乙女の祈りと愚かなラクガキスト
![](http://members.aol.com/barclay1720/myhomepage/images/girlwell.jpg)
おととい(7月9日)、僕がSO-NETのブログに書いた記事(『ん? クラシックと津軽じょんがら節?』)にコメントをもらいました。
もし、あなたが僕のブログの常連ならば分かると思いますが、
他のブログと比べて、僕のブログには極めてコメントの数が少ないのですよね。
なぜか?
なぜなら、これから示す“痛いコメント”ほど僕が熱中して夢中になって厳しい批判をするからです。
これを“誹謗中傷”と受け止めてしまう人が実に多いのですよ。
そのようなわけで、僕に噛み付かれると、もう懲りて2度とコメントを書かない人が多いのです。
しかし、僕は決して誹謗中傷しているわけではないのですよ。
“病んでいる日本”を少しでも良くしたいと思う“自国愛”があるからこそ、
僕は“病んでいる日本”に住んでいる“病んでいる未熟者”に対して
寅さんのような優しい心を持って批判しているつもりなんですよ。
うへへへへ。。。。(でも、マジだよォ~!)
前置きはこのぐらいにして、その病んでいる未熟者が書いてくれたコメントを次に示します。
![](http://members.aol.com/davie1720/myhomepage/images/doctor22.gif)
愚痴ばっかですねここ
不満を他人に押し付けても何も変わらないでしょう
一番腹を立てているのがあなた自身だとは記事の多さを見れば分かります
でもね、自国嫌悪は他人を悪く言ったところで何も変わりませんよ
あなたのような人は腐るほどいます
似た例で言えば都会に出てきた地方の人が
故郷の人へ威張っているようなものでしょうか。
みな自分の顔の醜さを呪う代わりに良く似た親兄弟を呪って自分を忘れたつもりになっているだけなんです
鏡の前の自分に同じ事を言える人でなければこの国は良くはなりません
しかしあなたは海外に移住している身なのでしょう
にもかかわらず心は未だに日本から自立できていないのですか?
きっと現地の人とのコミュニケーションが上手く行っていないのでしょう
友達や悩みを打ち明ける人がいれば
わざわざ遠く離れた故郷の人へ向けてこんなブログを作ることはないでしょうからね。
by きくま (2006-07-09 16:00)
この極めて人間的に未熟なラクガキストがいかに愚か者か?。。。と言うことをここでじっくりと批判しようと思います。
まず、この愚か者がコメントを書いてくれた僕の記事の要点をここに書き出したいと思います。
なぜこのようなことを書く気になったのか?
それは、僕とクラシックの関係を象徴しているように思えたからです。
それを敷衍(ふえん)すれば、クラシックと民謡の関係もうまく説明できるのではないのか?
私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。
ここで僕は、上の太田さんの言葉をもう一度噛み締めてみたのです。
僕は6月13に日に書いた記事(『ん? クラシック興味ある?』)の中で次のように述べました。
“たかが音楽、されど音楽、
それ以上でも以下でもない。”
。。。だと、僕も思いますね。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。
![](http://members.aol.com/barclay1720/myhomepage/images/cute0015.gif)
ここで、もう一度恵美子さんに登場してもらいますが、
僕は、クラシックが何たるものか?と分からないうちに恵美子さんが演奏した“乙女の祈り”を聴いて感動したんです。
もちろん、可愛いと思っていた恵美子さんが弾いたから、中学生の僕は、なおいっそう感動したのです。
僕がピアノを独習で習い始めたのは、この経験があったからで、それがクラシックであったからではないのです。
いづれにしても、一つの曲がある人物によって演奏された事で僕に感動を引き起こした。
その感動が、僕をピアノに近づけさせた。
恵美子さんに会いたいからピアノを弾き始めたわけじゃない。
なぜなら、恵美子さんに会ったのはあの時が初めで最後。
僕の演奏を聴いてもらった事で僕の“片思い”は完結したのです。
でも、それからも、僕は時々“乙女の祈り”を弾いたものでした。
あの感動を自分のものにしたいから。。。
しかし、今の僕はすっかり忘れていて、この曲を弾く事さえできないんですよね。
あれだけハマッた“乙女の祈り”だったのに。。。
つまり僕にとって。。。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。
現在、“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのですよ。懐かしいとは思いますが。。。
しかし、“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられます。
『ん? クラシック興味ある?』より
あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、
“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。
なぜなのか?
“昔の民衆の創造性”とは、具体的にどのようなものなのか?
その答えを見出すために、僕は“津軽じょんがら節”の成り立ちを遡(さかのぼ)って行ったのです。
津軽じょんがら節は津軽民謡の代名詞のようなものですが、
元は新潟・十日町市の「新保広大寺」という唄だと言われています。
これは広大寺の和尚・白岩亮端の時代に起きた農地の耕作権をめぐる土地争いが原因で、
広大寺の和尚を追い出すために歌った「悪口唄」でした。
それが越後で大流行し、やがて越後瞽女(ごぜ)のレパートリーとなります。
これが全国に流行するのですが、それが津軽化したものが「じょんがら節」です。
津軽でも民衆の心に長く記憶される事件が起こりました。
慶長2(1597)年、南津軽郡浅瀬石城主・千徳政氏が、大浦為信に滅ぼされたのです。
しかし、政氏の死後も為信は追討をやめず、ついに政氏の墓まで暴こうとします。
![](http://members.aol.com/barclay1720/myhomepage/images/joue006.jpg)
その戦いで炎上した千徳氏の菩提寺・神宗寺の僧・常椽(じょうえん)は、
それを抗議する意味をこめて本尊を背負って、
上川原に身を投げたと言います。すさまじい話なんですよね。
こうした悲劇を歌った口説節が、じょんがら節であると言います。
つまり、民衆の中から沸き起こった歌なんですよね。
11代にわたって津軽の東の山根に繁栄した千徳家が滅亡。
落城とともに神社・仏閣がすべて焼き払われる。
この時千徳家代々の菩提寺である神宗寺に奉仕していた常椽和尚が、
先祖代々の位牌を背負って逃げた。
ところが、捕らえられそうになったので
白岩の断崖から浅瀬石川(上川原)に身を投じて一生を終えたのです。
年を経た夏に、川原で遊んでいた子供達が常椽和尚の変わり果てた遺体を砂の中にみつけ、
村人が相談して墓をつくり、ねんごろに弔ったと言われています。
その後、その場所を常椽川原(じょうえんがわら)と呼ぶようになったそうです。
それから毎年、お盆には常椽川原に集まり供養をし、
代々の城主をはじめ先祖の霊を慰め、
常椽和尚を偲ぶために即興で歌われたのが「津軽じょんがら節」の始まりだと言われています。
常椽川原もいつしか上川原(じょうがわら)となり、更には「じょんがら」と言われるようになったわけです。
つまり、“民衆の創造性”から生まれた唄というものは、
もともとのクラシックのようにorder-madeではなかったのですよね。
民衆の中から沸き起こった歌。
血と汗と涙。。。
そのような苦労の中で民衆の口により歌い継がれて現在の我々にまで知られるようになった。
現在の僕が、あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、
“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。
それは、やはり、この唄が血と汗と涙の中で民衆によって受け継がれてきたからではないのか?
芸能プロダクションがミーハーの歌手を育てて広めたわけでもない。
そうやって金儲けをするために歌われてきたわけではない。
テレビやラジオで宣伝して広めたわけでもない。
演奏会や、音楽会を開いて広めたわけでもない。
紅白歌合戦があったわけでもない。
レコード会社が儲かるからと言ってレコードに録音したわけでもない。
私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。
この汚染されきった世界に住むことは、あまり幸福とは言えない、という気持ちである。
つまり、太田さんが言うところのこの汚染されきった世界こそ、
すぐ上に書いた芸能プロダクションであり、
テレビやラジオの功利主義であり、
演奏会や音楽会の商業主義であり、
紅白歌合戦と言う馬鹿騒ぎであり、
レコード会社の儲け主義ではないだろうか?
僕が“津軽じょんがら節”を聴いて魂をゆさぶられるのは、
“民衆の創造性”に僕の心の琴線が触れたからだと僕は信じています。
本尊を背負って、上川原に身を投げた常椽(じょうえん)和尚の無念な気持ち。
その和尚に同情を寄せる村人たち。
その中で和尚を悼(いた)み偲ぶ唄が生まれ、その悲劇と共に民衆に歌い継がれてゆく。
僕は、このような悲劇のことは何も知らない。
しかし、その悲劇性と、農民の気持ちが、この歌の響きの中に、旋律の中に込められている。
そして、その唄が津軽三味線で奏(かな)でられるとき、僕の魂をゆさぶる。
そういうことだと思うのですが。。。
あなたはどう思いますか?
『ん? クラシックと津軽じょんがら節?』より
愚か者の“きくま”は僕のブログの記事の多さだけに圧倒されて、記事をよく読んでいないのですよね。
僕のどの記事を読んでも分かりますが、僕は“愚痴”など書いていませんよ。
ブログでは、愚痴など書くな!。。。と言っているほどですよ。
『ブロガーの条件とは。。。。?』
上の記事の中で“小額2年生”のえっけん君がブログに“愚痴”を書いているのを批判して
僕ははっきりとブログは愚痴を書くことが目的ではないこと、
もし愚痴を書きたいのなら、一人だけで読むような日記帳につけるべきだと言うことを書いているんですよ。
その僕が“愚痴”を書いているわけがない。
つまり、上の記事でさえ、愚かで未熟な“きくま”は良く読んでおらず、まったく理解していない!
だから、トンチンカンなコメントを書いてしまう!
自分で“病んでいる自分”を曝(さら)け出してしまっている!
そのことに、愚か者の“きくま”は全く気づいてもいない!
まったく愚かで未熟者だとしか言いようがないのですよ。
そういうわけで、初めて“きくま”の書いたコメントを読んだ時に、
僕は次のような返信を書いたわけです。