性と愛と
公衆便所のミーハーたち
「喜怒哀楽の、負の感情」
久し振りに激しい怒りに満たされつつある。
感情の頓麻という症状、これのお陰で私は当分の間、
傷つく事も喜ぶ事もほとんどない平坦な日々を送っていた。
ウレシイ事があってもその波は穏やかでつかの間の魅薬、
悲しい事があってもそれは淀んだ空気のようでただ少し苦しいだけ。
楽しい事はひと時の夢、腹立たしい事は自分への戒めに帰すのみ。
だが可愛さ余って憎さ百倍、というのだろうか。
以前のカウンセラーによく言われたものだが、
よく似た境遇の者ほどお互いの心境を理解したような錯覚に陥り、
認識のズレを生みやすいから気をつけなければならないと。
これは当然私自身に対して十分に言える事であり、
それゆえに自分なりに細心の注意を払うよう努力はしてきた。
その努力が完璧であったとは思っていない。
私はそんなに立派じゃない。
私の事を好きだという人に私はよく聞く。
どこが好きなのかと。
共感する部分が多い、価値観が似ている、という友人。
それに加えて愛着を抱きカワイイと思ってくださるのは恋愛感情。
だが得てしてそれらは曖昧な仮定の上に成り立っているに過ぎず、
両者が徐々に心を開いて深い付き合いをしていく上で初めて、
愛情という絆が深く結ばれていくことを実感できると私は思う。
これは恋愛に限った事ではなく、
友人、家族にも等しく当てはまるのだが。
幼少時代からの一連の経験や学習事項の上に導いた自分なりの思想である。
ある意味、すべての思考は体験の上に成り立つ。
行動型人間所以である。
現実の世界で築いた絆、ネットの世界で育んだ絆…
そのいずれもが私には大切なモノ、
かけがいの無いものだと感じている。
そして今私は家族と、友人と少しずつ絆を深める取り組みをしている。
そのために欠かせないのが「自己を知ること」。
醜くて目を背けたい部分も、実は評価されるべき小さな「良さ」も、
客観的に捉えられるようここ数年自分を訓練してきた。
その成果に関しては徐々に手応えを感じている。
自分は頑張ったと認めることもできるようになってきた。
七転八倒しながらも生きようとする自分の存在を容認できるまでに成長した。
だから成長過程の未熟さもさらけ出して人と付き合おうとする勇気がある。
2006/06/30 19:29
『性と愛と後悔 PART 1』 (6月30日)のコメント欄より
デンマンさん、今日の冒頭の手記はあたしが書いたものではありませんよね?これって、もしかして。。。Realogの真新主さんが書いたものではないですかぁ?
そうですよ。実は、真新主さんが友達として付き合っていたサクラさん(仮名)が“お別れ”に書いたものなんですよ。原文は上のリンクをクリックすると読めますよ。
それで、今日は何をお話しになるのですか?なんだかすッご~♪~いタイトルが書いてありますわね。うふふふふ。。。
えへへへへ。。。やっぱり、公衆便所のミーハーと言うのはすっご~いですか?
だって。。。今まで、こういう話題ってなかったでしょう?
僕は、このサクラさんはちょうどレンゲさんのように人生を自分のものにするために、一歩一歩手探りで進んでいると思うんですよ。その過程で、いろいろな人と付き合いながら、自分の進むべき道を模索している。僕の目から見て、サクラさんが真新主さんと付き合っていたのも、そのような過程だと思えるのですよ。
それで。。。?
サクラさんは「自己を知ること」と書いていますよね。一体、自分とは何なのか?。。。これは、生を受けて産まれてきた者が一度は考えさせられる問題ですよ。
デンマンさんも考えました?
もちろんですよ。だからこそ現在の自分がある。自分とは一体何なのか?僕は大学に入学する頃から考え始めましたよ。そういうわけで僕は自分を探す旅に出たんですよ。
それで30ヶ国近い国を放浪したのですか?
そうですよ。
レンゲさんとは何度となく話したことだけれど、僕は北極圏にも足を踏み入れたんですよ。
レンゲさん、本当の寂しさはマイナス42度の原野で
人っ子一人居ないところで
上のようなオーロラを見るときに感じるものですよ。
イエローナイフに2年近く居ましたが、
このオーロラを見るたびに人間は
一人一人皆、孤独だということを
しみじみと感じましたね。
政府の職員官舎から5分も歩くと
こういう原野がず~と、ず~と広がっています。
寂しさというよりも、孤独ですよね。
こういうところにゆくと、しみじみと一人なんだと感じます。
でもね、結局、誰もが一人で生きているんですよ。
このオーロラは写真では黄色がかって見えますが、
実物は、いぶし銀のように光っています。
とにかく神秘的で、幻想的で、
自分が吸い込まれて行きそうな感じを覚えながら
ポケー。。。として見上げるんですよ。
それからバンクーバーに出てきました。
対話の世界です。
レンゲさん、寂しさをなくす、
孤独で居たくないということは、
対話を持つことですよ。
そしてこの対話が切れたとき、
人間はますます孤独になってゆくものです。
これから、時たま見に来ますね。
そう、深刻に考えることもないですよ。
じゃあね。。。。
(^Д^)ギャハハハハ。。。
by デンマン 2004 09/04 00:00
『本当の寂しさって?』より
これを僕が書いた頃、レンゲさんは寂しくて死んでしまいたいと言っていたんですよね。覚えていますか?
思い出しましたわ。
僕はレンゲさんの口から死にたいと言う言葉を何度も聞いたんですよ。しかも、自分で死にたいだけじゃなく、レンゲさんがボーイフレンドだと思っていた男から殺されかけた事もある。とにかく、レンゲさんは寂しさに心が萎縮して、自分を見失っているように見えたんですよ。それで、僕は次のような僕の経験を書いたんですよ。
レンゲさんが言う“群衆の中の孤独”と言うのは、僕に言わせてもらえば、たわ言ですよ。そんなのは僕にとって孤独のうちに入らない。なぜなら、孤独を紛らわせようと思うなら、いつでも群衆の中に入って孤独を紛らわせる事が出来るからですよ。それが出来ないレンゲさんは感情的に未熟だとしか言いようがないんですよ。その未熟さは、お母さんとのスキンシップが欠如していたから、いつまでもあなたの心の中にわだかまっている。つまり、幼児的な触れ合いへの憧れですよ。そのために寂しさを強く意識してしまう。
だから、デンマンさんの寂しさとはどういうものですの?
本当に孤独になって寂しくなると、死ぬなんてことは全く頭から消えうせてしまうものですよ。むしろ本能的に生きようとするすさまじいまでの生に対する執着にとらわれるものですよ。
どういうことですか?
北極の原野に一人で置き去りにされた事を考えてみてくださいよ。寂しいなんて言っているどころじゃない。その瞬間から生きなければならない。腹をすかせたハスキー犬が牙をむいて襲い掛かる。グリスリー・ベアに出会えば、命はないと思わなければならない。
デンマンさんは、北極の原野に放り出された事でもあるのですか?
もちろん、ありませんよ。でも、僕の宿舎から5分も歩くと人の姿は見えませんでした。30分も歩いたら、そこは上の写真のような原野ですよ。野生化したハスキー犬が獲物を狙い、牙をむいて近づいてきますよ。
ハスキー犬って何ですか?
狼と犬の混血だと言われています。だから野生化したハスキー犬は人も襲いますよ。
怖いでしょう?
怖いなんてものじゃない。ハスキー犬の群れに襲われたら命がありませんよ。
それでハスキー犬に出会ったことでもあるのですか?
ありますよ。僕は2週間ほど休みをとって夏、北極の原野を歩きましたよ。せっかくイエローナイフに行ったのですからね。もう2度とそういう経験は出来ないと思いましたからね。
それで怖い思いをなさったのですか?
“怖い思い”と言っているうちは本当に怖くはないんですよ。
どういうことですか?
僕は“野生化する”という意味が初めて分かりましたよ。野生化するということは一口で言ってしまえば“死と隣り合わせ”で生きるということなんですよ。常にビクビクしていなければならない。感覚が研ぎ澄まされている。ライフルを背負っていないと安心していられない。
ライフルって、。。あの~。銃、。。。鉄砲のことですかあああ?
そうですよ。カップヌードルじゃないですよ。常に身を守る事を考えていますよ。ハスキー犬でもただの野犬でも、飛びかかって来る前にライフルを構えなければならないから、つねに辺りに気を配っていますよ。あんなに音に敏感になれるとは思ってもみませんでしたよ。葉っぱが擦れ合う音にさへ最初のうちはビクッとしましたよ。
それでどのような怖い思いをしたのですか?
夜でも横になっては寝られなかったですよ。
どのようにして眠るのですか?
座って寝るんです。とても横になって寝る気になれませんでしたよ。リュックを背にしてライフルを抱くようにしながら眠るんですよ。熟睡できない。1時間半から2時間おきに目が覚めますね。
それで。。。?
遠吠(とおぼ)えなんかが聞こえると実に嫌なものですよ。“お~い、獲物が居たぞォ~、みんなで襲おうじゃないかァ~~”そう仲間に呼びかけているように聞こえてくるんですよ。
それで。。。
よく西部劇で獣を寄せ付けないために一晩中火をたきながら眠るシーンがありました。でもね、あんな事は出来ませんでしたよ。
どうしてですか?
燃やす薪(たきぎ)がすぐになくなってしまうんですよ。上の写真で見るように森なんてありませんからね、潅木がチラホラ程度ですよ。燃やすものがなくなって火が消えて真っ暗になります。そういう時にオーロラが頭上を神秘的に踊っている。まさに踊っているようにサラサラ動いている。ゾォ~~とするような美しさですよ。でも、いつまでもボケーと見上げているわけにはゆかない。コソッとでも物音がしようものならすぐにライフルを引き寄せて構えますよ。最初のうちは、珍しいから撃ちたくってバンバン引き金を引きましたが、そのうち弾(たま)が減ってくるから、そうやたらに撃てなくなる。弾が無くなった時が僕の命が無くなる時ですよ。
それで。。。
最初の夜などは、かなりぶっ放しましたが5日ぐらい経つとライフルを撃つ事も面白くなくなる。それよりも弾の数が減ってくる事の方が心配になりますよ。
それで。。。
とにかく、近くにセブンイレブンはないんですよ。自動販売機もないんですよ。公衆電話もないんですよ。人っ子一人居ないんですよ。短波放送を聞く気になれば聞く事が出来ますが、ラジオなんかかけていたら、獣の物音が聞こえなくなる。ハスキーの群れに襲われたら、命は無いんですよ。耳を澄まして物音だけに神経を集中しますよ。そういう時には寂しいなんて気持ちにはならないものですよ。早く夜が終わってくれないか。そればかりを考えている。気を紛らせることができるのはオーロラを見上げる時ぐらいです。
それでどういう怖い事があったのですか?
1週間ぐらい経った頃ですかねぇ~。僕はもうやたらにライフルを撃たなくなりました。ある程度物音にも慣れてきました。“殺気”という言葉を聞いた事があるでしょう? 僕は初めてそういう経験をしましたよ。あれは、野生化した僕が本能的に感じたものだと思うんですよ。理屈ではどうにも説明できないんです。確かに物音を感じた。でも、それが獣だか潅木の葉っぱが擦れ合う音なのか?あまりはっきりしなかった。 とにかく“やばい”という胸騒(むなさわ)ぎがして僕はライフルを引き寄せてテントの入り口から外をソッとうかがった。
何が居たのですか?
目が2つ光って僕を見ているんですよ。ゾォ~としましたね。僕は引き金に手をかけていましたが撃つ気になれない。
それは何だったのですか?
おそらくハスキー犬か野犬でしょうね。瞬(まばた)きもせずに僕の方をジィ~と見ているんですよ。最初の夜だったら、僕は間違いなく、すぐにぶっ放していましたよ。でも、“殺気”はそれまでなんですよ。僕はもう怖さはない。すぐ撃てるからですよ。僕はブルックリンで人間の返り血を浴びた事があるから、結構そのような度胸はついている。“かかってくるなら来い、ぶっ放してやるだけだ!” そう思いながら僕も睨(にら)みつけましたよ。僕の目もおそらくオーロラの光を受けて光っていたでしょうね。僕には5分ぐらいに感じられたけれど、それ程長い間のことじゃなかったでしょう。とにかく、にらみ合いの挙句、その獣は諦めたようにクルッと身を翻(ひるがえ)すと帰っていきましたよ。
デンマンさんは撃たなかったのですか?
“殺気”が消えていたんですよ。喧嘩した後、さっぱりした気持ちになるでしょう。あの気持ちなんですよ。動物同士だって勝ち負けがついたら相手を殺さないものですよ。
それで、その夜はそれ以外には何もなかったのですか?
何もなかった。もうその獣はやって来ませんでしたよ。
それで、デンマンさんの寂しさって何ですか?
つまり、人間が野生に返って生きるなら、寂しさを感じている暇がないんですよ。僕はしみじみとそう感じたものですよ。そしてあの朝を迎えた時のなんとも言えない幸せな気分。僕はお日様に向かって感謝し、祈るような気分になりましたよ。“あああ。。。お日様さん、ありがとうございます。夕べも無事で命に別状はありませんでした。今夜もよろしくお願いします。どうか僕をお守りください” 朝日を浴びながら、実際そう思ったものですよ。レンゲさんに、この僕の伝えようとしている気持ちが分かりますかあああ?
よく分かりませんけれど、“寂しさを感じている暇がない”ということはよく分かりました。確かに、そのような状況におかれたら、寂しさは怖さでまぎれるかもしれませんね。でも、あたしにはその怖さに耐えることが出来そうにありません。
『群衆の中の孤独! 寂しくって死んでしまいたい』より