美女とオナラ (PART 1)
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あらっ。。。 あなたァ~。。。
そこに居たのねぇ~。。。
知らなかったわァ~。。。
ついでだから、残りのオナラも
聞かせてあげるわねぇ~。。。
わたしのオナラの連発を聞いてね!
あなたのために
日本創世記をイメージした
「狂屁曲ヘ長調 創世記」です!
お楽しみくださいませ。 (笑)
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デンマンさん。。。 初めから馬鹿バカしいほどにも限度というものがござ~ますわァ~?
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あれっ。。。 卑弥子さんは面白くないのですかァ~?
美人を登場させて オナラを連発させて 品がないとは思わないのでござ~ますかァ~?
あれぇ~ やだなあああァ~。。。 卑弥子さんから「品がない!」と言われるとは思わなかったなあああァ~。。。
それは、どういう意味でござ~ますかァ?
だってぇ~、卑弥子さんこそ品のないことをしているではありませんか!
【卑弥子の独り言】
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あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”が最近、日本語が解る世界の男性にも注目されているのですわよう。。。
香港でも、ニューヨークでも“ヴィーナスのえくぼ フィーバー”が起こっているのですわァ。
ええっ。。。 マジで信じられないのですかァ~?
じゃあ、ちょっと次の検索結果を見てくださいまし。。。
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■『拡大する』
■『現時点での検索結果』
「卑弥子 女性の本当の魅力 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。
つまり、香港からも あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわァ~。。。
うふふふふふふ。。。
あなたも、ビックリするでしょう?
ジムに毎日通って“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたのですわよ。
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どうでござ~ますかァ?
ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?
どうしてよう?
ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?
あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、
最後には上のようなおヌードになるのですわよう。
信じてくださいましなァ~。。。
『絵里香さん』より
(2017年8月9日)
セックスアピールあふれた“ヴィーナスのえくぼ”を ネット市民の皆様にご覧に入れて、どこが品がないのでござ~ますかァ~!? オナラの連発よりも、よっぽど上品でござ~ますわァ~。。。
分かりました。。。 分かりました。。。 ここで言い合っていると長い記事が更に長くなるので、とにかく次の小文を読んでみてください。。。
静女の身投げ
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宮崎県都城市・関之尾の滝
今から約650年ほど前の昔、庄内町(都城市)の関之尾の滝で、島津の殿様が仲秋の夜を選んで、月見の宴を張った。
月を愛で、虫の音を聞きながら、家臣一同は静かに盃を重ねていたが、そのうち誰か、放屁した者がある。
あたりの雰囲気にあまりにも似つかわしくない無作法である。
「いやしくも殿の御前で無礼であろう」
殿様の不興を恐れて、粗忽者の詮議が始まった。
そして腰元のなかでも最も美しい静女に嫌疑がかかった。
静女は、身に覚えがないことを言い張ったが、取調べの係りの者は容易に聞き入れてくれぬ。
翌朝、静女は無実の罪を恨んで、滝壷に身を投げた。
入水にあたって、静女は、殿にお酌をしたときの盃を、形見に袖に忍ばせていた。
月見が行われた9月14日の夜、その夜になると定紋入りの盃が、今でも滝壺に浮き上がるといわれている。
書きおくも
形見となれや
筆の跡
又逢う時の
しるしなるらん
付近の石に上のような歌が刻みこまれてあるが、この歌は静女の辞世であると伝えられている。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
135-136ページ 『落書きに歴史を読む』
著者: 三上喜孝
2014(平成26)年4月1日 第1刷発行
発行所: 株式会社 吉川弘文館
つまり、上の本を読んだので、デンマンさんも急にオナラのことが また書きたくなったのですかァ~?
そうです。。。 いけませんかァ~。。。
つまり、デンマンさんはオナラにハマっているのですわねぇ~?
いや。。。 僕は別にオナラに関心があるわけではないのですよ。。。
でも。。。、でも。。。、これまでにも、ずいぶんとオナラの記事を書いてますわァ~。。 7月19日には『オナラの曲芸』、そして 8月1日には『漱石とオナラ』という記事を書いたばかりではござ~ませんかァ~!
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■『オナラの曲芸』
■『漱石とオナラ』
8月1日に『漱石とオナラ』を投稿してから、まだ1ヶ月も経ってないのでござ~ますわァ~。。。
あのねぇ~、今日はオナラの話というよりも美人に生まれると 大変な目に遭うという話ですよ。。。
つまり、上のエピソードの静女さんは腰元のなかでも最も美しいために、オナラをしたという嫌疑をかけられた、とデンマンさんは断定するのですか?
その通りですよ。。。 静女さんは、美人であり、人柄も良かったので、求めに応じて殿様にお酌をしたわけですよ。。。 だから静女さんも嬉しかった。。。 それで盃を記念にと思って袖に忍ばせたわけです。。。 ところが、それを見ていたブスの腰元は、ムカついたわけですよ。。。 それで、取調べの係りの者に、このブスの腰元が、本当は自分が ものすごい“すかしっぺ”をしたのに「静女がやったのよ!」と告げ口したのですよ。。。
それで取調べの係りの者が静女さんがやったと決め付けたのでござ~ますか?
そうですよ。。。 この取調べの係りの者は、かつて静女さんをナンパしようとしてフラれたものだから、この機会に“敵討ち”をしようと、静女さんがやったことにしたわけです。。。
この取調べの係りの者は、デンマンさんの祖先ではありませんか!
僕の祖先は、その殿様ですよ。。。(微笑) 僕の祖先には静女さんを悪者にしようというようような下衆(げす)の者はいません。。。
でも。。。、でも。。。、このエピソードだけで、美人に生まれると 大変な目に遭うというのは あまりにも軽率な結論ではありませんか?
だったら、次のエピソードを読んでください。。。
松江城
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工事中の二の丸広場で盆踊りが行われたときのこと、老若男女うちついどい、夜も更けるまで踊る輪の中で、ひときわ美しく踊りの上手な乙女が堀尾吉晴の目にとまり、この乙女が城内に連れ去られて人柱とされたという。
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吉晴は城の完成を見ることなく没し、堀尾氏三代、京極氏一代につづいて、寛永15年(1638)2月、越前宰相忠直の弟松平直政が入封、工事は引き継がれた。
直政が、城検分のために天守閣に上ると、最上階の天狗の間に妖しいまでに美しい女が座っており、
「この城は妾(わらわ)の城じゃ。 そなたはだれじゃ。 城は渡すまいぞ」という。
女の亡霊がたびたび現れるので、「この城」に未練があるのであろうと、直政は宍道湖で獲れる「鰶(このしろ)」を供えて鎮めた。
以来代々の城主も襲封の折には、荒神櫓に鰶を供える習慣ができたという。
この美しい女が人柱になった霊であると伝えられている。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
207-208ページ 『日本の城ハンドブック新版』
監修者: 小和田哲男
2005年11月3日 第1刷発行
発行所: 株式会社 三省堂
つまり、ひときわ美しく踊りの上手な乙女が居たので、人柱にするために連れ去られたというのでござ~ますか?
そういうことですよ。。。
でも。。。、でも。。。、これはその当時の人々の間で語り継がれた伝承ですわ。。。 単なる噂話かもしれませんわ。。。 名前も伝わってないではありませんか!
分かりました。。。 だったら、名前が伝わっている伝説があるのですよ。。。
「早百合(さゆり)」と言う美しい側室がいたとされる。
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成政はこの早百合を深く寵愛してはばからず、早百合は懐妊する。
それが嫉妬を呼んだか、ある時成政が城を留守にした時に、「早百合が密通している。お腹の中にいる子どもは成政様の子ではない」と言う噂が流れた。
帰城した成政はこれを聞いて烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿いまで引きずり、髪を逆手に取り宙に引き上げ、殺してしまった。
それだけでなく、早百合の一族18人全ての首をはね、獄門に磔にしてしまう。
早百合は死ぬとき、「己成政此の身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし」(『絵本太閤記』)と叫んだ。
また、早百合姫は「立山に黒百合の花が咲いたら、佐々家は滅亡する」と呪いの言葉を残して死んだとも言う(黒百合伝説)。
佐々瑞雄(成政の甥、佐々直勝の子孫)によると、母に「わが家では、絶対ユリ科の花は活けてはいけません」と言われていたという。
早百合が殺された神通川の辺りでは、風雨の夜、女の首と鬼火が出るといい、それを 「ぶらり火」と言った。
その他にも無念の死を遂げた早百合にまつわる話は数多く残されている。
この話以外にも、成政の死後、その影響力からか勝家と同じく評判を貶めるための数多の真偽不明な逸話が残されている。
出典: 「佐々成政」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
どうですか。。。 この話は、ちゃんと名前が伝わっているのですよ。。。 佐々成政という武士は歴史上の実在の人物です。。。
つまり、早百合さんが美人であったばっかりに、このような悲惨な事件が起きたとデンマンさんは主張するのですか?
だってぇ、そうでしょう。。。 もし、早百合さんがブスだったら、そもそも「早百合が密通している。お腹の中にいる子どもは成政様の子ではない」と言う噂が流れませんよ。。。 常日頃から、正妻や他の側室が無視されていたから、その者たちの恨みを買って、早百合さんを誹謗・中傷する噂が流れたのですよ。
でも。。。、でも。。。、イマイチ納得できませんわァ~。。。
分かりました。。。 では、卑弥子さんも納得できるようなエピソードがあります。。。
それは、どなたのエピソードでござ~ますか?
京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義している平成の紫式部である 橘卑弥子・准教授も良く知っている人物のエピソードですよ。。。
だから、それはどなたですかァ~?
和泉式部さんです。。。
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和泉式部に生み捨てられた子が、やがて比叡山に預けられ、道命阿闍梨(どうみょうあじゃり)と呼ばれる法師になった。
あるとき、法華八講をつとめるために宮中に赴いたところ、そこにいた年上の女性を見初めてしまう。
後日、柑子(こうじ)売りとなって宮中に入りこんだ道命は、その女性が自分の母親とも知らずに、一夜の契りを交わしてしまうのである。
翌朝、和泉式部は、道命が持っていた守刀に気づき、この守刀の由来を尋ねる。
「女性の身ならともかく、あなたのように男性が守刀を持っているのは、どういうわけですか」
これに対して道命が答える。
「これは、わけのある刀でございます。 どういうわけかと申しますと、私は、五条の橋の捨て子でございますが、養子の父より育ててもらったのでございます。 また、私にこの刀を添えて捨てられたその刀なので、これを母と思い、肌身離さずもっているのです」
心当たりのある和泉式部は、道命に次々と尋ねる。
「それでは、あなたは何歳におなりですか」
「子供の頃に捨てられたと聞いております。 今はもう、大きくなりました」
さらに、「産衣は何でございますか」とたずねたところ、道命は「菖蒲の小袖の褄に、一首の歌が書かれておりました」といって、
百年に
また百年は
重ぬとも
七つ七つの
名をば絶えじな
…という歌を答えたのである。
和泉式部は、自分の子を捨てたとき、鞘をわが身のかたみと思い、これを肌身はなさず持っていた。
その鞘を取り出して合わせてみると、疑いもなくもとの鞘であった。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
84-85ページ 『落書きに歴史を読む』
著者: 三上喜孝
2014(平成26)年4月1日 第1刷発行
発行所: 株式会社 吉川弘文館
これは室町時代に成立した『御伽草子(おとぎぞうし)』のなかの「和泉式部」という物語に出てくるエピソードです。
つまり、和泉式部が美人だったので、こういう話が生まれたとデンマンさんは断定するのでござ~ますか?
そうです。。。 彼女がブスだったら、こういう話は生まれないのですよ。。。
そうでしょうか?
あのねぇ~、和泉式部は明らかに美人で性格も当時としては自由奔放であったようです。。。 それで、恋愛方面でも活躍した。。。 ウィキペディアには次のように書いてあります。
和泉式部
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長保元年(999年)頃までに和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入る。
後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。
道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。
帰京後は道貞と別居状態であったらしく、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。
紫式部は和泉式部を評して「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ」と『紫式部日記』に記されている。
為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた。
親王は式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作った。
敦道親王の召人として一子・永覚を設けるが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。
寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。
長和2年(1013年)頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。
万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが晩年の動静は不明。
娘を亡くした愛傷歌は胸を打つものがある。
「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」は、性空上人への結縁歌であり、式部の勅撰集(拾遺集)初出歌である。
仏教への傾倒が伺われる。歌の返しに性空から袈裟をもらい、それを着て命を終えた。
人物
恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。
また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。
真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。
逸話や墓所と伝わるものは全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ないものも多い。
柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。
出典: 「和泉式部」
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このエピソードは明らかにギリシア神話のオイディプースの日本版のようなものですよ。。。
まさかァ~。。。 時代も違うし、場所も遠く離れた古代ギリシアの土地ですわァ。。。
室町時代までには、ギリシア神話は中国を通して日本にも伝えられたはずです。
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スピンクスを倒したオイディプースは、テーバイの王となった。
そして実の母であるイオカステーを、母であるとは知らずに娶って二人の男児と二人の女児をもうけた。
二人の男児はそれぞれエテオクレースとポリュネイケースといい、二人の女児はそれぞれアンティゴネーとイスメーネーという。
出典: 「オイディプース」
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つまり、室町時代の知識人がオイディプースの神話を和泉式部を登場させて日本語版としたのでござ~ますかァ~?
それまでに登場した歴史上の女性で、和泉式部が最もその物語の悲劇のヒロインとしてふさわしいのですよ。。。 それは、彼女が美人であるとともに、藤原道長からは「浮かれ女」だと言われ、紫式部からも「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と言われたのですからねぇ~。。。
和泉式部はそれほど嫌われ者だったのでござ~ましょうか?
あのねぇ~、ちょっと藤原道長関連の家系図を見てください。。。
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あのねぇ~、この当時の貴族は家格を維持するために、政略結婚が当たり前だったのですよ。。。 その最もいい例が藤原道長が企んだ政略結婚です。。。 赤枠で囲んだ威子(いし)に注目してください。。。 寛仁3年(1019) 道長は54歳になります。。。 この年、後一条天皇に三女の威子が入内します。。。 つまり、11歳の甥と20歳の叔母の結婚です。。。 現在ならばありえない政略結婚ですよ。。。 でも、当時は、こういう結婚はごく普通に行われていた。
あたくしは政略結婚でもいいから、早く結婚したいですわァ~。。。 (モナリザの苦笑)
こういう時に、自由恋愛をした和泉式部は当然のことながら冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けたのですよ。。。 それで、藤原道長からは「浮かれ女」だと罵(ののし)られ、紫式部からも「素行には感心できない」とシカトされたのですよ。。。
それで和泉式部を 忌み嫌われる悲劇的な母子相姦の物語に登場させれば、誰もが納得すると作者は思ったのでござ~ましょうか?
その通りですよ。。。 恋多き自由奔放な和泉式部は、それほど同性からも妬(ねた)まれたのですよ。。。 でも、卑弥子さんの場合には、そういう心配がないから、幸せな人生を送ることができます。。。 あの世に逝ってからも、悲劇のヒロインにされることもありません!
つまり、あたくしはブスなので、そういう心配がないと、デンマンさんは断定するのですかァ~?
いや。。。 僕は卑弥子さんがブスだとは言ってません。。。 卑弥子さんは“ヴィーナスのえくぼ”をゲットした美人だけれど、悲劇のヒロインにされるほど美人ではないと言っているだけですよ。。。
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