なのかもしれません。
そんな厭世的なことを考えつつも、だからといって認識から行動を起こすわけではなし。現実には歪んだ経済繁栄の恩恵を受けて生きてきた自分がいて、それは釣りにいったりラーメン食べたりと悦楽的な時間を過ごしているわけです。この矛盾というか自己嫌悪もなかなかに悩ましい問題ではあります。そこのところについては、平野啓一郎の分人主義にずいぶんと助けられているわけですが。
と、午後の曳航から、話が明後日の方向にいってしまいました^^;
閑話休題、この作品の冒頭に登場する、登の窃視癖は、この後の作品である豊饒の海第三巻、暁の寺における本多の窃視につながっていて興味深いところです。
本作は海外での評価が高いとのことで、アメリカで映画化もされました。この作品を評価している外国人は、おそらく、上に書いたような戦後社会批判は感じないと思われるのですが、どのような点が評価されたのかは興味深いところです。
書誌事項。
2021年の3刷なのですが、巻末には文庫本初版(昭和43年)の田中美代子の解説と、2021年の久間十義の解説が載っています。いずれも読みごたえ十分です。
p.s. 食生活が戻った。
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