愛と真実
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卑弥子さんと業平さんの話を
でっち上げた根拠は何でしょうか?
卑弥子さんとレンゲさんの楽しい対話を読ませてもらいました。
しかし、当時の史料からは、業平が狩の使で伊勢に派遣された事実は認められない、と『ウィキペディア』にも書いてありますよね。
歴史的観点から見るならば、『伊勢物語』の斎宮と「狩の使」は恬子内親王と在原業平ではない、ということになります。
つまり、卑弥子さんと業平さんは一夜の契りを持たなかったことになります。
それにもかかわらず、上のような話をでっち上げた根拠は何でしょうか?
歴史バカにも分かりやすく説明してくれるとありがたいです。
よろしく。
by 歴史バカ
2008年2月17日午後7時21分
『女の秘め事 (2008年2月17日)』のコメント欄より
デンマンさん。。。卑弥子さんから聞きましたか?
聞きましたよう。。。かなり慌(あわ)てていましたよ。今日は出られませんからよろしく、と言って逃げるようにして消えてしまいましたよ。うしししし。。。
笑い事ではありませんわ。この“歴史バカ”ってどなたですか?
僕にも分かりませんよ。おおよその見当は付いていますが、特定できません。
どうして特定できないのですか?
特定できると言ってしまうと、コメントがますます付かなくなりますからね。うへへへへ。。。最近、まともなコメントをもらっていないので、こうして真面目なコメントを見るとうれしくなってしまいますよう。
誰だか分からなくてもかまいませんけれど、“話をでっち上げた根拠は何でしょうか?”という質問はかなりマジですよね?
もちろん、冷かしではないでしょうねぇ。僕もそのつもりで真面目にコメントに答えるつもりですよ。
デンマンさん。。。大丈夫ですか?。。。相手は歴史の専門家かも知れませんよ。
日本古代史の教授だろうが、日本古代史の権威だろうが、一向に構いませんよ。
デンマンさんはずいぶんと自信がおありなのですね?
いや、いや。。。自信なんてありませんよう。でもねぇ、この『伊勢物語』の斎宮と「狩の使」に関する限り、日本古代史の教授だろうが、日本古代史の権威だろうが自信はないはずですよ。
どうして、そのような事が言えるのですか?
もし、この件について自信がある古代史研究家が居れば、すでにこの問題はとっくの昔に片付いていましたよ。誰も確証を見い出せないから、未だに解き明かされていない歴史上の謎ですよ。
それで。。。それで。。。今日はデンマンさんがその謎に挑むのですか?
そうですよ。歴史バカさんが上のようなコメントを書いたから、とにかく、その疑問に答えなければならないでしょうね?
デンマンさん。。。自信はありますか?
ありません!
そのように頼りない事をおっしゃらないでくださいなぁ~。いつものデンマンさんらしくありませんわぁ。
しかし、確証はないけれど、歴史バカさんの質問に充分に答えられるだけの材料を持っていますよ。レンゲさん、安心してくださいよ。
分かりましたわ。。。で、どこから手をつけるのですか?
まず、歴史バカさんが取り上げた『ウィキペディア』の項目から話しを始めようと思いますよ。
斎宮と狩の使
『伊勢物語』では、「狩の使」として登場する在原業平(ありわらのなりひら)と「斎宮なりける人」と呼ばれている恬子内親王(やすいこないしんのう)は、ついに逢瀬を遂げることは出来なかったことになっている。
しかし、この一夜の契りによって、恬子内親王が懐妊してしまったという説がある。
この前代未聞の不祥事が発覚することを恐れた斎宮寮は、生まれてくる子供を伊勢権守で斎宮頭であった高階岑緒の子、高階茂範の養子にすることにし、子は高階師尚と名づけられたという。
ただし当時の史料からは、業平が狩の使で伊勢に派遣された事実は認められず、またいくら美男で皇孫とはいえ、父親の文徳天皇よりも年上でしかも臣下の業平と、はたして未婚の内親王である斎宮が、事実恋におちたのか、いまだ疑問の余地はあろう。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『ウィキペディア』の説明にあるように「当時の史料からは、業平が狩の使で伊勢に派遣された事実は認められ」ないのですよ。
つまり、文書史料(文献)至上主義によると、このような事実は歴史的には無かった事になるのですね?
そうです。でもねぇ、文書史料(文献)が無いから歴史的事実ではない、と断定する事はできないのですよ。
どうしてですか?
例えば、持統天皇が詠んだ有名な歌がありますよね。
春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の
衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山
レンゲさんも学校の『古文』の授業で習ったでしょう?
ええ、覚えていますわ。
これは一般的に次のように解釈されているのですよ。
天香具山の麓で、白妙を衣を干しているのは貴族ではあるまい。
付近の農民たちが自分たちの白妙を干している姿が目に浮かぶ。
それを小高い宮城から見て微笑んでいる持統天皇の姿というのは私には感動的でさえある。
この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。
決して農民を虫けらのごとく扱っていない。
そして農民たちの生活がますます豊かになることを、
和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。
『いにしえの愛とコミュニケーション (2007年1月8日)』より
レンゲさんも『古文』の時間に、これと似たような説明を先生から聞いたでしょう?
そうですね。
僕は全く違う解釈をしているのですよ。
どのような。。。?
次に書き出しますよ。読んでみてください。
春が過ぎて夏が来たようだ。
天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~
でも、私の心はあの山の裏にある
磐余(いわれ)の池を見ているのです。
大津皇子が自害する前に池の端で
辞世の歌を読んだという。
自害の後で、皇子の妻であり、
私の腹違いの妹でもある山辺皇女が
髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、共に殉死したという。
痛ましいには違いない。
しかし私は、ああせねばならなかったのです。
怨霊になって私を憎んでいるのかもしれないけれど、
私には他にとるべき道はなかったのです。
どうか、心安らかに眠っていて欲しい。
上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。
この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。
この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。
現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。
僕(デンマン)もそう考えています。
つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。
“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。
持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。
とにかく、証拠がないんですよ!
しかし、状況証拠を寄せ集めれば、このような解釈しか僕にはできないんです。
関心のある人は、なぜ僕がこのように解釈したのか?を理解するために、ぜひ次の2つの記事を読んでくださいね。
■ 【いにしえの愛を求めて。。。】
『万葉集の中の持統天皇のあの有名な天香具山の歌は、
大津皇子の怨霊を鎮魂するために詠われたのでしょうか?』
■ 【いにしえの愛を見つめて。。。】
不破内親王(安倍内親王とは異母姉妹)は悪霊扱いされています。
果たして悪霊にあたいするのでしょうか?』
僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。
“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”
名言だと思いますねぇ~~。
あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!
持統天皇が、おそらく全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのが上に示した歌です。
あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。
大伴家持は一読者として持統天皇の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。
大伴家持は、1250年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、女帝の歌を万葉集に載せたのかも知れませんよ。
つまり、この歌の表面的な意味は、天の香具山の麓で農民たちが白妙の衣を干している、という事ですよね。
僕は初めてこの歌を読んだとき、どうしてこの歌がそれ程読むだけの値打ちがあるものか?
正直言ってさっぱり分からなかったですよ。
僕の感性に訴えてこなかった。
ところが大津皇子の事件を調べてゆくうちに、
この歌が、急に関連があるように思えてきた。
それで、僕は上のように解釈したんですよ。
味も素っ気もなかった歌が、このように解釈する事によって叙事詩的に広がりを持ってくる。
自分ながら、面白いと思いましたよ。
『いにしえの愛とコミュニケーション (2007年1月8日)』より