性と愛@古代史 (PART 1)
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デンマンさん。。。 今日は古代史のヤ~らしいお話でござ~♪~ますか?
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いけませんかァ~。。。
たまには格調高いお話をしませんかァ~?
実は、今日も格調高い話なのですよゥ。。。
信じられませんわァ。。。
じゃあ、ちょっと次のリストを見てください。。。
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■『拡大する』
■『性と愛にまぎれ込ませて』
これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の3月1日の午前11時31分から2日の午前4時13分までの約5時間の「生ログ」のリストの一部です。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しいのです。。。
あらっ。。。 日本語版のGOOGLEで検索して『性と愛にまぎれ込ませて』を読んだネット市民がいたのでござ~ますわねぇ~。。。
そうです。。。
やっぱり、タイトルからしてヤ~らしいお話ではござ~ませんかァ!
違うのですよ。。。 実は、この記事を読んだのは横浜市に住んでいる 明智 美佐代さんです。。。 横浜にある鶴見大学の文学部の4年生です。
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この写真の女性が美佐代さんなのでござ~ますかァ?
そうです。。。
どうして女性の場合だけ、デンマンさんは魅力的な写真を貼り出すのですかァ~?
僕が取り上げる男は、たいてい悪い奴が多いのですよ。。。 例えば、「ネトウヨ!」と喚(わめ)きながら嫌がらせのコメントを書く「現実主義者」のような愚か者です。。。
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■『ネットで笑われている現実主義者』
この愚か者の「現実主義者」のムカつかせるような顔を卑弥子さんは見たくないでしょう?
見たいですわァ~。。。
あのねぇ~、僕は見せたくないのですよ。。。
どうして。。。?
だから、写実的な写真を見ると 卑弥子さんはムカついて ヘドが吐きたくなるからですよ。。。 最悪の場合、卑弥子さんが、この「現実主義者」の顔を見ると、呼吸困難を起こして ムナクソが悪くなり入院しなければならなくなりますよ。。。
じゃあ、なおのこと一度見てみたいですわァ~。。。 うふふふふふ。。。
あのねぇ~、今日は、愚かな「現実主義者」の話をするために卑弥子さんを呼び出したわけじゃないのですよ。。。 記事が長くなるから、本題に入ります。。。
分かりましたわ。。。 で、どのようにして美佐代さんは検索したのでござ~ますか?
次のようにして検索したのですよ。。。
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■『拡大する』
■『現時点での検索結果』
美佐代さんは「性と愛 天智天皇 徒然」と入れてGOOGLEで検索したのです。。。 すると、8,640件ヒットするトップに「徒然ブログ」の『性と愛にまぎれ込ませて』が表示されるわけです。。。
あらっ。。。 「性と愛」に「天智天皇」を付け足して検索したのですわねぇ。。。
そうです。。。 さらに「徒然」を付けたしたのは、美佐代さんが『徒然ブログ』の常連さんだからです。
。。。で、美佐代さんは何を調べようとしたのですか?
卒論のテーマが“天智天皇の性と愛について”というのですよ。。。
何で、デンマンさんは、そこまでご存知なのでござ~ますかァ?
美佐代さんが記事を読んでからメールをよこしたのです。。。
まじで。。。?
卑弥子さんは信じられないのですか?
。。。で、どのような事を書いてよこしたのでござ~ますかァ?
卑弥子さんにも教えたいのだけれど、ブログには出さないでくださいと書いてあったから、ここで言うわけにはゆかないのです。。。
つまり、ヤ~らしいことをデンマンさんと語り合ったのですわねぇ~。。。
卑弥子さんは、何が何でもヤ~らしい事に結びつけるのですねぇ~。。。
だってぇ~、ヤ~らしいお話は面白いのですものォ~。。。 うふふふふふ。。。
あれっ。。。 さっきは、ヤ~らしい話は嫌だと言ったじゃありませんかァ!
ここで、デンマンさんとガタガタ言い合うと、この記事が長くなるだけでござ~ますから、先に進んでくださいなァ~。。。
あのねぇ~、美佐代さんは あくまでも真面目な質問を書いてよこしたのですよ。。。 とにかく、美佐代さんが取り上げた箇所を読んでみてください。。。
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茜(あかね)さす
紫野行き
標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや
君が袖振る
茜色の光に満ちている紫野(天智天皇の領地)で、あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわ。
後で、その番人が天智天皇に告げ口するかもしれませんわよ。
。。。という意味です。
「君」は後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)、標野(しめの)は上代、貴族の所有で、一般人の立ち入りを禁じた領地。
この歌は大海人と額田女王(ぬかだのおおきみ)との恋の歌とされています。
大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、万葉随一の女流歌人と言われた額田女王(額田王とも書く)は神に仕え、神祇を司る巫女であった。
彼女はまた絶世の美女とも言われていた。天智天皇・天武天皇に深く愛された。
彼女の生きた時代には、朝鮮半島への出兵があり、白村江(はくすきのえ)の戦いがあった。
飛鳥から近江への遷都、壬申の乱といった事件も起きた。
激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの想いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性。
彼女は、巫女としての自分と、二人の天皇の愛の間で揺れ動く女としての自分、そして天武天皇との間にもうけた十市皇女(といちのひめみこ)の母としての自分という、複雑な立場からの葛藤の中で悩みながらも、自分を高く維持し、歴史の荒波に耐えて、鮮やかに生きぬいた。
その女性が、ただノー天気に “あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわよォ~おほほほほ。。。”なんて詠(うた)っているだけだとしたら、この女性は愚か者ですよね。
お笑いものですよね?そう思いませんか?
でも、どの歴史書を読んでも、彼女が愚か者だったとはどこにも書いてありません。
むしろ、“美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性”と書いてあることが多い!
しかも、彼女が詠(よ)んだ歌に出てくる男は、誰あろう、天智天皇と天武天皇なんですよね。
だから、上の歌を単なる“恋の歌”として読むのは、あまりにも単純すぎると僕は思うわけですよ。
万葉集は政治批判のために。。。?
僕がこの万葉集に奇異なものを感じたのは“防人(さきもり)の歌”が載っていることでした。
なぜ、無名の防人が読んだ歌をこれほど名前の通った“日本最古の歌集”に載せたのか?
たとえばですよ。。。
あなたが編集長になって、これから1000年先の人にも読んでもらえるような詩集を作ることになったとする。
そうなったら、おそらく、あなたは現在の有名な詩人に話を持ちかけて、すばらしい詩を作ってもらうか、その人がすでに作ったすばらしい詩を載せることだろうと思います。
その方が簡単だし、あなたの名前にも“ハク”がつく。
あの有名な詩人が作った詩が載るような詩集を出した。。。というように言われる。
現代であれば、さしずめ。。。天皇はもちろん、総理大臣、大蔵大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判事、検察庁長官、東京都知事。。。こういう人たちの詩が載るわけですよね。
そういう詩の中に、代々木公園のダンボールで作った小屋の中に住んでいる、どこの馬の骨とも分からない名もないホームレスの若者の詩を載せる。
そんなことをしたら、笑いものにされるかもしれない?
でしょう? うへへへへ。。。
無名の防人の歌を載せるということは、言ってみれば、そういうことですよね。
それなのに、なぜ?
必ず理由があるはずなんですよね。
動機があるはずです!
現代ならば“民主主義”のために下々の名もない国民の詩を載せるという大義名分が立つ。
しかし、奈良時代では、もちろん民主主義なんて考えている人は当時の“政治家”の中には居なかった。
1000年以上早い“思想”でした。
日本に民主主義が“輸入された”のは太平洋戦争後だった。
明治、大正、昭和の、それまでの日本人は天皇の“臣民”だった。“国民”でもなければ“人民”でもなかった。
天皇陛下のためだと言われれば、お国のために死ななければならなかった。
今の僕には、そんなことは馬鹿馬鹿しくてできませんよ。
やれと言われれば、国外に脱出しますよ。(。。。だからじゃないけれど、他の理由で現在、国外に居ますよ!)
江戸時代には武士と将軍を養うために働かされていた“百姓”だった。
その“百姓”たちは“生かさず殺さず”搾り取られていた。
人権なんてものはなかった。
まるで虫けらのように生かされていた!
万葉時代というのは、その江戸時代から数えても1000年以上も昔ですよ!
この万葉時代といわれた奈良時代の後に平安時代がありますよね。
“平安”時代なんて、いかにも平和で雅(みやび)やかな名前をつけていますが、それは貴族から見てのことであって、名もない庶民(被支配者)にとっては“地獄”時代だった。
詳しいことは次のリンクをクリックして読んでみてください。
■ 『平安時代は決して平安ではなかった!』
だからこそ、奈良時代に名もない防人の歌を載せるということは大きな意味がある事なんですよね。
一体、誰が名もない防人の歌を載せたのか?
いったい誰が万葉集の編集長だったのか?
実は、さまざまな説があるようですが、大伴家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力のようです。
僕も歴史の時間にそのように習ったし、今調べなおして、ますますそうだと思うようになりました。
なぜか?
この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
大伴 家持 (おおとも やかもち)
養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。
この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
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橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。
宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。
延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。
SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大伴氏は古代日本の有力氏族の一つなんですよね。
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされています。
軍事氏族として物部氏と共に軍事の管理を司っていた。
大伴氏は天皇の親衛隊的な機能を果たしていた。
それに対して物部氏は国防軍的な役目を持っていた。
雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連(おおむらじ)になった時に全盛期を迎えた。
金村は継体天皇を迎え入れた功績があり、また任那の運営を任されており、武烈、継体、安閑、宣化、欽明の5代にわたって大連を務めたが、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚した。
これ以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入ります。
しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大化の改新の後、649年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっています。
また、672年の壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てて、以後の政界で大納言・中納言・参議等が輩出しています。
つまり、大伴家持が生きていた時代には大伴氏は、どちらかと言えば“反主流派の名門”と言うような存在だったという事が読み取れます。
もはや政治的実権などは手中にはない。
しかし、当時実権を握っていた“新参者の藤原氏”に対して反骨精神を持って立ち向かっているという姿勢を僕は感じます。
武器を持って藤原氏に立ち向かうほどの勢力があるわけではない。
では、何で戦うのか?
歌です!
そのために大伴家持は万葉集を編纂したのではないのか!
僕はそう思っているわけです。
そのように考えると、防人の詠(よ)んだ歌を万葉集の中に入れてカムフラージュしながら“歴史の真相”を後世に伝えようとした大伴家持の意思を読むことができます。
防人の歌がなぜそれほどまでに
政治批判になるのか?
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防人は、筑紫(ちくし)・壱岐(いき)・対馬(つしま)などの北九州の防衛にあたった兵士たちのことです。崎守(さきもり)の意味だと言われています。
664年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)が防人と烽火(のろし)の制度を置いてからのことです。
これは、前年、663年の朝鮮半島での白村江(はくすきのえ)の戦いに負けたために、防衛のために作った制度です。
防人には東国の人たちが選ばれました。なぜ東国の人たちが選ばれたかはいろいろな説がありますが、東国の力を弱めるためだったでしょう。
任期は、3年で毎年2月に兵員の三分の一が交替することになっていましたが、実際にはそう簡単には国に帰してはもらえなかったようです。
東国から行くときは部領使(ぶりょうし)という役人が連れて行きます。
もちろん徒歩で北九州まで行くわけです。
当時の人たちにとって辛い旅だったことは間違いありません。
帰りは、なんと、自費なのです。
だから、帰りたくても帰ることができない人がいました。
また、無理して帰路についても、故郷の家を見ること無く、途中で行き倒れとなる人たちもいたのです。
ホテルだとか旅館などはありませんでしたからね。
野宿ですよ。
追いはぎだとか野党に襲われて命を落とす人もいたのです。
一文無しになって放り出されれば乞食になるか野垂(のた)れ死にするか、わが身が今度は追いはぎや野党になるしか生き延びる道はありません。
だから、防人に選ばれると言うことは特攻隊員に選ばれるような悲痛なものがあったはずです。
生きて帰れるかどうかを本人も家族も心配しなければならなかった。
だから、次のような歌があります。
防人に
行くは誰が背と
問ふ人を
見るが羨しさ
物思ひもせず
万葉集 4425番の歌 読み人知らず(不明)
原文: 佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受
よみ: 防人(さきもり)に、行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と、問(と)ふ人を、見るが羨(とも)しさ、物(もの)思(も)ひもせず
意味: 防人に行くのはどなたのだんな様?と何の悩みも無く聞く人を見るとうらやましい。
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つまり、防人に選ばれてしまった男の妻が夫を見送りながら詠んだ歌ですよね。
“どなたの旦那様なの?”と囁(ささや)く声が聞こえてくる。
もうあの人と会えないかもしれないと、私はこれほど心配しているのに、私の心配など全く気にならないように他人事として尋ねているその女性がうらやましい。
私の気持ちを察してくださいな。生き別れになるかもしれないんですよ。本当につらいんです。泣きたいのを我慢しているんですよ。
。。。そのような気持ちを詠んだものでしょうね。
大伴家持は、当時、防人関係の仕事をする兵部省(ひょうぶしょう)のお役人だったのです。
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(西暦775年)に、東国の国々から防人の歌を集めさせたのです。
集まった歌は166首でしたが、家持が選んで84首を万葉集に残しました。
この時は、すでに防人の制度が始まってから、100年近くが経過していました。
歌のほとんどは、家族と離れ離れになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちで詠(よ)んだものです。
なぜ大伴家持は、防人の歌を集めさせたのか?
上に引用した彼の経歴を見れば明らかです。
家持はこの制度に批判的だったんですよね。
大伴家持は当時の政府の役人を務めてはいますが、心の中は反政府的なんですよね。
彼自身も反政府運動に加担していた。
少なくともそのような嫌疑をかけられて罰を受けたことがある。
反骨精神のある人だったことが分かります。
武器を持って反政府運動を繰り広げて政府を転覆したいと思っていたかもしれませんが、それが現実的でないので万葉集という歌集を編纂して、その中に反政府的歌をあつめて歴史の真相を後世に伝えようとしたわけです。
つまり、天智天皇政権の真相を伝えようとしたわけです。
『性と愛にまぎれ込ませて』より
(2006年05月10日)
この上の記事を読んで、美佐代さんはデンマンさんにメールを出すほどに 感銘を受けたのでござ~ますか?
あのねぇ~、『万葉集』は文学の書だとばかり思っていた、と美佐代さんは言うのですよ。。。 でもねぇ~、上の記事を読んで、さらにリンクが貼ってあった関連記事を読んだら、天智天皇は相当ひどいこと、むごいことをしたということが理解できた、と言うのです。。。
それで。。。?
だから、額田女王(ぬかだのおおきみ)の気持ちが、天智天皇ではなく、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)になびいてゆく理由が解ったと言うのです。。。
その理由とは。。。?
だから、大伴家持は『万葉集』の中に額田女王の歌を取り上げて、天智天皇政権の真相を伝えようとしたわけです。。。 結局、天智政権は、天武政権に変わらざるを得なかった。。。 なぜなら、天智天皇は相当ひどいこと、むごいことをしたから。。。
額田女王の恋の歌には、そのような政治的な意味が込められていたのでござ~ますかァ?
だから、美佐代さんも それを知って 改めて卒論を書き直そうと決めたと言うのですよ。。。
マジで。。。?
卑弥子さんは疑り深いのですねぇ~。。。
だってぇ~。。。。
だってぇも、あさってぇも、しあさってもありません。。。 僕の言うことを信じてください。。。 昔の人は“信じる者は救われる!”と言ったのだから。。。
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